何か、とても痛くて苦しいことがあったように思う。 何か、とても悲しくて泣きたくなるようなことがあったと思う。 今ではもう忘れてしまったけど、俺は昔別の世界で生きていた。 それは遠い遠い昔のこと。 目覚めたら薄暗い部屋だった。視界はぼやけて何も見えない。ただ誰かが俺の近くで会話をしているのだけはうっすらと聞いていた。 手足を動かそうにも、何かに押さえつけられているのかそれは適わず、俺は冴えない頭で暫く天井を眺めていた。 そして徐々に自身が置かれた不思議な状況に気が付き始める。 そういえばここは何処だろう。 何かとても痛くて苦しいことがあって死んでしまったのは覚えている。でもどうして意識があるのだろう。 疑問に耐えかねて声を出そうとしたが、喉がとても乾いていて思わず咳き込んだ。俺の近くで会話していた人はそれに気がついたのか、会話を止めて近づいてきた。 大きな手が額に置かれた。そして髪をそっと撫でる。「おはよう」 それは男の声。俺は折角のモーニングコールが男であることに若干失望し――だが何故か内から湧き上がってくる歓喜に驚いていた。「気分はどうだい? ブリジット」 男の顔が視界の中に入ってくる。男は外国人で中々の美丈夫だった。俺は男の言うことがはっきりと理解できていることに疑問を感じながらも、ぼんやりとした口調で答える。 それは率直な感想。「さいあく」 靄がかかったような頭が覚醒し始めて、自身が感じてた疑問と不思議な状況に俺は言葉が出なかった。 あの後、力が入らず中々起き上がれなかった俺は男に抱きかえられた。そこで俺は体が随分と縮んでいることに気が付いた。 少なくとも、俺の身長は幾ら外国人の男でも軽々と持ち上げられる程小さくはない。「えらく軽いな」 男に補助してもらい、俺は壁にもたれかかるように立つ。そこでまた言葉を失う。 今更ながら、病院の検査衣のようなものを着ていると知るがそんなことはどうでもいい。仮に死の淵から奇跡的に生還して、病院に担ぎ込まれたのなら何らおかしい事ではないからだ。 だが、この胸に生えている二つの膨らみは何なのだろう? 腰の辺りまで伸びている黒い髪の毛は? 室内の鏡に見つけた、十台半ばの眠そうな女の子は? 死んで人生を終えたと思ったら、日本人ではない少女の体? きっと俺の手足から力が抜けたのは疲労の所為ではない。 自分の身に起こったことが余りにも狂っていて、俺はそのまま床にへたり込んだ。 男が何かを叫び、肩を揺らしてくるが関係ない。 俺は前にもそうしたように、電源が切れるように意識を閉ざした。 願わくば、目覚めた先が今度こそあの世であることを願って。 神の奇跡と人の罪を見た気がした。 ヒルダが――、ヒルデガルトがブリジットとしてベッドから覚醒したとき、俺はそう感じた。 アマルフィ海岸に並ぶ白壁の家のように色素の薄い肌、故郷のシュバルツバルトの森の闇のように黒い髪、 そして、確かに生の光を宿したガラスの眼。 美しい造形の少女はまるで人形のようで、生前のヒルダが持っていた激しい美しさとは対極にあるものだった。 そんな彼女は目覚めて直ぐ意識を失った。ビアンキによれば手術の疲れで2、3日で回復するということだが、それでも一度壊れた彼女を見た身としてはのんびりとしていられなかった。 彼女が退院した後は積極的に寮に通い、彼女の経過を見守ることにした。「調子はどうだい?」 ブリジットは他の義体とは別の部屋で暮らしていた。再び目覚めてから、精神状態が落ち着かないと診断を受けた彼女はここで監視されている。 俺は監視されていることを承知しながら、ベッドの上で膝を抱えている少女に話しかけた。「…………」 ブリジットは膝を抱えたまま身動き一つしない。ただ目線だけを一瞬こちらにやり、直ぐに興味をなくしたのか虚空を見つめた。 そんな様子を見て、俺は本当に彼女が条件付けされているのか疑問に感じた。他の義体を二人見てきたが、二人とも担当官の言うことはよく聞き、自分から目線を外そうとはしなかった、なのにこの少女は決して俺と目をあわそうとしない。