目の前のデモ隊が向かってくる様はさながら人の津波だ。 防弾素材の盾を構え、俺たちはその波を押し止めようとするが、所詮多勢に無勢。 あっという間に何人か吹き飛ばされ、怪我人の報告が耳元のインカムを鳴らす。 そんな時だった。同僚の一人が何かを叫び、空に向かって発砲したのは。 彼の判断はおそらく正解だ。狂気と化した群衆の頭を冷やしてやるには確かにその方法は有効だ。 だが、彼らの熱気は正常対処の遥か上を行っていた。 投げ込まれた火炎瓶で発砲した同僚が火達磨になる。撤退の知らせが無線を支配するが、身動きが取れなくなった俺たちにそんなものは関係ない。「糞、誰か放水しろ!」 誰かが叫んだのと同時、群衆の波に俺は押しつぶされる。 そこから先は意識を保つことが出来なかった。「お前は優秀な隊員だ。何故辞める? この前のデモのことを引いているのか?」 上官のデスクの前で俺は直立不動。ただ口だけはここ数カ月考えて来たことの成果を伝える為だけに動いた。「自分は国民を守るために軍警察に志願しました。然しながらここ最近の我々の活動は国民に銃を向けているだけです。私はこの矛盾に耐えられません」 そう、俺は国民の生活と安全を守るために軍警察へ志願した。だがその国民に銃を向け、あまつさえ発砲する始末。 これでは本末転倒も甚だしい。「ならお前はここを止めてどうする?」「はっ。福祉の勉強でもして今度こそ国民の為に働きたいと考えております。今までお世話して頂き有難うございました」 結局のところ、俺は福祉の勉強やらに失敗し、軍警察時代のスキルを活かして殺し屋になった。 でも俺はこれで少しでも社会が良くなるのならと、自分を騙し続けることが出来た。 そう。俺が守る筈だった国民である、ヒルダを殺そうとする時までは。 初めて見たときから、俺はその瞳の虜になっていた。 だからこそ、最後の時を待つ彼女が、怯えながらもその瞳を宿しているのを見てしまったとき、俺は彼女の首を折ることが出来なかった。 一マイル向こうの少女「軍警察には国民を守るために入隊した。だがいつの間にその国民に銃を向けることが増えてきて、嫌になった」 昔誰かが言った。一度殺すタイミングを逃してしまうと、その人物は二度と殺すことが出来ないと。まさにその通りで、一思いにヒルダを殺せなかった俺は何時の間にか自分の身の上を語っていた。「それからは少しでも社会が良くなればと思って、活動家の暗殺をしている」 ヒルダは何も言わず、ベッドの上で膝を抱えている。殺されそうになっても泣き叫ばなかったのは彼女が強いのか、それともそういった感覚が麻痺しているからなのかは俺にはわからない。 俺は続ける。「別に今やっている仕事が正しいことだとは露ほども思わない。でもこの仕事は俺の仕事だ」 きっかけはデモ隊と衝突したときだった。恐怖に負けたバカがデモ隊に向かって発砲して、それからは泥沼だ。同僚は三人殉職し、市民は七人死んだ。どれもこれも皆この腐りきった社会の所為だと気が付いた俺は、軍警察にいることが耐えられなくなった。「もう二度とここへ来るな。今日は見逃してやる」 我ながら殺し屋失格だと思う。もしヒルダが俺のことを警察に言ったら俺は破滅だ。だが不思議とヒルダをここで解放しても、彼女は言い触らさないという自信があった。俺は彼女を信じていた。 が、幾ら彼女を信じていたといっても、次の彼女の台詞までは予想することが出来なかったし、信じることが出来なかった。「私はあなたと別れたくない」 一瞬自分の耳を疑った。だってそうだ。つい先ほど自分を殺そうとした相手に「別れたくない」と告げる。それは余程の度胸者か、或いは救いようのないバカの台詞だ。 