最初はぎこちなかったブリジットの動きは大分改善された。格闘も一般人を圧倒できるくらいの技量を手に入れていたし、射撃に至ってはプロの軍人も顔負けするほどの腕になっていた。 ヒルシャーさんやアルフォドさんは才能だと驚いていた。 私も的を正確に射抜き続ける彼女に見蕩れる事が多くなっていた。 思えばこのときから私の中で彼女に対する親愛と嫉妬が芽生え始めていたように思う。 出会った頃よりかは少しでも心を開いてくれたのか、ブリジットは私とクラエスの二人と行動することが増えていた。「他に頼れる人間がいないから、」という消極的な考えで彼女が私たちに近づいていたとしても、大きな進歩には変わりなかった。「ねえブリジット。今日はいつにも増して小食だね」 ここは食堂。私たち三人は午後の訓練を終えて、ちょっと早い夕食を取っていた。私はバジルソースのパスタ。クラエスはカジキのソテー、ブリジットはいつものようにトマトピザだ。 ブリジットは手にしていた切り分けられたピザをトレーに戻すと、困ったように笑って見せた。「明日、私の初実戦があるんだ。緊張しているわけではないんだけど、どうしても意識しちゃって……」 私とクラエスは二人して顔を見合わせた。二人ともブリジットに返す答えを咄嗟に用意することが出来なかったのだ。 ブリジットは続ける。「人を殺すのだからもっとドキドキしたり、怖がらなくちゃいけないのに、今の私は任務の成否を心配してもその他のことは何も心配していないんだ。これって何かおかしいのかな」 彼女の疑問は尤もだと思う。義体化される前なら人並みの倫理観や同属保護の拒否反応によって人を殺すことを恐れたり、疑問に感じたりするものだが、今の私たちにあるのは担当官――強いて公社の命令に従うことだけだ。そこには倫理も何もない。盲愛と敵に対する憎しみだけがある。 だが目の前の少女、ブリジットはどうなのだろう。 彼女は――私はともかく、他の義体の子たちに比べて随分と担当官に対する愛が希薄だ。一応敬愛はしているのだろうが、やはり薄い。 憎しみに関しても、彼女の場合消された記憶が深すぎるらしく、私たちのように生前の断片のような夢を見ないらしい。 これではテロリストに対する憎悪を糧に戦い続けることは出来ないだろう。 私は目の前の、如何考えても先が続きそうにない彼女に同情した。 目的も使命もないのに人を殺し続けるということは、何物にも変えがたい地獄のように思われたからだ。 ブリジットが再びトマトピザを咥えて席を立つ。 私とクラエスは、髪を左右に揺らしながら食堂を出て行くブリジットを静かに見つめていた。 目覚めるのが辛い。 私の名を呼ぶのはブリジットだ。 私は彼女に会いたくなかった。 私の中で渦巻く変な気持ちの所為で彼女が怖い。 明日は望まなくてもやってくる。 ブリジットの初実戦の日、私はバックアップに回っていた。 彼女が乗り込んだ麻薬密輸の取引場から少し離れた駐車場で私は待機を続ける。夜風に乗って断続的な銃声と悲鳴が耳に届いた。 暫くの無音の後、重なった銃声が夜を切り裂く。 周りにいた担当官たちがざわつき始めたのはその直後だった。ブリジットが持っている筈のインカムから応答が無くなったのだ。インカム自体が壊れたのか、それともブリジットが戦闘不能になったのか。 ブリジットの担当官であるアルフォドさんはブリジットの救出を要求するが、詳細な戦闘データを取りたがるジャンさんたちは反対した。変わりに同じ義体である私の応援が命令された。 ヒルシャーさんからウィンチェスターとSIGを受け取り、最後に銃声がした方向へ進む。すると少し位置のズレたところで再び銃声がした。ブリジットはまだ戦闘を続けているようだ。 私の耳元でインカムが通信を受け取る。声はアルフォドさんだ。「トリエラ、彼女はまだ無事だ。早く連れ戻してくれ」 アルフォドさんの台詞の意味が分からなかった。早く助けてくれならまだしも連れ戻せとは命令違反ギリギリの要請だ。