「いろいろ混乱することはあるかもしれないけど、慌てる必要はないよ。ゆっくりここの環境に慣れればいい」 俺は何時も帰り際に唱える定型句を口にすると、ブリジットのいる部屋から退出した。 男――アルフォドが去った後、俺は自身の手足を見つめた。 そこにあるのは前とは違った少女の細腕。 胸元にある二つの双丘は膨らんだ乳房。 今度こそ目覚めたら全うな死後の世界だと思ったのに、やはり自分の身体は少女のままだった。 そしてアルフォドが時たま口にする「公社」と「義体」という単語。 俺はこの世界の仮説を当の昔に作り上げながらも、決してそれを認めることは出来なかった。 それを認めてしまったら俺はこの世界で生きていかなくてはならなくなる。 昔読んだ漫画の世界。 空想だったはずの銃と少女の物語。「GUNSLINGER……GIRL] 言って、不意に後悔の念が馬鹿みたいに膨れ上がった。 何時の間にか頭の中にある銃と人殺しの知識。そしてアルフォドという男を見るたびに込み上げてくる、愛情にも似た不思議な感覚。 確定的な仮説における結論。 そう、ここは架空の世界のイタリア。 復讐と憎悪が渦巻くGUNSLINGER GIRLの世界だ。 俺は多分死んだ。そしてほぼ確実に、別の世界へ転生した。 見上げた先にある蛍光灯が眩しい。 自分の境遇には何の現実味もない癖に、それだけはやけにはっきりと感じた。 ブリジット・フォン・グーテンベルト 術後経過良好、ただし極度の人間不信と無気力性あり。 これに関しては、消去されたヒルダの人格の空白が影響しているものと考えられる。 解決法としては、担当官に対する盲愛を強めるか、精神統合剤の投薬が考えられる。 ドットーレ ビアンキ あれから何日経っただろうか。 相変わらずブリジットの元を尋ねていたわりには、どれくらい日が巡ったのか考えもしなかった。 彼女は今、極度の体調不良で病室に舞い戻っている。 原因は恐らく何も口にしようとしないことによる栄養失調だ。目覚めてから今に至るまで様々な物を食べさせようと公社は努力してきたが、彼女は何も口にしようとはせず見るからに弱って来た。 今は点滴で直接栄養を受け取っている。「やあブリジット。大人しくやってるかい?」 笑みを携えながら、彼女に近づく。だが彼女は何時ものように一瞥をくれるだけで決してこちらを見てこない。「あー、あれだな。暴れようにも腹が減ってそんな元気はないか」 返事はない。ただ彼女は小さく咳をした。 俺は彼女の腕につながれた幾つものチューブを見て、自分たちが実行してしまった罪を思い知らされた。「君の名前はブリジット。公社三番目の義体だ。担当官は俺――アルフォド。君は俺の命令に逆らえない」 彼女の手を取り、こちらを向かせる。白い痩せた顔には明らかな怯えの色があった。 そんな彼女の瞳をまともに見ていられなくて、俺は思わず視線を外す。だがそれでは意味がないと気が付いて、再び視線を合わせた。 そして恐らく、初めてとなる担当官としての命令を彼女に下した。「食事をとりなさい。ブリジット。このままでは君は死んでしまう。折角生きながらえた命なんだ。粗末にしてはいけない」 ブリジットの瞳が揺れる。彼女が何か言おうと口を開く。握っている腕越しでも、彼女が大量の汗を掻いているのがわかった。俺は神に祈るような気持ちで彼女の台詞を待った。 だが、彼女から帰ってきたのは――、 アルフォドの命令に感じたのは激しい怒りだった。 俺は死んで世界から消えてなくなる筈だった。だが公社がこの体を無理矢理義体化した所為で、俺はここに呼び出され、毎日絶望を感じ、そして食を断って死のうとするささやかな反抗まで取り上げる。 自分でも切れているのがわかる。 思わず拳を握り締め、この美人面を砕き割ってやろうと思った。 だが俺を繋いだ鎖――条件付けがそんなことを許す筈もなく、俺は込み上げてくる吐き気に抗えなかった。 俺にしがみ付き、嘔吐を繰り返す彼女は痛々しい。 