俺は何の悪い冗談だと思いながら、彼女に向かい合う。「俺の言うことが聞こえなかったか? ここを去れ」 語気を強め、睨みを効かせて言った。だがそれは逆効果だったようで、開き直ってしまったのかヒルダは怯えることを止め、真っ直ぐな視線をもってこちらを見てきた。 そして告げる。「私はあなたのこと好きだから。別に殺し屋でも何でもいい。離れたくない」 思わず彼女の首に再び手をかけた。俺は自分が何を考えているのか、彼女が何を考えているのか全く理解が出来なくて、気が付けば手にまた力を込めていた。 殺せなかったのに。 殺すことなんて出来ないのに。 苦しそうな呻き声をあげてヒルダは俺を見る。「あなたは本当は優しい人よ! あなたは私を嫌がったりしなかった!」「うるさい! それはお前が金をくれたからだ!」 ベッドの上に倒れこみ、俺は彼女に掴みかかる。ヒルダはさしたる抵抗を見せず、返ってそれが俺をますます激昂させた。「お前に何がわかる! ただの金持ちの穣ちゃんが格好つけてるんじゃねえ! 世界なあ、俺みたいなゴミ屑が幾らでもいるんだ! 俺の目が見えるか!? これが人殺しの目なんだよ!」 ヒルダの服がはだけ、白い胸元が上下しているのが見える。だが俺は欲情するよりも、ここまで彼女を傷つけた後悔で一杯だった。 ただ自分から遠ざけようとしただけなのに、 ただ社会の役に立ちたかっただけなのに、 いつも俺のすることは碌なことにならない。 俺は自分が嫌になって、情けなくて仕方がなくて、ヒルダの上から転げるように落ちた。 そんな俺の頬にヒルダの手が触れる。 縋るような気持ちでヒルダを見上げると、そこには俺を虜にした瞳があった。「あなたの目は父と同じ目。あの人も直接手をかけてるわけじゃないけど人を殺している。でも私は父のことを愛している」 彼女は俺を赦す。 そして俺は救われる。「私はあなたの目が好き」 同僚が火達磨になったあの日を思い出す。 あそこでは様々な感情が渦巻いていた。憎しみ、怒り、悲しみ、そして恐怖。 碌な感情が存在しないゴミ溜めのような空間。俺はそれが嫌で逃げ出してきたのに、いつの間にかそれと同等か、それ以下の空間で生きていた。 ここにも憎しみと怒りしかない。 皆怒って誰かを殺そうとしている。 多分もう諦めていたのだと思う。俺が生きている限り、俺がそこにいる限り、俺のいる場所はどうしてもゴミ溜めになることに。 でもそんなとき、目の前の少女は違った世界を持ってきた。 俺の世界に光が差した。「俺もお前の瞳が好きだ」 ヒルダと視線が交じり合う。「お前の、この世界を見ようとするその瞳が好きだ」 ヒルダが笑った。二人はおのずと口付けを交わす。 赤毛の少女の微笑みは美しかった。 ヒルダからはいろいろなことを聞いた。 曰く彼女は政治家の娘で、それもいろいろと黒い噂の耐えない人だそうだ。 俺に話し相手になって貰いたかったのも、一般市民から政治の話を聞いて、父の行いを正当化したかったらしい。 俺はヒルダの身の上を聞かされて、金持ちだと妬んでいた自分が恥ずかしくなった。 俺には俺の苦悩があったように、彼女には彼女の苦悩があったのだ。 彼女とベッドの中でお互いのことを語り合ったとき、俺はこの世界の意味が少しだけわかったような気がした。 人はそれぞれの役割を持ち、そして様々な感情を持って生きている。 ヒルダが父への感情に折り合いを求めたことも一緒だ。 もしあの日の感情が俺のことを縛っているのなら、俺もヒルダのように折り合いをつけるべきだったのだ。 俺の中で渦巻いていた矛盾は彼女に塗り替えられる。 一週間後「清掃のバイト?」 カフェテリアでも駅前の公園でもなく、俺のアパートが二人の居場所になっていた。