「ブリジット、前方800メートルのペットボトルだ。キャップの部分を撃ちぬけ」 訓練場では黒髪の少女が積み上げられた土嚢に寝そべり、スナイパーライフルを構えている。微動だにしない彼女はさながら機械のようだった。「緊張しなくてもいい。君ならやれる」 担当官の声は魔法だ。彼らの声は義体を高揚させ、同時に心を落ち着かせる。ブリジットも例外ではなく、強張っていた引き金に掛けた指が、幾分か軽くなったように感じられた。 ブリジットがスコープの十字を目標に重ねる。 そして風が止み、手振れが収まったとき、 銃声と共に、スコープの中のペットボトルが弾け跳んだ。 ブリジットが見事ペットボトルスナイプを成功させたその晩、彼女は市内のカフェテリアに来ていた。落ち着いた雰囲気のそこはアルフォドのお気に入りだそうだ。「俺はアイスコーヒー、君は?」「カプチーノで」 注文を済ませた二人は何を言うでもなく、のんびりとした時間を過ごしていた。 テーブルに置かれていたサービスのクッキーをブリジットが頬張る。「この店はユーリって言う同僚から教えてもらったんだ」 アルフォドが口を開いたのは注文した品が届いて直ぐだった。「軍警察時代の友人さ。彼は君のように銃器の扱いに長けていて……狙撃が得意だった」 珍しく過去を話してくるアルフォドにブリジットは黙って耳を傾けていた。 アルフォドは続ける。「彼は俺が辞める一年ほど前に除隊した。正義感が強くて優しい奴だったからな。デモ隊に発砲した同僚が焼き殺されて……酷く動揺していた」 彼が言うには自分もそのデモ隊の鎮圧に参加していたという。火炎瓶を投げつけられた隊員がいて、自分は放水車を呼ぶのに必死だったそうだ。「ガソリンの火だから消えるわけがないのにな。でもそれぐらいあそこは悲惨だった」「そのユーリって人は除隊した後どうしたんですか?」 帰りの車の中でブリジットはそんなことを聞いてきた。アルフォドはハンドルを握ったまま答える。「軍警察もあの頃は酷く混乱していて、彼の後を追いかけることは出来なかった。でも俺は一度だけ彼が除隊してから会ったことがある。あのカフェテリアを教えてくれたのもそのときだ。何でも恋人に初めて連れてこられた場所だそうだ」「……ロマンチックですね」「まあな。女っ気なんてまったく無い感じだったんだが、案外軍警察を辞めて人が変わったのかもしれないな」 一マイル向こうの少女 待ち合わせの時間になっても彼女は来なかった。 意外にも携帯電話の番号を交換していなかったことが悔やまれる。 俺は一時間待って、さらに二時間待って、日が暮れて閉店の時間になってやっとアパートへ戻った。 それでアパートの部屋を開けるとヒルダがベッドで眠りこけているかもしれないと考えたが、そんなことがあるわけもなく、暗い室内は無人だった。「何か飛び込みで用事でも入ったか?」 暇そうに見えるがあれでも政治家の娘だ。立食パーティーでも呼ばれたんだろう。 なら俺は彼女を責めることが出来ない。最初から身分の違いを黙殺して付き合いだした仲だ。こういったこともあるだろう。 俺は買ってきたカーネーションをグラスに活けると、そのまま眠りに付いた。 朝になっても彼女はやって来なかった。その日は清掃の仕事があったので伝言メモだけ残してアパートを後にした。 その日も、彼女がやって来ない理由を深く考えなかった。 そして三日目のこと。 俺は清掃作業中にとある新聞を拾う。 これが俺の世界の全てを砕いた。「先日逮捕した活動家から議員の暗殺情報が出てきた。公社としてはこれを何としても阻止する」 ジャンがリコをつれてフィレンツェに行っている為、今日は課長直々に作戦の説明があった。 何でもとある大物政治家が狙われているらしい。「目標にされているのは現内閣の重鎮、ゲーテンバルト氏だ」 その一言で一部の担当官と二課の人間が声を上げる。かく言う俺も驚きで思わず目を見開いた。 課長は各々の反応を無視して作戦の説明をする。だがそれが返って周りの反応を書き立てていた。「おい、アルフォド」 ヒルシャーが耳打ちをしてくる。俺は黙って頷き彼が言おうとしていることに同意する。 そうだ、何を隠そう狙われている議員はアルベルト・フォン・ゲーテンバルト。「彼女の父親じゃないか……!」 アルベルト・フォン・ゲーテンバルト。 彼は悲劇の政治家として一般国民の間では知れ渡っている。 右翼派過激グループとの抗争の中で次女を失った。 それが彼のキャッチコピーだ。確かに嘘偽りはない。だがこの事実には二面性がある。 それは公社の中でも一部の人間しか知らない事実。 俺はどうしようもない怒りに震えてミーティングを聞いていた。願わくば、ブリジットがこの作戦に参加しないことを祈って。だが彼女の非凡な実力は課長の目にも留まっている。このことが今回は災いした。「アルフォド、ブリジットを使って暗殺者をカウンタースナイプしろ。それが今回君たちフラテッロに課せられた任務だ」 ヒルシャーが息を飲むのがわかる。マルコーも驚きに満ちた目でこちらを見ていた。 俺は黙って了解と告げると、早々にその場から立ち去った。 もしそこに居続けてしまうと、自身を律する自信がなかった。 自演誘拐。 ヒルダが殺された真相を知ったのはとある活動家を締め上げた時だった。 彼が言うにはヒルダは父親の選挙の為に、父親の手によって誘拐されたらしい。 俺は最初、そんなことは作り話だと笑ったが、右足を俺に撃たれた活動家が必死に弁解するので事の真相を詳しく聞くことにした。「お、俺は頼まれたんだよ! アルベルトから奴の次女を攫って三日ぐらい監視しろって! でも予定が狂った! 本当に右翼の奴らが彼女を横取り誘拐しやがったんだ!」 つまり状況を整理するとこうだ。ヒルダの父親――アルベルトは自身を悲劇の政治家に仕立て上げるため次女を誘拐された振りをした。だが本当に右翼派のグループに誘拐されて彼女は殺された。 何てことだろう。 俺の愛した彼女はそんな下らない理由で誘拐され殺されてしまったのだ。 あの赤毛の一マイル向こうにいた少女は二度と俺の手の届かないところへ消えた。 こんな下種共に殺されて消えてしまった。 散々犯され、嬲られ、死ぬしかないと彼女が思いつめるまで傷つけられて死んだ。 その日から俺の復讐は始まった。 手始めに縛り上げた活動家を殺し、その血を全ての狼煙とした。 俺は彼女のためにあのゴミ溜めのような世界へ返っていく。