一マイル向こうの少女 昔、俺の一マイル先に女の子がいた。ただ、一マイルというのは物理的な距離ではなくて、それぐらい遠い存在ということだ。 南は言わずもがな、北も失業率が悪化し、毎日のように市民デモや抗議がローマ市内を賑わしていたとある夏の始まり。俺は本職の依頼がすっかり途絶えて副職のほうもクビになり、一人路地裏で腐っていた。 ここは夏だと言うのに日が当たらないせいか比較的涼しく、俺のように行く宛ての無い屑共が常に数人寝そべっているような場所だ。 そんなゴミ溜め見たいな路地裏に赤毛の花が咲いたのはとある日の午後。「ねえ、あなた。どうして昼間からこんなところで寝ているの?」 第一印象はムカつく奴だった。 こちとら必死に就職先を探して疲れ果てて眠っているのに、それを捕まえて暇人を見るような目でこちらを見てくる。 何よりその格好だ。ブランド物に詳しくない俺でも直ぐに高級品とわかるようなパンツにシャツ。そして香水。どこからどう見ても、どこぞの金持ちのお譲ちゃんが興味本位でおちょくりに来たようにしか見えない。 ただこのお譲ちゃんが幸運だったのは、今日このゴミ溜めに寝そべっているのは俺だけで、女をドラッグを使ってセックスマシーンにしようと考え続けているバカ共が出払っていた事だ。 俺はこの幸運を利用しない手は無いと考え、取り合えずガンを垂れて追い払うことにした。 これでもそこそこ鍛えていて、尚且つ悪人面な俺だ。大抵の奴らは凄んで何処かに逃げていく。ましてや温室育ちのお嬢様なら造作も無いことだった。 今思えば、この時目も合わさずに無視を決め込めばここでこの物語は終わっていたのだろう。 だが俺は俺の視線を受け止め、尚且つこちらを見つめてくる彼女の視線を見てしまった。 人生で初めて、そして唯一この日だけ見ることの出来たその瞳に、俺は虜になった。「今更だけど私はヒルデガルト・フォン・ゲーテンバルト。ヒルダでいいわ。はじめまして、以後お見知りおきを」 お嬢さん――赤毛のヒルダに連れて来られたのは大衆向けのカフェテリアだった。あの後、路地裏に留まり続けることの愚かさを懇切丁寧に教えてやった俺は、何故かここへ引っ張ってこられた。 訳も分からずテーブルで膠着している俺を尻目に、ヒルダは慣れた様子で店員に注文していた。「私はカプチーノ。この人はミネラルウォーターで」 俺は勝手に注文を決められたことに対して不満を持ちながらも、店員が離れた頃を見計らってヒルダにここへ連れて来られた意味を問う。 するとヒルダはあっけからんとした表情でこう言いのけた。「私はね、自分と違う立場、世界を生きている人の話が好きなの。今日は偶々あそこで暇そうにしていたあなたがいたから誘っただけ」 彼女の返答に、俺は先ほど感じた苛立ちとはまた違った苛立ちを感じた。 それは彼女の言う立場の違いが裕福さの違いに直結していることを悟り、自分が見下されていると感じたからだ。だから俺は少し語気を強めて言った。「社会勉強に熱心なのはいいがな、お前らみたいな金持ちの見せ物じゃねえんだよ。俺たちは。分かったらとっとと失せろ。ここの代金ぐらいは払っといてやる」 大人気ないと自分で感じながらも、最近ろくに仕事も出来ていない所為で気が立っていた俺は突っかかるように彼女へ言い放つ。これで少しは考えを改めて、こんな馬鹿な真似はしなくなるだろうと俺は踏んだ。 それでも彼女は引き下がらない。「自意識過剰ね、あなた。別に私は社会勉強のつもりなんてこれっぽっちもないわ。貧困の差も生まれる場所と時間が少し違うだけのこと。