次女ということもあり、比較的家を抜け出すことが自由な彼女は、毎日のようにここへ入り浸っていた。 俺はパスタを茹で上げる彼女の背中を見ながら最近ついた仕事について話していた。「ああ、本職は店じまい。食べていくためにゴミ清掃のバイトを始めた。筋は良いらしいぜ」 暗殺の仕事のほうは驚くほど簡単に辞められた。もともと一部の人間の仕事しか受け持っていなかった上に、目標が目標だったので公安のマークも緩かった。まあ、それに関しては過激派が行おうとしている「ある計画」の防諜に忙しいからだろうが。「そう、それは良かった」 ヒルダが皿にトマトスープのパスタを盛り付けて運んでくる。俺が南部出身であることを告げると、彼女は南部風の食事を良く作ってくれる。「どうぞ召し上がれ」 パスタを掻きこむ様に食べていく。一日中市内を走り回ったお陰でフォークが良く動いた。「ところでヒルダ。明日の予定なんだがな」 俺とは違って、上品にパスタを食べているヒルダがこちらを向いた。こんなところでも育ちの違いがよくわかるものだ。 ただ今は昔とは違って嫉妬よりも彼女との違いを見つけることがちょっとした楽しみになっていた。「俺の仕事……もちろん清掃のバイトだけど午前で終われそうなんだ。午後から少しいいか?」「良いも何も今日みたいにここで帰ってくるのを待っているわ。明日は何が食べたい?」「あ、いや。そうじゃなくてだな……、その、あれだ。明日の昼から何処かに遊びに行かないか。君を映画あたりに連れて行ってやりたい」 我ながらもう少し格好をつけて言いたかった。だが、ヒルダがガッツポーズを作って喜んでいるところを見ると俺の頬は自然と崩れる。「じゃあさ、今やってる恋愛ストーリーがいいな。あ、でもユーリはアクション映画のほうが好き?」「はは、俺も恋愛もののほうが好きさ。アクションは昔から慣れてる」 はは、と彼女が笑う。俺は残されたトマトスープをスプーンで啜ると待ち合わせ場所と時間を書いた紙を彼女に手渡した。「明日の午後一時に初めて雑談をしたカフェテリア。ここで大丈夫か?」「うん、とても楽しみ!」 高嶺の花だった彼女が、映画を見に行くことに喜んでいる。 一マイル向こうにいた筈の彼女が俺の提案に喜んでいる。 俺にとって、これ程の喜びはなかった。 待ち合わせの一時間前、俺はカフェテリアの近くにいる花屋にいた。「お。お兄さん恋人にプレゼントかい?」 店の女主人が恰幅のよい腹を揺らしながら近づいてくる。俺は素直に肯定すると探している花の特徴を告げた。「赤い花がいいな。燃えるような花弁を持っているが、実は繊細な花だ」「いい女の子じゃないか」 主人の台詞を聞いて、俺はその通りだとつくづく思う。確かに彼女は俺には勿体無さ過ぎる。「激情と繊細ね。ならこのカーネーションはどうだい? 彼女も喜ぶと思うよ」 その花を見て、ヒルダの色を見た。彼女の赤毛は流石にここまで赤くはないが、でも彼女にぴったりの色だ。 カーネーションを一本包んでもらうと、待ち合わせに向かうべくカフェテリアへ向かった。残り後三十分弱。もしかしたら気の早い彼女はもう着いて優雅にカプチーノでも楽しんでいるのかもしれない。 俺の歩速は自然と早くなっていた。 それから三日後。 路地裏に捨てられた新聞の一面にはクローチェ検事暗殺事件の見出しが躍っていた。 その大事件の見出しの所為で端に追いやられているが、もう一つの事件が小さく書き連ねられている。 ゲーテンバルト家 次女 ヒルデガルト誘拐事件 今事件は被害者のヒルデガルトさんの死という悲壮な結末に至った。 ヒルデガルトさんは犯人グループの隙を見て自殺を図った模様。犯人グループは未だ逃走しており警察は行方を追っている。