撤退の許可は出ていない。 でも――、「君しか頼めないんだ。頼む」 彼の怯えた声からもうなりふり構っていられないということだけは伺えた。私は歩速を早め、積み上げられたコンテナを飛び越し現場へ近づく。 そして最初の銃声が下であろう積荷の隙間に飛び降りた。 そこで私は自分たちがしてきたことの意味を知ることになる。 人を殺すのだからもっとドキドキしたり、怖がらなくちゃいけないのに、今の私は任務の成否を心配してもその他のことは何も心配していないんだ。これって何かおかしいのかな。 ブリジットは食堂でそんなことを言っていた。あの時は何も返せなかったけど、今なら確かに彼女へ答えを告げられる。私はぬめりをもった水溜りに立ち尽くしながら、こう吐き捨てた。「ブリジット、君は確かにおかしいよ。狂ってる。やり過ぎだ」 むせ返るような血の臭いに吐き気を覚えながら、ウィンチェスターに括り付けられたフラッシュライトを点灯させた。後悔することは分かっていたけど、でもこうせずにはいられなかった。 出来れば彼女の凶行が幻であることを願って。 しかしながら、そんな淡い期待はコンテナに広がった真っ赤な花で粉々に打ち砕かれた。 目の前に広がるのは胴体をバラバラに寸断された男の死体。一人分にしては量が多かったので頭を数えてみれば三人分あった。どれも下顎を引き剥がされ、地面に上顎の歯が食い込んでいた。 誰の仕業か考えるまでもない。 私は悪夢を振り払うように頭を振ると、血の跡が続く狭いコンテナの隙間を縫うようにしてブリジットを追った。 彼女はあっさりと見つかる。あれだけの返り血を浴びたのだ。赤い足跡を辿れば直ぐだった。 ブリジットは追い詰めた男の死体の前で座り込んでいた。こちらの男はバラバラにされておらず、よく見なければ銃創を探すのも困難だった。 ブリジットが振り返る。頬が血で濡れていた。だがそれは見覚えのある、私の拳によく付着していた彼女の匂いがした。「撃たれたの!?」 駆け寄る私にブリジットがもたれ掛る。黒くなった彼女の服を巻くり上げると、腹に穴が開いていた。 脂汗を掻いた顔でブリジットが口を開いた。「俺さ、一人殺しても怖くならないから二人目を殺したんだ。その時そこの死んでる奴は逃げ出した。残った三人目は足を撃って動けなくしたよ。そして一人目と二人目の死体をバラバラにしたんだ。少しは罪悪感が湧くかと思ったけど全くだった。だから三人目をバラバラにした。生きたまま手足を穴だらけにしてナイフで少しずつ。それでも何も感じないんだぜ? だから最後の奴は生かさず殺さず追い掛け回した。するとどうだ、罪悪感より嗜虐心が湧いたんだよ。倫理観は頭で理解していても、初めて沸いた殺人の感情が攻撃の本能だったんだ。馬鹿みたいだろ?」 ブリジットの顔が月明かりに照らされて白く光る。私は彼女の二つの胡乱な瞳を覗き込んだ。涙で滲み、闇が支配するその目の色は、私が初めて見る彼女の感情らしい感情だった。 私は強く強く彼女を抱きしめて救援の報を本部に送った。 密輸犯は全員死んだこと、ブリジットが負傷したこと。そして私が保護したこと。「ゴメンね、トリエラ」 ブリジットの細い指が私の頬を撫でた。彼女の荒い息に混じって口の端から血が流れている。 私が「大丈夫だよ、」とブリジットに語りかけたとき、彼女は深い眠りについた。 ブリジットが病室で目を覚ましたとき、私は枕元にいた。 様子をよく理解していないブリジットの髪を取って、そっと頭を撫でる。「トリエラ?」 彼女が私を見上げる。私は起き上がろうとする彼女を制すると、彼女の頭を抱え上げてベッドに登った私の膝の上に置いた。「もう大丈夫だよ。ブリジット」 私を見つめる二つの瞳がいつかの時みたいに涙で濡れる。彼女はひくっ、と一つ声を鳴らすとそのまま声を上げて泣いた。手の平で顔を隠し、ぽろぽろ零れる涙を拭いた。「ごめんなさい、ごめんなさい、私殺しちゃった。