――自分の引き千切れた手足はただ無感動に眺めていたくせに、 ――広がっていく醜い血溜りはどうでも良かったのに、 どうしてだろう。 ブリジットの泣きそうな顔だけは、到底受け入れられなかった。 アルフォドが俺の左腕に包帯を巻いてくれた。拳銃弾が掠めたのか、二の腕に小さな裂傷が出来ていたのだ。「エルザは無事だったそうだ。弾丸は右胸を貫通していた。ちょっとした手術で直ぐに意識を取り戻すよ」 大事をとって俺の腕をアルフォドが三角巾で吊り上げる。そこまで大した怪我じゃないのに、彼は熱心に治療していた。「アルフォドさん、掠り傷ですから包帯だけでいいです」 俺の提言を彼が聞き入れることはない。彼は俺の言うことを無視して三角巾を首のところで結んだ。「幾らなんでもこれは大袈裟です」「大袈裟なんかじゃないさ」 少し語気を強めた抗議も、彼の手に掛かれば一蹴されてしまう。 俺は流石にウンザリして、彼に背を向けた。「ブリジット、俺は君を心配しているんだ」 そんなことは百も承知だ。だからこそ鬱陶しいと感じるのは、もしかしたらとても贅沢なことなのかもしれない。 アルフォドが俺の肩を掴んだ。「君は何をそんなに焦っている」 彼の声に身が強張る。俺は焦ってなどいない、と反論しようとして――でも反論の句が告げることが出来ず、 小さな、咳をする様な息を一つ吐いた。 そんな俺をアルフォドが引き寄せる。 俺はアルフォドの胸元に顔を埋めて、彼の優しさに甘えた。「最近、夢を見ます」 アルフォドが何か声を発しようとする。俺はそれを指で遮って続けた。「多分、二つともお腹を撃たれる夢です。片方は私が始めて殺した男、もう片方は誰に撃たれたのかはわかりません。でも、私を撃った二人は私のことを憎んでいた」 不意に視界が雫で曇る。男に抱きついて夢の告白をするなんて本当はありえない筈なのに、今はそれにとても飢えていて、自然と涙が止まらない。「ねえ、アルフォドさん。私はいつ何を書き換えられたのですか? 私を撃ったのは本当に五共和国派? それとも他の誰かなのですか?」 俺はエルザを抱きとめた時の感触を思い出す。両の手が赤い熱い血に濡れて、それが酷く恐ろしくて寒気が止まらなかった。 それはまるで夢に見ていた光景とまったく同じだ。 違和感なんてとうの昔に気がついていた。 あれほど夢を見ず、昔の自分のことなんて何も知らなかったのに、ある日を境に――五共和国派に撃たれたとされる日から始まった悪夢。 衰えた自分の味覚。日に日に数が増えていった薬の種類。 原作での一期生の末路を知っている俺が気が付かない筈が無いのだ。それでも見て見ぬ振りをしていた。自分はまだ大丈夫、これは予想の範囲内、自分はまだ生きていける――。 認める。俺はまだまだ甘かった。なまじ知っている世界に生まれ変わったものだから、この世界が夢の世界だと思っていた。 だがそれは俺に向けられる殺意、憎悪、嫉妬、 そして両手に感じた血の感触によって全て否定されてしまった。 俺はこの世界に確かに生きている。そしてそう遠くない頃、死を迎える。 現実から目を背けて、今が神様がくれたボーナスステージだと一度でも思った自分が憎い。 今の自分はボーナスステージでもなんでもない。ただ無気力に生きつづけ、そして自分の生の意味を考えることなく死んでいった俺の報いだったのだ。 どれだけ拒絶しようと、どれだけ理屈付けようと、俺はこの世界で生きてかなくてはならない。そしてこの世界の全てを知っているが故にいつまでも孤独のまま。 それは何という地獄なのだろう。 エルザは愛するラウーロが永遠に手に入らないことに絶望して自殺した。 俺はエルザに同情していた。だが、愛したものも、憎んだものからも、永遠に置いてけぼりにされていく俺と何が違うのだろう。 根本的なところで彼女と俺は変わらない。 アルフォドの胸の中で、初めて声を上げて泣いた。 今まで恥ずかしくて、決して泣くまいと決めていたのに彼の前で初めて泣いた。 アルフォドが静かに俺を抱きしめる。 例え永遠に一人ぼっちでも、彼を手に入れることが出来なくても、 今だけはこの温もりに縋っていたかった。 ◆ それはエルザ負傷から二日後のことだった。 彼女が眠り続ける病室に一人の来客が現れた。腰まである長い黒髪と、同じ色をした夜のような瞳を持つ少女は静かに病室に入ってくる。 照明は切られていて、室内を照らす光源は窓から差し込んだ昼の日差しだけだった。 少女は先に病室にいた先客の背中に声を掛ける。「ラウーロさん、アルフォドさんから聞きました。あなた二日間もそうしているそうですね」 ラウーロと呼ばれた男は緩慢な動作で少女に振り返った。