ベッドに横たわる彼女の肌は死人のように真っ白で、震えるまつ毛だけが彼女が生者であることを証明していた。 ヒルデガルト・フォン・ゲーテンバルト。 髪は赤毛で、身体の線は細い。瀕死の重傷を負ってここに運ばれてきたというのに、全身を義体に置き換えた彼女は生前に劣るとも勝らない容姿をしていた。 彼女の瞳が開かれる。 涙で縁取られた彼女の瞳は伽藍洞のように暗くて、この世の罪を映していた。 意識が混濁しているのか、天井を見詰めたまま微動だにしない。 そして彼女の乾いた唇が言葉を紡ぐ。近くで様子を見守っていたアルフォドが近づいて、その呟きにも似た言葉に耳を傾けた。 ヒルダの頬を涙が伝う。「ころ、して」 ピッツァの国のお姫様 その呟きは、俺の中にあった緊張と興奮を一瞬で消し去った。 今まで斜に構えることで、俺たちの罪を誤魔化していたというのに、産まれたばかりの子供のような彼女にそんな幻覚は通じなかった。 彼女の呟きは意識が覚醒する程大きくなり、今では血が滲む程自身の胸元を掻きむしって「殺して」と懇願する。 ビアンキが何処かに連絡し、彼女に繋がれている点滴の弁を開いた。 鎮静剤だと理解した俺は、彼女が点滴を外してしまわないように暴れる彼女を抑えつけた。「落ち着け。な?」 いくら義体でも筋肉の運動を薬で抑制されていれば、軍警察上りの俺ならそうそう負けない。 俺は余裕を持った表情で、しかし決して油断をしないで彼女が静かになるのを待っていた。 だがふと彼女と眼があった時、その余裕すらも吹き飛ばされてしまう。「殺してよ。お願い……、殺して……」 言葉が出なかった。光を失った彼女のガラス玉のような瞳に映る自分が酷く醜くて、そしてそんな自分を映す彼女の瞳が悲しくて俺は何も言えなかった。 初めて見た地獄の淵のような瞳に、俺の手足は固まった。 ビアンキが叫んだ時にはもう遅い。「馬鹿っ! 早く彼女から離れろ!」 突然襲ってきた衝撃に星が飛ぶ。 拘束が解かれたヒルダが反射的に俺を蹴りあげたのだ。筋肉のパワーが落ちていると言っても、完全に不意を突かれた俺は面白いほどベッドから吹き飛んだ。「がっ!」 胃の内容物を床にぶちまけ、そのまま崩れ落ちる。 もしかしたら肋骨が折れたかもしれない。「くそ! 大丈夫か、アルフォド!」 ビアンキに手を振って無事を伝える。するとそれと同時に病室に公社の医療スタッフが雪崩れ込んできた。「今すぐ義体を拘束。鎮静剤の量を増やせ!」 二人掛かりで一つの手足を押さえつけ、革で出来た拘束ベルトでヒルダをベッドに縛り付けていく。その間も彼女は切り裂くような叫び声で殺してと懇願していた。「殺してっ! どうして生きてるの!」 多分今の俺の顔はとても間抜けだ。半狂乱で目を見開き、ベルトを引き千切るような勢いで痙攣している彼女を見て正直言うと恐怖していた。 これが人なのか。これが人の仕業なのか。「何て、ことだ」 一際大きくヒルダが跳ねたかと思うと、それっきり彼女は動かなくなった。 死んだのではなく、再び意識を失ったのは激しく上下する胸元で確認できる。 俺は医療スタッフが持ってきた担架に乗せられ、病室から連れ出された。そして痛みの閾値が超えてしまったのか、眠るように意識を手放した。 ヒルダが恐慌状態になり、担当官を傷つけたことは直ぐに問題視された。「彼女の場合、義体になる前も強く自殺を望んでいました。恐らくその時の意識が彼女を支配しています」「だが彼女の記憶はネズミに食われたように穴だらけだ。現に自身がどうして自殺したのかも覚えていないのだろう?」「人の脳は未だにブラックボックスであります。いくら精巧な脳地図が展開できても憶測に過ぎません」「我々は彼女の早期処分を提案します。このままで要人の娘を使うという危険な橋を渡った意味がありません」「しかし実用化の目処が立った義体はヒルダを入れて三人だ。現状戦力をこれ以上裂くわけにはいかない」「もし彼女の自傷癖が問題ならこんな案はいかがでしょう」 一人の医師がその案とやらを公社の幹部に語りだす。ビアンキの握った鉛筆が折れる。だが誰もそれに気が付かない。「成る程、それは試してみる価値があるな。今後の臨床試験にもなる」「器を完全に入れ替えられた人間がどうなるのか、未だに報告例はありません」「これなら要人の娘だというハードルも解決できます。