「ねえ、ブリジット。どうしてあなたはトリエラを突き放したの?」 ベッドの中、エルザは横で握力運動を繰り返しているブリジットに問うた。ブリジットは運動を続けたまま、こう答えた。「……わからない、じゃ駄目?」 エルザは何も言わない。ただブリジットの寝巻の裾を掴んで、彼女の胸に顔を埋めた。 ブリジットの頬は白い剥れかけのシップが貼り付けてある。 始まりは足の手術を受けたときからか。 人生で初めての剥離骨折を経験した俺だったが、その傷が一週間足らずで完治するのは初めての経験ではない。 俺はそこで、自分の体はどうしようもなく人からかけ離れていて、どう足掻こうと人形そのものであるということを再認識させられた。 さらにはGISとの訓練で否応無しに向上していく反射速度を体感し、鍛え上げられたGIS隊員を投げ飛ばしてしまう筋力も改めて感じた。 一つ一つは些細なことでも、それらは確実に俺を蝕んでいく。 気が付けば、人間の体を持つのに、人形のように生きるピノッキオと、 人形の体を持つのに、人間になろうとしている自分を対比させていた。 俺はそのどちらが正しいかなんて全くわからないし、どちらが正しいかなど比べようも無いのだろう。 けれどもメッシーナ海峡で奴に突き落される時に脳裏を過ぎったのは、奴の境遇への嫉妬だった。 それだけの身体能力と、薬漬けでない体があるのなら、 何より最終的には自由の身になれる立場を得ているのなら、 どうしてそこまで死に急ぐと。 あの時から今に至るまでに生じた迷いは、頑なで強い。 俺は奴に嫉妬したが為に、自身が行ってきた介入行為が本当に正しかったのか分からなくなってしまった。 自分より恵まれたピノッキオが原作に従順なのは、それが正しいからではないのか。 恵まれているのに敢えてそうするのは、そうする事でしか生きてはいけないからか。 疑問は疑問を呼び、さらに俺の迷いを広げていく。 俺はこの迷いを抱いたまま、ブリジットを演じ続けてはいけない。 この迷いに乗っ取られたまま、この体を勝手に傷つけてはならない。だがこの迷いを解決する方法は一つしかない。もう二度と顔を見せるなと言われた。そうするならば見逃してやるとも言われた。けれど俺にはその気はさらさら無い。俺はもう一度ピノッキオと相対し、そしてこの迷いを断ち切るため奴と刃を交える。決局のところ、トリエラが心配だとかそういった感情は言い換えれば自己弁護に過ぎなかった。思えばGISの訓練に耐え続けたのも、ピノッキオを殴り伏せてやりたいという興奮にも似た昂ぶりがあったからだった。俺はピノッキオをどうしようもなく渇望していた。 ● 私はブリジットが少しだけ分からなくなっていた。 二人で最初は共に訓練に励んでいたのに、何時の間にか彼女は何かを抱え込んだまま私を突き放した。 違和感はブリジットがメッシーナ海峡から帰ってきたときだった。 私はそこで彼女がピノッキオに挑んで敗れ、そして負傷したことを聞いた。 正直その報告は私にとってショックだった。 私の中でブリジットは公社の中でも一番強い子になっていたし、何より私が片腕をへし折ったピノッキオなんかブリジット一人で十分片付けられると思っていた。 でも彼女は敗れた。 傷一つ負わせられない惨敗だと聞いた。 私はあのメッシーナ海峡の夜で、ブリジットを揺るがしてしまう何かがあったのだと思う。ピノッキオに何かを言われたのか、それとも何かをされたのか。 変化は些細なものだったけど、月日を進めるたびに彼女の変化はどんどん大きくなっていって、最後には私を砂地に転がして泣きそうな顔で謝ってきた。 私が思わず頬を殴りつけても何も言わずに、そして帰ってくることも無かった。 病室でやっと通じ合えたと思っていたのに、私たちは何処か根本的なところですれ違ったままだった。 その事に気が付いた瞬間、私は涙が溢れてきて柄にもなく泣いてしまった。 私はブリジットが大嫌いで、 何より大好きなのだ。 ● エルザと話して吹っ切れたと思っていたのに、一晩経てばまた一人になりたくなっていた。 彼女の寝床をそっと抜け出すと、ぱっぱと運動着に着替えて訓練所に出向いていった。 すると彼女はいた。「……おはよ」「おはよう。ブリジット」 ベンチマットの上で柔軟を繰り返すのはトリエラだ。普通に挨拶を交わしたのだから機嫌も直ったのかと期待してみたが、彼女はそれ以降、目も合わそうとしない。 一人になりたくてここに来たのは間違いだったと思わざるをえなかった。 そうだ。負けず嫌いの彼女なら、早朝からでもこの訓練場で自主練習をしている筈なのだから。 俺は対になったベンチに腰掛、トリエラの柔軟を眺めていた。同じような動きをしてみようかと一瞬思ったのだが、目を離した隙に何処かへ行かれるとどうにも収まりが悪いので、このまま見守ることにした。 トリエラがそんな俺に向かって声を発したのは五分ほど経過してからだった。「本当に、一人でやるの?」 俺はその疑問に即答で返す。是以外の答えは出てこない。トリエラは少し諦めたように頷くと、こう言った。「私とブリジットって、やっぱり違うんだね」 最初は言葉の意味が分からなかった。 けれど、原作でヒルシャーに向けられていた拒絶が、大分遅れて俺の元にやって来たと気が付いたときにはもう手遅れだった。「ブリジットは私がどれくらいブリジットのことを考えているか全然わかってないんだね。君は私のことを心配してくれているんだろうけど、君が心配するたびに私が心配するってわかってる?」 