私は自分が裕福である事に誇りを持っているし、別にあなた達が貧しいということを卑下するつもりはない。ただ人としてあなたの話が聞きたいの。さっきはああ言ったけど別に誰でもいいというわけではないわ。あの場所にあの時間にあなたがいたからこそ、私はあなたに話しかけたの」 何処の口説き文句だ、と叫びそうになったが店員が乱暴にミネラルウォーターのボトルをテーブルに置いたことでその気勢は削がれてしまう。 ヒルダはグラスにそのボトルを注ぐとこちらへ渡してきた。「ならこう言えばいいかしら。私は暇で暇で仕方がないの。見たところあなたはお金に困っている。私は私の含蓄を深めるような話をあなたとしたい。大した額は出せないけど報酬も出します。これならギブアンドテイクで釣り合ってる。どう? 悪い話じゃないでしょ」 舐めたガキだと俺は内心吐き捨てる。だが彼女が出すという報酬の話がどうしても耳から離れない。 本職はさっぱりで副職はクビ。暢気に路地裏で昼寝をしていたが、決して楽観できるような経済状況ではない。 そんな俺の内心を読んでいるのか、ヒルダは実に良い笑顔でこちらを見ている。俺はヤケクソ気味にグラスを傾けると渋々了承の意を示す。 これが一マイル向こうの少女との最初の馴れ初めだった。 ヒルダと出会ったその日の夜、前金として貰った紙幣を握り締めた俺はいつも通っているバーに来ていた。 どうせ路地裏で不貞腐れていても本職の依頼なんて滅多にやってこないので、これをいい機会に一稼ぎする腹積もりだったのだ。 そして俺の目論見は見事的中する。「ユーリ」 テーブル席の向かいに男が腰掛ける。いかにもここで待ち合わせをしていたと見せかけるその座り方は手馴れていた。「久しぶりだな。最近は何をしていた」「何、お前らが仕事させてくれないんで路地裏で寝ていたよ」 男はよく俺に依頼をしてくる右翼グループの幹部だ。最近は用心暗殺やデモの煽動で中々忙しいと聞く。 男は水割りを頼むと、手早く依頼の内容を伝えてきた。「俺と同じ右翼グループの奴だ。最近どうもへっぴり腰でな、このままじゃクリスティアーノの足を引っ張りかねん」「あのミラノの名士の? 奴があの計画を実行するのか?」「さあな、だが人員は集めているらしい。先日はアレクサンドリアまで出張していた」「エジプトまでとはまあ……」 俺が副職を失い、食いぱぐれている間にどうやら状況は大分変わってしまったらしい。少し前まで右翼派は左翼思想の政治家ばかりターゲットにしていたが、ここに来て仲間割れを始めている。 まあ俺にとっては詮無きことなので、早速依頼の人間の行動予定表だけを受け取るとバーを後にした。 右翼派市民グループ代表、狙撃される。 いつもの路地裏で新聞を拾った。そこには先日の俺の仕事の成果が書いてある。 昔、軍警察で狙撃手の育成プログラムをこなしてきた甲斐もあって、久しぶりの仕事でも腕前は鈍っていなかった。「何の記事を読んでいるの?」 ただし、狙撃の腕が鈍っていなくても人の気配を感じる能力は完全に錆付いているらしい。上から俺の持つ新聞を覗き込んでくるヒルダに今の今まで気が付くことが出来なかった。「ねえ、何を読んできたの?」「何でもない三面記事だ」 俺は新聞を畳んで近くにあったゴミ箱に叩き込む。彼女は一瞬怪訝な表情を見せてくるが、特に何も言わずそのまま俺の横に腰掛けた。「ところで今日は何処に行く? いつものカフェテリア? それとも駅前の公園?」 ヒルダの雑談に付き合って彼是1週間、俺の一日の過ごし方は彼女の行動に左右されていた。 