私殺したのにぜんぜん怖くない」 あの夜、初めてブリジットの感情を覗き込んだとき、私はこうなることに薄々気がついていたように思う。そして望んでいた。ブリジットは誰かと触れ合いたがっていたのだ。でも彼女の周りには私には見えない、私たちとは決定的に違う壁があって、同じ世界を生きている人には感じられなかったのだろう。それは意味もなく人を殺すことをより遥かに地獄でおぞましいことだ。 けれど。 ブリジットはあの夜からこちら側に足を踏み入れたのだ。 ブリジットは何も感じないということが怖いと言うけど、何も感じなくて良かったのだ。 ここで変に罪悪感を知ってしまうと、彼女は永遠に一人ぼっちだったに違いない。 あの時と違って、私は起き上がったブリジットをそっと抱きしめた。やがて、彼女が震えながらも抱きしめ返してくれたとき、私はやっとこの黒髪の女の子と心が通じ合えたことを実感した。 今だから告白しよう。 私はブリジットのことが大好きで、そして大嫌いだ。 愛とも恋とも違った愛情が私の中で彼女に向けられているし、 彼女の持つ才能に対する嫉妬も羨望も抱いている。 それでも。 私は彼女の良き友人でもあるし、良きライバルでいたいと思っている。 もし私が彼女とのこれからを望むなら、眠り続ける私に呼びかけを続けるブリジットの声に答えねばならない。 私が手を伸ばした先、ブリジットの頬があった。 その頬は決して血で濡れているわけではなく、また涙で濡れているわけでもない。 彼女が私の手を握り返したとき、こう心の中で思った。 先ずはエルザからブリジットを少しでも取り返してみよう。 目を開けた先、ブリジットの笑顔がある。私は痛む体を押して、そのまま彼女の首に抱きついた。 ブリジットが背中に手を回してくれた感触に涙が出そうになった。「トリエラは元気だったか?」 無理を押して病院に泊まらせて貰っていた俺は、数日振りに公社へ戻っていた。アルフォドと二人してサロンでくつろいでいる。「ええ。もう大丈夫そうでした。昏睡も神経の保護機能によるショックらしいですし」「まあな。君たちはあれぐらいじゃ後遺症一つ残らないよ」 アルフォドに貰ったケーキをフォークで切り崩しながら俺はトリエラのことを考えていた。それは今になって意識される、俺の中での彼女のウェイトだ。「忘れていた筈なのに……」 アルフォドが「ん?」と首を傾げるが俺は気がつかない振りをした。ベッドで眠るトリエラを見たとき、俺が思い出したのは初めて人を殺した後の目覚めの日だった。 あれからいろいろあって今の俺がいるのだけれども、何はともはれきっかけはトリエラの抱擁だった。 彼女の温かみを感じて、物語ではないこの世界を意識した瞬間が俺の人生の始まりなのだ。 残されたケーキを口に放り込み、アルフォドさんに別れを告げると、俺は自分の居場所である自室に戻った。 斜光が差し込む部屋ではクラエスが描いていたであろう絵が残されている。おぼろげに輪郭が残されたそれは写生ではなく、彼女の心の風景を描いたものなのだろうか。 俺は自身のベッドに倒れこむと、まだ手の中に残っているトリエラの温もりを見つめた。 どうせお互い先も長くないし、 世間の人の誰にも知られないまま死んでいくのだろうけど、 俺が戦い続け、そして元の物語に抗う理由はこの手の中にあったのだ。 義体で、しかもいろんな意味で監視の目がきつい俺に出来ることは少ない。 それでもこの命に代えてでも、俺はトリエラに幸せになって欲しかった。 あの日の夜、死体の前で絶望していた俺を助けにきたヒーローは彼女だった。 ベッドの脇からブリジットはこの前までトリエラが使っていた櫛を拾い上げた。「私がいない間は自分で手入れするかクラエスにやって貰いなさい」と渡されたそれをブリジットはポケットにしまう。 もし次に見舞うか、それが無理なら彼女が帰ったときにでも、互いに髪の手入れをしてみようかと思う彼女だった。