本日もう何度目かわからない空中浮遊を俺は体験する。GISの隊長に投げ飛ばされた体はゆうに三メートルは飛んでいった。「くそっ」 両手で地面を蹴り、受身の姿勢をとる。 しかし、何とか着地した俺の体を、隊長はあろうことが思い切り蹴りつけた。 今度こそ正真正銘のKO。地面に顔面を打ちつけ、盛大に鼻血を噴出した俺は大の字になって起き上がれなくなった。 痛み云々以前よりも、体がこれ以上動いてはいけないと警鐘を鳴らすのだ。手足の筋肉が振るえ、全く力が入らない。「ふん、少しは根性ある奴かと思ったがこんなものか」 余裕たっぷりにこちらを見下ろす隊長が憎い。だが俺はそんな安い挑発に乗らない。勝機は今じゃないのだ。「期待外れも甚だしいな」 一向に起き上がってこない俺に見切りを付け、隊長がこちらに背を向けたのが唯一のチャンスだ。残された力を総動員して俺は飛び起きる。そして隊長が振り返る前にその太い首元へハイキックを見舞ってやるのだ。「いい一撃だ。しかしまだまだ甘い」 思わずバケモノ! と悪態を吐きたくなる。原作でもトリエラがコテンパンにやられていたから相当の達人だと警戒していたが、これ程とは思わなかった。 普通、完全に死角からのハイキックを素手で止める人間は存在しない。「うわっ!」 次に投げ飛ばされた時、受身をとる体力など既に残されていなかった。全身に擦り傷をこさえながら、俺は無様に地べたに這いつくばる。ここまで完璧に押さえられると、逆にもうどうでも良くなった。「どうした、テロリストは待ってくれないぞ」 しかしこの隊長はまだ俺が歯向かってくると期待しているらしく、一向に訓練の終了を告げない。 様子を見守っているアルフォドの方を視線だけで盗み見しても、特に反応が見られなかったので仕方なしに起き上がる。これは後でパフェ辺りを買ってもらわないと堪らない。「けほっ」 よろよろと構えを取り、口の中に溜まった砂利と血を吐き出して隊長に突進する。だがただ闇雲に突っ込むのではなく、衝突の瞬間に急ブレーキを掛けて。「!」 この日初めての驚きの顔を見せたのは隊長だ。俺を投げ飛ばそうとしていた腕が一瞬だけ宙をさ迷う。 俺は再び地面を蹴ると、その丸太のような腕を掻い潜って隊長の体に組み付いた。技で勝てないのなら力押し。我ながら単純だと思うがそれでも効果はそこそこあった。「ぐっ」 隊長の巨体が若干後ろへ退く。炭素フレームと人工筋肉で出来た体だから出来る芸当だ。 けれど大人と子供の体格差は如何せんどうしようもなく、スタミナ負けした俺がじりじりと押され始めた。 そして――、「きゃあっ」 今度は投げ飛ばしではなく組み伏せが俺を待っていた。巨体で地面に押し付けられ息が出来なくなる。 積もり積もった疲労がピークに達し、遂に俺は動けなくなる。隊長も無理に起こそうとせず、駆け寄ってきたアルフォドに抱きかかえられて俺は大人しく退場になった。 訓練場の脇に作られた仮設テントに運び込まれて、擦り傷の手当てを受ける。 俺の隣では鼻に詰め物をしたトリエラが目元にタオルを置いてのびていた。「勝てた?」「全然駄目。馬鹿みたいに投げられた」 トリエラから新しいタオルを受け取って顔を拭く。白かったタオルが砂やら血やらであっという間に汚れた。幾ら取り替えが利くからって女の子をここまでボロボロにするか普通。「あれだけ強くてもまだピノッキオより弱いんだよ……」 呻き声にも似たトリエラの声が聞こえる。確かにあの隊長は強い。それでもピノッキオから感じたような畏怖にも見えた強さではない。「勝たないとね……ピノッキオに」「うん」 二人してGISの訓練風景を眺める。このミニキャンプに参加して早一週間。早くも自分たちがいかに実力不足か痛感する一週間になっていた。「どうでした? あの二人は」 アルフォドとヒルシャー、二人の担当官は教練の廊下でGISの隊長と向かい合っていた。隊長は少し思案するとこう答えた。「トリエラとかいうウサギ、あれはまだまだだな。