本職で少々儲かっても、相変わらず金欠状態を抜け出すことは出来ず、結局はヒルダが支払う小遣い程度の報酬に縋らないと苦しいものがあるのだ。 それに、報酬云々かんぬんを抜きにしても彼女と過ごす一日は非常に充実しており、出会って最初の頃顔会うことを嫌がっていたのが嘘みたいだった。 俺はいつのまにか彼女のことを気に入っていた。 一マイル向こうには花があった。 赤毛のその花は妙に活動的で、金持ちらしくなかった。 彼女は俺が話すジョークにいちいち笑い、俺の話す体験談に耳を傾け、俺に今まで無関心だった政治の話を真面目に議論させる。 ヒルダは俺を変えていった。 二人目の狙撃は似たような仕事だった。どうやら右翼の連中はこの機会に裏切り者の燻り出しをしているらしい。 どうりで商売が繁盛するはずだ。「で、死体は川に流してきたのか?」「爆殺しても良かったんだが例の計画があるからな。爆弾が手に入らなかった」 何時ものバーで俺と右翼派の幹部は酒を呑んでいる。今日は報酬を受け取るついでに今後の身の振り方を話していた。「いい腕だな。ライフルを使った狙撃以外にも近距離の拳銃もこなせるのか。フリーにしておくのが勿体ない」「俺はどこにもつかないぜ。今回はあんただからこれだけ連続でこなしてやったんだ」 基本的に俺は同じ人間から連続で依頼を受けない。特に理由はないポリシーのようなものだ。「そうか、まあアナキーストというものはそんなものか。敵にならないことを祈るばかりだ」 男はそう言うと紙幣の入った封筒を置いてバーから出て行った。 俺も余り長居をする気分になれず、直ぐに会計を済まして店から出る。何時ぞやの時とは違って外は暑かった。「今日は帰るか」 どうしてだか報酬を使って遊ぶ気にはなれず、自分に言い聞かせるようにそういうと路地裏ではない、俺の本来の住処へ足を向けた。 つけられていると気が付いたのは間抜けなことにアパートの敷地へ足を踏み入れたときだった。 自分の感覚の鈍り具合に苛立ちながらも、ここまでつけられたことに焦りを感じずにはいられない。仮にこれが公安や警察関係者なら本職のことがバレていても不思議ではないからだ。 俺は冷や汗を一つ拭うと、懐の拳銃に手を伸ばしアパートのホールへ入る。そして扉の影から外の様子を伺った。 外玄関に誰かいる。 足音を立てないように取り合えず裏口へ向かう。殺せるのなら殺すつもりで外玄関の人影へ近づいた。 そして銃を突きつけ言い放つ。「動くな」 久しぶりに帰ってきた部屋の中が微妙な空気なのは掃除が行き届いていない所為ではない。ベッドの上で震えているヒルダが原因だ。バーから俺をつけていたのはこの赤毛の少女だった。「どうしてついてきたんだ」「家が知りたかった」 聞けば彼女は俺と別れた後、家に帰る振りをしてずっとつけてきたという。俺はいよいよ自身の間抜けさと彼女の行動力に驚いていた。「俺の仕事の意味はわかったか?」 ベッドの上で震えているヒルダは静かに首を振った。バーを出るまでは何か怪しいことに関わっている程度にしか思っていなかっただろうが、どうやら先ほどの「動くな」で確信を持ったようだ。「お前の思っている通り俺は殺し屋だよ。軍警察時代にいろいろあってこんなことをしている」 ヒルダを見下ろし、一歩歩み寄った。彼女は恐怖で身体が動かないのか、ただ震えているだけだ。 俺はため息を一つつき、彼女の首に手を掛ける。隣人がいない襤褸アパートとは言え、銃声を聞かれるのはいろいろと不味いのだ。「ごめんな」 彼女の瞳から大粒の涙が落ち、俺の手を汚す。俺は瞳を瞑ると、その手に力を込めた。 彼女の白い首はまるで花の茎のようだった。