「これからコーエンていう人を探しに行くから数日明けるね」 トリエラが午後のお茶の時間にそう切り出したとき、俺は情けないことにその人物が誰かわからなかった。 言い訳をさせてらえれば、俺のいるこの世界は明らかに原作とは違う方向へ進んでいるように思えて、(エルザが生きている等)コーエンという名を聞いてもまた新しい人間が出てきたな、としか考えなかった。 しかしあとでシャワーを浴びならがら、落ち着いて考えてみると俺は彼の名前を知っていた。 それはピノキオ編の始まりを告げるキーパーソンであると遅ればせながら気がついたのだった。「コーエンて、ピーノに殺された公社の工作員じゃないか……」 後悔してもあとの祭り。 トリエラヒルシャー組はとうの昔に出発していて、任務に割り込もうにも俺たちブリジットアルフォド組は既に別の仕事を振られていた。 まあトリエラ自体もピノッキオに敗北するとはいえ、殴られて気絶するだけなのでそれ程心配する必要はないと思っている。むしろ危惧すべきことは、この世界におけるトリエラが自身の敗北をどう受け取るかだった。「原作よりは……明るいというか子供っぽい、のか?」 恐らくクラエス以外に年の近い俺がいる所為だろう。この世界のトリエラは年少組には頼りになるお姉さん、俺やクラエスなどの年長組には若干甘えてくるキャラクターを演じているように思う。 彼女の仕事に対するスタンスはそれ程変わっていないように見えるけれども、何せピノッキオ編のトリエラはとても情緒不安定なので今後の展開がどうなるかまったく予測が付かなかった。 とりあえず様子見を決め込むしかないので、俺は自身に振られた仕事に専念することにする。 因みに仕事とは年少組への射撃指導だった。 最近ぶっ倒れてばかりなのに、随分と信用されているものである。 あのカウンタースナイプミッションからだろうか。私が彼女のことばかり考えるようになったのは。 ユーリと呼ばれる殺し屋の死を見取った私はそのあとl、任務を成功させたのに何故か涙を流し続けるブリジットを目にしていた。 よくも悪くも皆のムードメーカーな彼女がここまで泣いているのは正直異常だと思った。 でも担当官の大人たちは何も教えてくれなくて、ブリジット自身も翌日は何事も無かったかのようにお菓子を食べていた。 彼女にそれとなく訳を聞いても「わからない」と彼女自身が頭を捻っていた。 私はそんなブリジットを見ているととても悲しくなって、思わず彼女を抱きしめていた。あの子は終始不思議そうに私を見ていたけれども、私は暫くそのままにしていた。 私の知る限り、ブリジットより強い義体の子は公社には存在しない。 射撃、特に狙撃に関しては天性の才能でもあるのか、彼女の適正は正直信じられなかった。あれだけビル風が吹いていたカウンタースナイプミッションでも、彼女は見事狙撃を成功させている。 私の知る限り、公社に来た始めの頃は銃を握っても怯えてばかりで、あんなに上手じゃなかった。むしろ下手糞な部類で、いつもジャンさんに叱られていた。 それがいつからか、人が変わったように上達するのだから世の中というものはよくわからない。 格闘について言えば、まだ私の方が勝っていると思う。組み手訓練でもまだ私は土を付けられていないし、彼女自身滅多に格闘を実戦でこなすことはない。 まあそれも銃の扱いに長けすぎていて、接近戦をする必要がないというのもあるかもしれないが。 でも最近、ブリジットには格闘の才能が無いのではなくて、まだ体の使い方がよくわかっていないのではないかと考えることがある。 反応速度や体のバネの力を見ていても、あれは恐らく私以上のポテンシャルがあるように思う。 彼女はまだ白兵戦の師がいないだけで、このまま組み手を続けていれば、いずれ私が敗北を記することになるのは明らかに予想できた。 私の中に渦巻くこの感情が、ブリジットに対する嫉妬なのか賞賛なのか私自身もよくわかっていない。 でも何となくだけど、このままブリジットに気を取られすぎていると私も彼女も足元を掬われてしまうような気がしてならない。 今はただ、漠然としたこの不安が的中しないことを祈ることしか出来ないが。 度の高いワインを煽ったトリエラが思わず咳き込んだ。 有名なワインだからてっきり知っているものだと思っていたヒルシャーは、彼女の意外な行動に苦笑するしかなかった。