記憶を消して、人格を消して、顔を消して、存在を消したらこの子は幸せになると聞かされ、そして信じていたのに、どうしてこの子は泣いているのだろう。 救われるのではなかったのか。 これが彼女の幸せではなかったのか。 俺は自分たちがしたことがひょっとすると、取り返しの付かないことだったのではないかと密かに恐怖した。 神の奇跡なんて当の昔に忘れた。 今ここにあるのは人の業だけだ。 死を望んだ彼女はそれすらも許されず、こうして醜く生かされ続け、苦しんでいる。 俺はブリジットを抱きしめた。強く強く抱きしめ教えてやりたかった。 この俺の中に渦巻く後悔の念を、そして彼女の儚さの中に見つけたこの愛情を。 ブリジットが搾り出すような声でアルフォドに言った。「だいっ嫌い……」 ブリジットに掴まれたスーツのボタンが弾け飛び、アルフォドの首元が締め上げられていく。「俺はお前を好きになるもんか。俺は俺なんだ」 何かアルフォドに歯向かうようなことを告げるたび、ブリジットが涙を零し、そして嘔吐する。 アルフォドはそんなブリジットの頭を撫でた。「ごめん」 病室に静寂が訪れる。ブリジットの嘔吐が止み、啜り泣きも止まった。 アルフォドが告げる。「許してくれなんて言わない。でも俺は君がこの世界に新しく生を受けた以上、生きていてほしいと思う」 ブリジットが手を離し、アルフォドを見上げた。 その瞳は涙に濡れているけれども、確かに光があった。「また、やり直せと?」「そうだ。君が君の境遇に納得できないのなら今から変えていけばいい。俺はそんな君を助けたい」 自分が死んで、この世界に来た理由をずっと考えていた。 前の世界でどうして死んだのかも思い出せないけれど、きっとその死は、人生は大して意味のあるものじゃなかったと思う。 目の前の男の言葉は麻薬だ。 唯でさえ条件付けが働いているというのに、この世界で生きる意味があると一度他人から認められてしまえば、俺はきっと抗えない。 一人が怖くて、病室の片隅で死のうとした。一人のままなら一人のままで死んでしまいたかった。 でもこの男はアルフォドはこんな俺を見捨てなかった。 こいつは俺の味方なんだ。「ねえ、アルフォド」 どうせ死んだのなら、もう一度別の人生を、義体としての人生を歩むのも悪くないかもしれない。「お腹、空いた」 どうせこの世界で生きるのなら、思いっきり楽しんでもいいのかもしれない。 そう、たとえばイタリアならこれを頼んでもバチは当たらない。「ピッツァ、ある?」 我ながら間抜けな一言だと思う。けれども、嬉しそうに笑うアルフォドを見て、少なくとも間違ったことは言わなかったと俺は確信した。 まだまだ問題は山積みで、これからどうしたらいいのかわからないけれど、 少しだけこの世界で生きてみようと思った。「どうだ。初めて見たブリジットの問診は?」 ブリジットが去った後の見学室で、アルフォドとビアンキはコーヒーを飲んでいた。 マルコーとジョゼはどの様子を遠目で見守っている。「重いな。改めて自分の責任と罪深さを知った」「そうか、なら今日は酒もタバコも使わずに反省しろ。そして彼女に何か贈ってやれ。服でもケーキでも愛の言葉でも」 アルフォドは思う。自分と彼女の間に必要なのはそんな言葉じゃなくて、もっと単純なものだと。 ただそれをここで告げてしまえば、ビアンキから責められるのはわかり切っているので、口には出さない。「あのお姫様は君を必要としているよ」 アルフォドは静かに目を閉じ、ブリジットへ差し入れするピザのことを考えていた。 以下の記述はビアンキ所有のICレコーダーによる。 私は今でもあの人のことは嫌いです。 特に偽善者ぶって、優しくしてくるところが。 でも、そうやって優しくされると私は嬉しくなります。だから、私はあの人と打ち解けました。 ねえ先生、これは作られた感情ですか、それとも私自身の愛情なのでしょうか。 わかりません。 わかりませんけれども、今はそれでいい様な気がします。 だって、私はあの人のことが大嫌いだから。 でもその気持ちだって、もしかしたら作られたものかもしれないから。 ピッツァの国のお姫さま 了