本当に本当に大嫌いだったのに、今ではどうしても嫌いになれない。 嫌いになれないけど、無条件に好きになることも出来ない。 私にはあなたが眩しすぎたのかもしれない。 エルザ・デ・シーカ 終章 優しい銃声の後、私の世界に訪れたのは静寂だった。 これが死後の世界なのかと一瞬考えてみたけれど、私に馬乗りになっているブリジットを見てそれは間違いであることを確認する。 だから私は間抜けな声でこう言った。「生き、てる?」 この間抜け、と自分に叫んでやりたかった。 懐に収めていた拳銃が無くなっていることに気がついたとき、窓の外をふらふらと歩いていくエルザの背中が見えた。 どうしてこんなものを取られたのに気が付けなかったのか、何より目覚めた彼女が俺の姿を認めた時どのような反応を示すのか、考えてみれば直ぐ分かる事なのに俺は呑気にも惰眠を貪っていた。 でも、自分をぶん殴る事より、二階の窓から飛び降りた判断だけは褒めてやっても良いかもしれない。 あの時飛び降りていなければ、エルザの持つ拳銃の軌道を反らせなかった。 あの時飛び降りていなければ、エルザは死んでいた。 エルザが茫然とこちらを見上げ、口を開く。「生き、てる?」 彼女の声を認めた時、俺は彼女をそっと抱きしめた。俺より幾分か背丈が低く、体格も華奢な彼女は力を入れすぎると壊れてしまいそうだった。 そんなおっかなびっくりな俺の抱擁を、エルザが抜け出すのは簡単なことだった。「エルザ?」 俺の声にエルザが双眸を顰める。彼女は唇をきつく噛みしめていて、手足が震えていた。 手にしたままの拳銃が俺に向けられる。 ブリジットに助けられた。 そのことに気がついたとき、私の中の焼けつくような殺意は止まる所を知らなかった。 私はアルフォドと楽しそうに過ごす彼女が憎かった。 私が持っていないものを皆持っている彼女が憎かった。 いつもいつも嫉妬していて、彼女を殺してやりたいと考えていた。 でもブリジットは私に優しかった。テロリストに襲われた私をその身を呈して助けてくれた。 訓練ではいつも優しく教えてくれた。私がいくら失敗しても決して怒ることなく、最後まで私の傍にいてくれた。 撃たれた私を抱きとめてくれたのも彼女だ。私は彼女の温もりがあったから、静かにその意識を手放すことが出来た。 そして病室で目覚めた時―― 私の枕元で眠っているブリジットを見て、 自分の中に芽生えた気持ちをハッキリと理解した。 ああ、私はこの人のことが好きなんだ。 ラウ―ロさんも大好きだけれど、この人のことも大好きになっていたんだ。 けれど私がこの気持ちを抱くのはきっと間違ったこと。 私は私の醜さを知っている。 こんなにも彼女のことが好きなのに、一方で彼女を憎む気持ちが常に渦巻いている。 私はブリジットを好きになってはいけない。ブリジットに近づいてはいけない。 私には彼女が眩しすぎて、こんなに醜い私に優しくしてくれる彼女が眩しすぎて、私が私でいられる自身がない。 このままだと私が壊れるか、それとも私がブリジットを壊してしまうか、 もしこれが優しい夢なら、私はこの夢を壊したくない。 ブリジットがいて、ラウ―ロさんがいる世界を壊したくない。 私は自分が消えるしかないと思った。 ブリジットを消そうとする自分を消すしかないと思った。 それで死のうとしたのに、 よりにもよって私の死を邪魔したのはブリジットだった。 涙が止まらない。 ブリジットが憎くて、ブリジットが愛おしくて、涙が止まらない。 私は叫んだ。「どうしてあなたはそんなにも私に優しくしてくれるの!」 エルザの叫びを聞いて、俺は彼女がもう限界であることを知る。 握りしめた拳銃の銃口は震えていて、痛々しくて仕方がなかった。 きっと彼女をここまで追い詰めたのは俺だ。 だから俺は彼女の叫びに答えなくてはいけない。 俺はこの世界に来て初めて、誰かの命を助けようとしている。「俺は、一人ぼっちだから」 エルザに一歩、歩み寄る。「俺はこの世界の誰からも置いていかれる。どれだけ必死に生きても、どれだけ誰かに愛されても、俺のことは誰も知らないまま俺は死んでいく」 銃口が徐々に下げられていく。エルザがたたらを踏んだ。俺は彼女に手を伸ばす。「でも俺はこの世界で生きていこうと決めた。決めたからこそ、俺は君を助けたい」 こんどははっきりと力を込めて抱きしめる。もう彼女が思いつめることのないように、ここから逃げ出してしまわないように。「誰が君を死なすもんか」 エルザが俺の中で泣いた。年相応の子供のように泣いた。銃が地面に落ち、彼女のあいた両手が俺の胸元を必死につかむ。 今までアルフォドに抱きしめられてばかりだったけど、 この世界に来て初めて、誰かを抱きしめていた。 