前の人生は、自分で言うのもあれだけど本当に碌でもない人生だった。 薄給で深夜遅くまで現場に駆り出され、怪我をしてもまともな給付を得られることは出来なかった。 挙句の果てには、勤務先で突っ込んできた乗用車に押しつぶされあっさりと死んでしまった。 居眠り運転だった。 だが僕は死のその瞬間まで、何一つ悲観することは無かった。 この世に思い残すことなんてこれっぽっちも無かったし、仲の良い友人といっても大学で出会った男友達が一人だけだった。 ぎりぎりと体が潰され、全身から血と肉が溢れ出ていくなか、僕はその世界と別れを告げた。 次の人生がもしあるのならば、せめてもっと幸せな人生であることを願いながら。 ILTEATRO 僕は人形、人間にはなれない。 長いこと、果ての無い迷宮をさ迷っていた。そこはとても真っ暗で静かな場所だった。 僕は音も光も匂いもないその世界で、発狂と覚醒を繰り返しながらただ歩き続ける。 地獄というものは信じていなかったけど、これが地獄だと誰かから教えてもらったら素直に信じてしまうような、そんな場所だった。 歩けど歩けど光は見えない。 もう何日も、何ヶ月もその暗闇に惑わされている。 そして遂に日数も分からなくなり、気が遠くなるほど光を失ったときにそれは唐突に現れた。 失っていた体が、 はっきりとした自我が、 僕という存在が再構成されていくのが分かった。 これが新しい次の人生の始まり――つまり転生だと悟ったとき、僕は光に包まれた。 その光はとても暖かくて、僕は思わず声を上げる。 辺りに響く赤ん坊のような泣き声を聞いたとき、僕は生を実感した。 二度目の人生には余計なおまけが一つだけ付いていた。 僕はそれを神が与えた罰なのかもしれないと考えていた。 この小さな頭の中には生まれ変わるときに消えてしまう筈の、前の世界の記憶がそのまま残っていた。 僕はそんなものこれっぽっちも有難いと思わなかった。 まだ同じ日本に生まれたのなら兎も角、 欧州のイタリア、そして以前とは全く違う家庭環境に送られた僕には日本で得た知識など殆ど役に立たなかった。 それでも、優しい使用人や家族に触れるたびに僕の幸せはここにあるのだと思った。 今度は死の間際くらい現世に悔いを残せるような、そんな人生を送りたかったのだ。 僕の新しい家族は四人いた。 父と母からなる両親。 そして二人の姉。 父は後から分かったことだけど、地元のマフィアを纏める組織のボスだった。麻薬や銃器の密売も行っていてしょっちゅう警察に睨まれていた。けれど僕たち子供の前では絵に描いたような良き父だった。休日は出来るだけ家で過ごし、二人の姉がスクールの夏休みに入ったときは家族五人でよく別荘に遊びに行った。僕を後ろから抱え込み、一緒に湖へ釣竿を垂らす父は頼もしかった。前の世界では決して手に入らなかったものだった。僕は父が大好きだった。母はとても美人な人で、元は田舎のワイン畑のオーナーの娘だった。僕のプラチナがかった髪色は母の髪色だ。彼女は料理が上手で、夕食などの普段の食事は使用人に任せていたが、時折ケーキなどを作っては二人の姉や僕に食べさせてくれていた。父との仲もとても良く、目立ったトラブルはそれこそ無かったと思う。そして不思議と包容力のある人で、中身が大人である僕でも自然と甘えたくなるような人柄だった。今更だけど、僕の新しい名前である「アルフレッド」と名づけたのは母だった。彼女の祖父の名前から貰ったらしい。僕は母が大好きで、彼女もまた、前の世界では決して手に入らなかったものだ。上の姉の名前はエンリカと言った。性格は母譲りの優しい人だけど、髪色は父の黒色だ。僕が五歳になった頃にはもう大学に通っていて、随分と年の離れた姉だった。彼女は使用人と共に時折僕を待ちに連れ出しては、社会勉強という名目で色々な史跡を見せてくれた。大学でも古代ローマ史を専攻しているらしく、まだ年端も行かない僕相手に非常に熱心にコロッセオのことを語ったこともある。ついでに婚約者も決まっているらしく、何度か家に連れてきているのを見ていた。エンリカはとても幸せそうで、僕は彼女が家族の中で一番大好きだった。誰かをここまで大好きになるのは、前の世界では決して無かったことだ。 下の姉はイザベラと言った。 上の姉とは五歳離れていて、母の容姿と父の性格を持っていた。 彼女はとても静かな人で、いつも自室で本を読んでいるか中庭で鳥の観察をしていた。活発的なエンリカとは正反対の姉だ。 けれど、僕のことを一番考えてくれていたのはイザベラだった。 頭の中にある日本語のせいで僕がイタリア語の勉強に難儀しているときでも、彼女は自室から持ってきた絵本で根気良く言葉を教えてくれた。 他にも色々と世話を焼いてくれたけど、一番心に残っているのはとある夏の午後の話だ。 体も大きくなって、自分で好きに歩きまわれるようになったころ、僕は屋敷の中を探索のつもりで歩き回っていた。 父が使用人に暇を出している所為か屋敷の中は閑散としていて、誰も僕のことを咎めなかった。 けれど調子に乗りすぎた僕は、生まれてから一度も足を踏み入れたことの無い西館の中に迷い込んでしまった。普段は使用人の生活の場に使われているそこはとても薄暗くて、気味が悪かった。 でも何より堪えたのは、延々と続く味気の無い廊下が何時ぞやの迷宮に見えたことで、僕は当てもなく世界をさ迷っている錯覚に陥った。 自身の行動を嘆いてももう遅い。 気が付けば僕は泣きながら走り回っていた。 中身が大人だとか、そういったものを抜きにして、あの恐ろしい体験が目の前に迫っているようで僕は精一杯泣き続けた。 もう二度とあの暗闇には戻りたくない。 やっと手に入れた家族の幸せを失いたくない。 僕はこの世界に来て初めて、自分が手に入れたものの意味を知った。前世の記憶は神の罰だと思ったけど大間違いだった。 前世の記憶があるからこそ、僕はこうして生きているのだ。「アルフレッド!」 程なくして、僕は姉に捕まった。 部屋にいないことを不信に思ったイザベラがわざわざ探しに来たのだ。そして彼女に手を上げられたのはこの事件が唯一だと記憶している。 僕をぶった彼女はその後強く強く僕を抱きしめ、泣いている僕をあやした。 僕はイザベラの胸に顔を埋めてわんわんと泣いた。 この優しい姉が僕の手からすり抜けてしまわないよう、しっかりと抱きしめ返して。 僕は生まれ変わったこの世界を、心底愛していた。