速度に頼りすぎている。一度いなされると建て直しがきかん。 それに比べてブリジットとかいう猫は、まあ機転は利くな。速度で適わないと分かると力業で挑んできた。だが訓練不足だ」「二人ともお目には適いませんか」 ヒルシャーが息を吐く。彼らもまた、自慢の義体がここまでコテンパンにやられるとは思っていなかった。「いや、あと数ヶ月ここに通わせろ。二人ともピノッキオとかいう小僧に負けない体にしてやる。こちらも女子供相手の訓練が出来るから好都合だ」 隊長が言うには二人とも才能はあるが、恵まれすぎた身体能力でそれらを殺してしまっているらしい。 だからこのまま負けが込めば、その内身体能力に頼らない戦い方が出来るようになるそうだ。「それは有難い話です。是非ともお願いします」 二人の担当官が頭を下げる。 この瞬間からブリジットとトリエラ、二人の本格的な訓練生活が始まった。 全てはピノッキオに勝つ。それだけの為だ。 当然のことだが、ブリジットがピノッキオに敗北したという知らせは公社の作戦課を大いに悩ませた。彼らにとっても義体が生身の人間に連敗するとは予想外のことだったのだ。 しかもピノッキオのその後の足取りは依然として掴めておらず、軍による武器密輸の問題と合わせて大きく公社に圧し掛かっていた。「どうもブリジットの交戦記録が不鮮明ですが、これはどういうことか」 査問委員会に問い詰められたアルフォドはこう答えた。「二十四回目の定例報告会を終えた直後に音信不通になりました。 現場から破壊された無線機が見つかったことから、この瞬間に二人は交戦したものと思われます。 我々は丁度橋脚の陰に潜んでいたために応援が遅れました。全て私の責任です」 実際のところ、公社にとって敗北責任の所在はどうでも良かった。 重要なのは今後ピノッキオと相対した場合、もしくはピノッキオの処理の仕方だった。 やれ義体の数で押せだの、出来るだけ交戦を控えろだの様々な意見が提示されたが、最終的に公社が選択したのはこのプランである。【ブリジット、トリエラの両名を使った二対一作戦を遂行する。ただし両名共に要訓練】 五共和国派の掃討における虎の子二人を使った贅沢な作戦だった。だが確実性も踏まえ、もう一つのプランも同時並行で行われることとなる。【ピオッキオに最も近いクリスティアーノの早期逮捕、もしくは殺害】 こちらに関してはクリスティアーノ周辺の活動家達の裏切りもあり、早期の実現が確実視された。さらに公社から襲撃の気配を伺わせておけば、クリスティアーノの子飼いであるピノッキオの出現も見込まれる。 つまりクリスティアーノを襲撃すれば自ずとピノッキオも始末できるということだ。 以上を持って五共和国派ミラノ派閥の名士、クリスティアーノの包囲網が敷かれる手筈となったのである。 クリスティアーノの逮捕という結果は同じでも、その過程が原作から大幅に逸脱した事実にブリジットそしてピノッキオ両名は遂に気が付く事は無かった。 これは後に、彼らの運命を大きく決定付けることとなる。 GISの隊員に混じっての走破訓練は地獄そのものだ。 十キロの装備とは言わないが、それでも四キロを超えるライフルを担いでの悪路ランニングは堪えるものがある。スタミナが絶対的に足りていないと診断された俺は前述の訓練を一日中こなす事になった。 因みにトリエラはひたすらGISの隊員と格闘組み手らしい。「げほっ、げほっ」 ランニングが終了したら浴びるように水を飲む。咳き込みながらの飲水は血の味がした。手足のマメはとうの昔につぶれて、不細工なテーピングで覆い隠している。「おいっ子猫! 誰が休んでいいと言った! こっちへ来てお前は組み手だ!」 隊長のどぎついラブコールを受けて俺は格闘訓練所に向かう。視界の隅では叩きのめされたトリエラが転がっているが、今は他人の心配をする余裕がない。 ピノッキオとの決戦まで恐らく三ヶ月少し。 今は目の前の巨漢共を圧倒する事が、俺とトリエラに課せられた使命だった。