今はそれがとても幸せだったから、エルザが泣き疲れて眠ってしまうまで俺はそうしていた。 「エルザが迷惑を掛けたな」 後日公社の廊下ですれ違ったラウ―ロはそんなことを言った。俺は菓子の袋を抱えた間抜け面のままで視線を反らす。「何のことですか?」 後になって考えたことなのだが、俺とエルザがやったことは大問題に発展しかけない事件だった。義体が自殺しようとして拳銃を発砲。それを止めた義体がそのまま彼女の病室で一晩を過ごして、自分の部屋に朝帰り。 ジャンにバレたりしたら即刻薬漬けスタートだ。 だが、俺の心配は杞憂だったようで、「昨日のことならそれ程問題にはならなかった。むしろ俺の管理能力が問われて今日から軟禁だ」 ラウ―ロの台詞を聞いて俺は不謹慎にもなるほど、と思った。義体には世間一般で言う独立した自由意思が存在しないと信じている公社の人間からしたら、義体の暴走は義体の責任ではなく担当官の責任だと考えるのが自然なことだからだ。 だからラウ―ロの軟禁は納得が出来る。「ちなみにどれくらい拘束されるんですか?」「さあな。始末書と宣誓書の内容にもよるだろうが2週間かそこらだろう」 それは不味い、と俺は少し焦る。やっとエルザが元気になり始めた今の時期にラウ―ロと2週間も会えないのは大きなマイナスでしかない。 俺はどうしたものかと内心冷や汗を掻きまくるが、またもやその心配を杞憂に終わらせたのはラウ―ロの台詞だった。「ブリジット、俺が拘束されている間、これをエルザに私といてくれないか」 そう言って渡されたのは一冊の本だった。タイトルを見れば「楽しい家庭菜園の仕方」と書いてある。「は?」「何、昔から本を読まなかったあの子のことだ。最初はこれぐらいで十分だろう」 俺は呆れて声が出なかった。自分に恋している女の子への初めてのプレゼントが「楽しい家庭菜園の仕方」とは斬新過ぎてぶん殴ってやりたくなる。 これは一言何かを言ってやらねばと口を開こうとする。 だが二の句が告げない。 それは俺がふと一つだけ気が付くことがあったからだ。 それは――、「ラウ―ロさんとアルフォドさんて良く似てる……」 そうだ。今思い出してみればあの担当官の初めてのプレゼントも「トランプゲームの勝ち方」とか言うわけの分からないものだった。 プレゼントのセンスも、女の子のことを何も分かっていない間抜けぶりもラウ―ロはまさにアルフォドそのものだ。「はは、」 俺は可笑しくなって声に出して笑った。 何だ、俺とエルザが似た者同士だったのなら、担当官の二人も似たもの同士だったのだ。 何がなんだか分からず、茫然と立ちつくすラウ―ロを見るとさらに笑いが込み上げてくる。 俺はアルフォドが何事か、とやって来るまでずっとそうして笑っていた。 もちろんアルフォドの顔を見て俺の臨界が弾け飛んだのは言うまでもない。「ラウ―ロ、そろそろ」 アルフォドに促されて、俺は持っていた拳銃とIDカードを渡した。これから2週間、俺は独房で生活をしなければならない。 だが不思議と気分は晴れていて、そんな俺の表情を見たアルフォドが訳が分からないと困惑していた。 俺は去り際にこう告げる。「良い義体――いや、少女に恵まれたな」 アルフォドが何か声を上げるが、俺はそれを無視して保安部の元へ向かっていく。 公社の建物の窓かあら外を見れば、エルザが一人本を抱えて歩いていた。「ブリジット」 クヌギの木の根元でビスケットを摘まんでいた黒髪の少女に、プラチナブロンドを三つ編みにした少女が声を掛ける。 エルザというその少女の手元には、ブリジットから手渡されたラウ―ロのプレゼントがあった。「何?」「ここでこの本を読んで良い?」 エルザの問いにブリジットは懐から飴玉を取り出すことで答えた。エルザはそれを肯定と受け取ったのか、腰掛けたブリジットの膝の上に座り込む。「ねえ、エルザ。その本面白い?」 ブリジットの胸を背もたれにしたエルザは一つ微笑むと、「うん」と答えた。「そっか」 それだけを告げると、ブリジットは静かに瞼を閉じて眠りについた。最近の彼女を知っているものからすれば、それはとても穏やかな眠りだった。 甘い午後の陽気が過ぎていく。 夕方になってトリエラとクラエスがやって来たとき、クヌギの木の根元には二人の少女が寄り添って眠っていた。 また夢を見た。 でもそれはいつもの夢と違っていた。「やっと会えたな。俺はアルフォド、訳有ってフルネームは教えられないがこれが俺の名前だ」 男が寝たままの私を覗き込む。「君の名前はブリジット。かの有名な日記の作者と同じ名前だ」 私は男――アルフォドに手を伸ばす。「これからよろしく」 男は私の手を握って笑った。