「知らなかったのか?」「知っていましたけど、ここまでとは思いませんでした……」 ヒルシャーがハンカチを取り出しトリエラに渡した。ヒルシャー自身も少しだけワインを口に含む。確かにこれだけアルコールが効いていれば咳き込むのは無理なかった。 彼らはコーエンという行方不明になった工作員を探しに、モンタルチーノという田舎町に来ていた。「ニコラス カンビオ……あった。これだ」 ヒルシャーがホテルの客員名簿からとある人物の名前を見つけた。トリエラが誰ですか? と問うが、ヒルシャーはコーエンの偽名の一つだと答えた。 ホテルのフロントの男が困った様子でこう告げた。「この方は外出されたきり戻っていらっしゃらなくて……、こちらもほとほと困っていたんですよ」 聞くところによればもう三日も連絡が付かないらしい。いよいよ警察に届けようか迷っていたところに、ヒルシャーとトリエラが尋ねてきた形だ。 「彼の止まっていた部屋は?」「まだそのままですけど……、貴方がたは?」 フロントが訝しそうに尋ねてくる。ヒルシャーは何食わぬ顔で偽造の身分証を提示した。「ローマから来た刑事だ。……宿代はこれで足りるかな?」 見知らぬ男が刑事と名乗ったことと、支払われていなかったカンビオという男の宿代が支払われたことで安心したのか、フロントは上機嫌にホテルのキーを差し出してきた。 トリエラは横目でその様子を見守りながら、毎度の事ながらよくやるものだと感心していた。「まあ僕はいわゆる「元警官」だからな。いわばこの身分証は『偽造された本物』 これはもう99%本物の警官だよ」「ですが……、私は何から何まで偽者ですね」 そう言って、トリエラは自身が着ている女性もののスーツを摘んだ。一応小柄な警官という設定だが、本人は何か釈然としないものがあった。「はっはっは。じゃあトリエラにも警官IDを作ろうか。君の器量だ。上手く化けられる」 ヒルシャーがフロントから預かったマスターキーで部屋の鍵を開けた。トリエラが銃を構え、そっとドアノブを回す。「またそんな冗談を……」「堂々としていれば意外と何も言われないものさ」 ドアが開けられ、二人は同時に中へ踏み込んだ。「さて、コーエンはどんな手がかりを残しているのかな。トリエラはスーツケースを空けてくれ」 言われてトリエラは書斎机のしたから黒いスーツケースを引っ張り出した。もちろん指紋を消さないように手袋を付けるのは忘れない。「手持ちの道具で空くと思うけど、無理なら壊していいぞ」「大丈夫です。練習しましたから」 懐からピッキングツールを取り出し、トリエラは小さな鍵穴と格闘し始めた。そうこうしている間にも数日前ブリジットと一緒に練習した風景が思い浮かんでくる。 結局あの時は、ブリジットの方が断然早く開錠して、また一つ彼女に劣っているところを思い知らされたのだった。 ヘンリエッタとリコが根を上げるまで射撃訓練を行って、やっと訪れた休憩時間だというのに俺の義体は何故か小さなスーツケースの鍵穴と格闘していた。「何をしているんだブリジット」 鍵穴に幾つもの針金をねじ込み、口には正規の鍵を咥えたブリジットがこちらに振り返った。「いえ、この前トリエラと練習したら思いのほかはまっちゃって……。でも無駄にはなりませんよね?」 ブリジットが数本の針金を操作した。すると鍵穴の奥で何かが動いた音がして、満足そうに彼女が針金を引き抜いていく。「もう出来たのか?」「はい。23秒ちょい。新記録です」 完全に針金が引き抜かれたスーツケースを俺は受け取り、何が入っているものかと蓋を開けようとした。けれども閉じた口はウンともスンとも言わず、思わずそれをブリジットに付き返した。「空いてないぞ、これ」 スーツケースを受け取ったブリジットは少しぐらい動揺を見せるか、と思ったのだが彼女は逆に満足そうな表情を見せてよし、と笑っていた。 彼女はしたり顔でこう宣言する。「実は開錠に飽きたので、今度は鍵無しで施錠出来るか練習していたんですよ」 呆気にとられたのは言うまでもない。 彼女は鼻歌を口ずさみながら正規の鍵でスーツケースの蓋を開けた。すると中には俺が上げた菓子の詰め合わせが入っていて、彼女は上機嫌にそれを頬張り始めた。「こっちの方がやる気が出るでしょう?」 これは適わない。そう痛感したある日の午後だった。