淡々とトリエラは続ける。俺は反論しようとして、でも何も言葉が出てこなかった。 何故なら俺はトリエラへの気配りを、自分への誤魔化しに使っていたから。「私は馬鹿だからさ、ブリジットとは分かり合えた気分になっていたんだ。でもそれは違った。 君は私を見ていないんだ」 衝撃というには生ぬるい感覚で頭が殴られた。 俺は震える足元を踏ん張りながら、トリエラを向かい合っていた。「ねえブリジット。君は何を見ているの? どうしてそんなに私の知らないところばかり見ているの? それじゃあまるで亡霊のようだよ」 トリエラの台詞は俺の奥底に突き刺さる。 彼女の口から放たれた言葉は、俺が一番聞きたくない言葉だった。 確かに俺たち義体は人間ではなく人形だった。 でも、俺は。 ブリジットでありながらブリジットでない俺は。 少しでも踏み外すと、人形ですらない。 昔エルザに叫んだのは俺の孤独だった。 この世界で確固たる居場所がない俺はさながら亡霊のようで、突き詰めてしまえば誰も本当の俺を知らない。 だからこそ俺は俺を認識してくれるピノッキオともう一度会いたかった。 はっきりと拒絶の意思を示されても、出来れば分かり合いたかった。 俺が恐れていたのはトリエラの負傷でも、自分の抱えた迷いを消せないことでもなかった。 俺が本当に恐怖していたのは、俺を唯一認識してくれるあの男を失うことだった。 それは何と醜く、何と自分勝手な言い分だろう。 散々原作を弄んで、ピノッキオと離別する行為を続けていたというのに、俺は身勝手な理由でピノッキオを、トリエラを、この世界の人間を利用しようとしている。 はっきり言って、そんな行為が許される筈が無い。 それでも俺は縋り付くしかなかった。 トリエラは何も悪くない。トリエラはただ、俺のそんな見るに耐えない姿を指摘しているだけなのだ。「……何か、言い返してよ」 俺は何も言えない。何も言える筈が無い。「私、とても酷いこと言ってるのにどうしてブリジットは言い返さないの?」 一歩、トリエラから逃げた。 それが引き金になって、俺は彼女の前から一刻も早く消え去りたくて、足を進める。 この日、俺とトリエラは決定的にすれ違ってしまった。いや、元からズレていたことに今更気が付いてしまった。 もう、後には戻れないと思う。 同刻。 昨晩からデスクに詰めていたアルフォドは、ブリジットが部屋に戻らず、エルザの部屋に泊まったことについて問いただすべきか否かとひたすら考えていた。そんな彼の肩を叩いたのは、奇しくもヒルシャーその人だった。「アルフォド、君は少し休むべきだ。実父の墓参りも結局キャンセルしたんだろう?」「休みなら十分貰ってるよ。最近はブリジットの任務もないから落ち着いている」 そんなアルフォドの台詞にヒルシャーは溜息を隠さなかった。「僕が言いたいのはそういうことじゃないんだけどな……。ところでブリジットの暇だが、それも今日で終わりだ」 アルフォドが怪訝そうにヒルシャーを見上げる。するとヒルシャーは一枚の書類を差し出してきた。 その内容に、アルフォドは目を見開く。「クリスティアーノの検挙。明日に決まった」 終焉は着々と近づいている。 ● 原作とのズレはこんなところにも出てきた。 叔父さんの検挙の知らせが一日前に届いたのだ。それは公社の対応の意味が原作から剥離していることの証明でもある。 けれど結果的に生じる事象は原作と大差が無いので、僕は一日早く叔父さんの屋敷に向かうことにした。 そうしないと、フランカフランコに不思議がられるし、実際どれくらい原作から乖離しているのか確かめる時間も必要だった。 ただ僕の頭の中に残るのはあのイレギュラーな義体のことだ。 正直な話、あの義体が取る行動は二つ予想できる。 一つは僕の忠告を聞く、或いはどうせ死ぬ僕に興味を無くし何も干渉してこないか。 もう一つは意地でも干渉して僕に挑んでくるか。 まあ、二つ目の可能性については公社に強制され――というかかなりそうなる見込みが高い。 これに関してはもうどうしようもないので、彼女に殺されることで僕の終わりを迎えるしかないと結論付けた。出来ればトリエラの手に掛かりたかったが、そもそも初邂逅の時点でズレが生じていたのだからある意味仕方ないと割り切るしかない。 本来ならあの義体を恨んでしかるべきなのだろうが、不思議とそういった感情は湧いてこなかった。 ただ彼女も彼女なりにこの空虚な世界に意味を持たせたかったのだと思うと、同情すら湧いてくる。 あのブリジットと名乗った義体は、僕は愚か、彼女も原作で見つけることが出来なかった義体だ。 僕のようにこの世界が偽りの世界だと気が付いても、彼女が指針とすべきシナリオが存在しなかったのだろう。 それは何とも恐ろしいことで、悲しいことなのだろうか。 多分、彼女は一人ぼっちなのだと思う。 僕のようにピノッキオという拠り所が無いばかりか、ブリジットという呪縛にも似た体を与えられて、魂だけはそのまま亡霊のように彷徨っている。 まるで僕が惑い、逃げ出してきたあの暗闇の迷宮に随時いるようなものだ。 同郷の好として、似た境遇のものとして僕は彼女を助けてやるべきなのだろう。 でも、僕自身が僕の居場所を得るのに精一杯な以上、彼女を救うことは僕には出来ない。 ならせめて、僕が原作通りにあの屋敷で死んで、彼女がまだ原作に縋っていけるようにしてやろうと思う。 僕は体中に隠しナイフを仕込むと、誰にも見送られることなくそっとワイン畑を後にした。