唯でさえ彫が深く陰影のはっきりした顔だったのに、ここ二日で憔悴しきった顔は幽鬼のようだ。「少し、お時間はありますか?」 ラウーロは己の腕時計を見て、そしてベッドで眠り続けるエルザを見た。彼女が一向に目を覚ます気配が無いのを確認して、彼は静かに頷く。 少女はラウーロの隣に椅子を引っ張り出して、そこに腰掛けた。「あれ程エルザを無視し続けていたあなたが、甲斐甲斐しく彼女の看病をするなんてどういった風の吹き回しですか?」 ラウーロは直ぐには答えない。彼は瞳を伏せ息を吐く。組んだ両手に己の額を預けると、静かに口を開いた。「こうして眠り続けている限り彼女は人間だからだ」 確かに眠り続けるエルザは年相応の少女そのものだ。だが、普段の彼女も見方によれば一人の男性を敬愛する少女だ。ブリジットはそのことを疑問に思い問うた。 ラウーロはこう答える。「それは俺の罪だ。俺は俺の罪に抗えない。もし俺がその罪を直視すれば彼女を殺してしまう」「罪とは? どうして直視すればエルザを殺すのですか?」 ラウーロは答えない。額を組んだ手に預けたまま微動だにしない。ただ彼の口元だけは何かに訴えるように震えていた。 ブリジットはラウーロが答えを示すのをただ待ち続ける。「エルザ・デ・シーカ。それがこの子の名前だ」 ラウーロは続ける。「偽名でも何でもない。この子がトラックに轢かれて死に掛ける前も同じ名前だった」 震えた唇が、必死に言葉を紡ごうとする。「俺は五体を引き千切られるのがどんな感触かも想像が付かなかった。そして一度死んだ後、殺人サイボーグとして無理やり蘇えさせられる苦痛も想像できなかった」「だから彼女の記憶を全て消してやろうとした。自分が死ぬまでの幸せな人生も、事故で轢き潰されるその瞬間も」「でも名前だけ、名前だけは残してやらねばならないと思った。それだけが彼女が生きていた証だからだ」「だが殆ど全てを奪ったことに対する代償は避けられなかった。彼女は俺を盲愛するという、全てを奪った俺に全てを捧げるという最もあってはならないことが起こった」「俺は耐えられない。彼女が俺を憎まない限り耐えることが出来ない。全てを奪い残酷なものを与えた事実に向き合うことが出来ない」 ラウーロの独白をブリジットは黙って聞き続けた。 ただ、独白が終わったその瞬間だけこう言った。「あなたがもしエルザのことを嫌っていないなら、エルザにもっと何かをあげて下さい。別に愛情じゃなくても良い、心がこもって無くても良い。ただあなたが何かをあげるというだけでエルザは幸せです」 ラウーロは呆然とブリジットを見つめた。「もしあなたがこのまま何もあげないのなら、私がエルザを満たします。でも私なんかで満たされるより、あなたに満たしてもらったほうがエルザは幸せです」 病室でのやり取りのあと、ラウーロは仕事が溜まっているといってその場を後にした。 薄暗い室内で、ブリジットはエルザの枕元に腰掛け続けていた。 ◆ 私が目覚めたとき、病室にいたのは枕元で眠っているブリジットだけだった。 ラウーロさんがいないことに、特に驚かない。 私はある程度予測できたその事実に乾いた笑いで答えた。 枕元で眠っているブリジットは、私が決して得られないものを全て持っている。 彼女は担当官に愛されて、そして担当官の愛し方を知っている。 私は何も知らない。私には何も無い。 少し前までは憎くて仕方が無かった。彼女に対する嫉妬のせいで眠れない夜が続いた。 それなのに、今は彼女が枕元で眠ってくれているだけで胸がはち切れそうになる。 どうしようもない喜びで溢れて、何がなんだかわからなくなる。 ――けれど、 彼女に対する憎悪が、妬みが、さまざまな負の感情がどうしても消えてくれない。 こんなことを考えちゃいけない筈なのに、この場で彼女をグチャグチャにしてやりたくなる。 私は私が怖い。こんなことを考えている私が怖い。 私は自分を抱きしめて、ただ震えていた。 でもそれが情けなくなって声を押し殺して泣いた。 ◆ 病院を抜け出した私は公社の中庭にいた。 あたりはすっかり暗くなって人気が無い。大きなクヌギの木の下に腰掛けると、私は右手に手にしたものをそっと見つめた。 SIGSAUER P-226。 寝ていたブリジットから失敬した一丁の拳銃。 他にも色々な方法を考えたけど、結局これしか見つからなかった。 私はそれを右目に当てて引き金に親指を掛ける。私は私が悪者になるのが怖くて、ラウーロさんが手に入らないことが怖くて、引き金を絞る。 ブリジットの銃の銃声はまるで彼女のように優しい音がした。