早速実行すべきです」 会議が終わり、皆が退出していく。ビアンキは手元の資料を見つめたまま動かなかった。 そこにはヒルダの笑っている顔写真と、生前の活動レポートが載っている。 ヒルデガルト・フォン・ゲーテンバルト 非常に活発で社交性高し。義体への適応率良好。親族への同意は必要なし。 ビアンキがアルフォドの執務室を訪れたのはそれから数日経った頃だ。担当官となったアルフォドにはデスクに加え、専用の執務室が宛がわれていた。「これは酷いな。少しは片付けろ」 ビアンキの言うとおり、アルフォドの部屋は荒れていた。いくら三日間入院していたとしても、普通ここまで散らからない。「別にいいだろ」 アルフォドはベッドに寝転がって動こうとしなかった。ビアンキは床から灰皿を拾い上げ、タバコに火をつける。「娘が嫌がるから止めたんじゃなかったのかよ」「いや、最近我慢できないことが多くてな。ここでは吸ってるよ」 回転椅子に腰掛、ビアンキはアルフォドの机を漁った。すると二日前に自分が渡した書類が出てきた。 そこにはヒルダの再手術が明日に行われる旨が書いてあった。「気持ちはわかるよ。でもどうした。急に。あれ程暢気に過ごしていたのに凄い荒れようじゃないか」 アルフォドはのっそりと起き上がる。彼もタバコを取り出し咥えた。だがライターが見つからないのか火をつけない。「お前は……あの目を見なかったのか」 ポツリと呟いたアルフォドの声をビアンキは危うく聞き逃しかけた。「俺は見た。あれが十代の女の子の目か?」 アルフォドが頭を抱える。。「彼女は義体化で救われるって言ったよな?」「ああ、言った」「ならどうして彼女はああなった」「わからない。どの道義体化はまだ発展途上の技術だ。どんな不手際があってもおかしくない」 ビアンキの台詞の後、アルフォドは暫く沈黙した。暗い部屋でタバコの火だけが輝いている。 その小さな明かりが書類に張られたヒルダの写真を照らした。 アルフォドが口を開く。「ならどうして彼女を殺してやらないんだ?」 ビアンキは何も言わない。机の上の書類を手早くまとめると、執務室を後にしようとする。そして去り際、こう言った。「アルフォド、名前は考えたか?」「ヒルデガルト・フォン・ゲーテンバルト。それが彼女の名だ」 アルフォドの一言にビアンキが息を飲む。だが彼も負けじと語気を強めて切り返した。「彼女の人格を全て消せば彼女は死んだことになる。それでも不満か」「だが魂はそのままだ」「俺は魂を信じない。今度君が会う彼女は新しい彼女だ。ヒルデガルトじゃない。君が名を与え、この世で生きる場所を与えてやらないと彼女は迷子のままだ」 執務室のドアが閉じられる。明かりもない暗闇の中、アルフォドは小さく「わかっているよ、そんなこと」と吐き捨てた。「脳地図を展開しろ。ヒルダの人格を全て消し、新たな人格を植えつける」 ヘッドギアを被せられ、ヒルダは全身にメスを入れられていた。頭身を縮められ、髪は黒毛に植毛、顔たちも医師たちがデザインしたものに変えられていく。「しかし整形手術と脳手術が同時とは前代未聞です」「人格を入れ替えてもとの身体なら意味がない。逆も然りだ」 医師たちが総出でヒルダの身体を入れ替えていく。その様子は宛ら人形のパーツを入れ替えているようだった。「この子、手術前に泣いていました。意識はない筈なのに」 女性医師が包帯に覆われたヒルダの顔を撫でた。胴体を執刀していた医師がその様子を見て答える。「きっと悲しい夢を見ていたのさ」 公社の屋上に二人の男がいる。アルフォドとビアンキだ。「いかなくていいのか、ビアンキ」「誰があんな胸糞悪いことを。今回ばかりは反対に回ったんでね。担当から外された」 二人の男は柵に身を預け空を見上げていた。「名前、考えたか」 アルフォドはぽりぽりと頭をかいた。そしてポツリと名を告げる。「ブリギッタ・フォン・グーテンベルト」 ビアンキが思わずアルフォドを見る。それほどまでに二人の名は似ていた。「アナグラムか? 正直苦しいぞ」「良いんだ。いつか彼女には思い出してほしい」 ビアンキはやれやれといった表情で額を押さえた。まさかアルフォドという男がここまで頑固だとは思わなかった。 だが彼は笑みを浮かべ言った。「ブリジットか。いい名だ」 屋上を夏だというのに涼しい風が吹きぬけていく。アルフォドのよれたシャツがゆらゆらと揺れていた。