薄暗い廃工場の中をブリジットは走る。 獲物が落としていった血の跡を、強化された嗅覚を使って辿っていく。 彼女の頭は獲物を殺すことしか考えられない。手にしたSIGは心強い見方で、背中に差したアーミーナイフこそ正義だ。 獲物は直ぐに見つかった。奴は傷を庇いながらコンテナの陰で怯え震えている。ブリジットはその様子を確認すると息を潜め静かに笑った。 酷く吐き気がする夏の夜。 彼女は初めて人を殺す。 エルザ・デ・シーカは昔エルザという名前ではなかった。 トラックに轢かれて五体を引き千切られたことは覚えている。でも、死ぬ前の自分のことは何も思い出せない。 何処に住んでいたのか、何が好きだったのか、そもそも自分の名前はなんだったのか。 けど、エルザはそれでいいと思っていた。 今ラウーロに愛してもらえるのなら、 今ラウーロを愛することが出来るなら、 エルザはそれだけを糧にして生きている。 GNSLINGER GIRL エルザ・デ・シーカ 耐えられないほどの吐き気がして目が覚めた。 また嫌な夢を見た。最近はずっとだ。昔はてんで見なかったのに、薬の副作用なのか初めて人を殺したときの夢を良く見る。 ベッドから起き上がると寝汗がシャツを濡らしていて、シャワーを浴びることの必然性を説いていた。俺は緩慢な動作で身体を起こすと、別のベッドで寝ているトリエラを起こすべく立ち上がった。だがそれは無駄足に終わったようで、トリエラのベッドには誰もおらず、ついでにクラエスの姿も見えないことから二人とも朝食を先に取りに行っていることが伺えた。「詰まんないの」 俺の呟きを聞くのは八匹の熊の縫いぐるみだけだ。トリエラのクリスマスプレゼント共が無言で早くシャワーに行けと急かしてくる。 俺は枕元からヘアバンドを一つ取ると、髪を後ろでくくってポニーテールにした。毛布を綺麗に畳み、ベッドの上に積んでおく。 伸びを一つすると昨日打ち付けた背中が悲鳴を上げた。どうやら骨に異常はなくても、直感的に身体が強張ってしまう。 苦笑を一つ零すとトリエラとクラエスに書置きを残して俺はシャワールームに向かった。 それはいつも通りの朝のこと。 窓から弱い日差しが流れ込み、薄暗い室内を照らしている。 シャワールームは幸い誰も使用しておらず、服を脱げば直ぐに使える状態だった。 俺は一人、脱衣所で裸になると肌寒い冷気を感じながらシャワールームに飛びこんだ。 シャワーの蛇口を捻り、程よい温水を頭から被る。 そして前髪から垂れていく雫の合間から室内に取り付けられた鏡を見た。いつかの時のように裸の女の子がこちらを見ている。 暫くの間、温水を浴びながら自分の身体を眺める。肌の感触も口から漏れる吐息も本物のようなのに、中身は炭素フレームと人口筋肉ということが未だに信じられない。「ターミネーター」 あながち間違っていないと俺は笑った。 公社に作られた政敵抹殺用の強化サイボーグ。それが俺がこの世界に生きている存在証明だ。担当官の命令を聞いて人を殺すことでしか生きていけない。 いつの間にかシャワーが冷水に変わっている。 俺は頭を冷やすつもりでそのまま冷水を全身で受け止め続けた。「ブリジット、今日は遅かったな」 シャワーを浴びて自分の部屋に戻ろうとするとアルフォドが廊下に立っていた。どうやら部屋まで俺を訪ねて不在だったから廊下で待っていることにしたらしい。「ごめんなさい。起床時間が遅かったので」 頭を一つ下げて、彼を部屋に招きいれた。「B」と書かれたマグカップに淹れ置きされてあったコーヒーを手早く注ぐと、それをアルフォドに手渡す。「これは俺があげたやつか。使ってもらえて嬉しいよ」 アルフォドはコーヒーを啜り、いつもトリエラとクラエス、三人で使っているテーブルに腰掛けた。そして脇に抱えていたのか、何処からともなく取り出した小さなステンレスのガンケースを俺に差し出す。「これは?」「開けてみなさい」 手早くロックを外し、言われたとおりケースを開封した。するとウレタンの緩衝材に挟まって一丁の中型拳銃が収められていた。「SIGSAUER P-226だ」 アルフォドがスライドの横に刻まれた刻印を指差す。確かに其の通り銘が掘ってある。「君の前使っていたSIGなんだがな、昨日の任務で落としてきただろ。あの後軍警察に回収されて暫く戻ってこないかも知れないんだ」 エルザを庇ったとき拳銃を床に投げ捨てていたことを思い出す。なるほど、あれは警察関係者が拾ったのか。「それで公社から新しい銃を支給してもらった。弾は今まで通り9ミリだから心配しなくてもいい。ただマガジンが複列式になったからそこだけ注意してくれ」 スライドを引いて、薬室を開ききった状態にしてみる。重さは以前より重く、銃口も少し長い。これはシューティングレンジで使ってみる必要がありそうだった。 俺は受け取った拳銃をテーブルの上に置くと、アルフォドの反対側に座った。「それとな、次の任務から俺たちはラウーロ、エルザ組とコンビを組むことになった」 自分の分のコーヒーを淹れないで良かったと心底思う。きっとコーヒーなんか飲んでこの話を聞いたらアルフォドに熱湯のシャワーを浴びせていた。俺の唾液入りの。「どうしてですか」 出来るだけ平静を装って俺は問うた。アルフォドは俺の動揺に気がついていないのか、暢気に茶菓子を摘みながら答える。「昨日の任務でラウーロがエルザにお前の戦闘技術を学ばせたいと言ってきたんだ。俺は断ったんだが課長命令もついてきてな、すまんが暫く我慢してくれ」 アルフォドの台詞に眩暈がした。昨日自分たちを見て逃げていくエルザを見て嫌な予感はしていた。まさかそれが現実のものになるとは。 エルザは近い将来、自分に振り向いてくれないラウーロに悲観して彼を殺し自殺するだろう。俺はもともとそのイベントを止めるつもりは無かった。それがこの後の展開にどのような影響を及ぼすのか分からなかったし、止めようとして自分が巻き込まれればそれこそ本末転倒だからだ。 だがここに来てエルザとの関わりが急増してきた。 俺は自分が陥った状況にため息を付きたくなった。原作キャラ、特に義体には甘い俺のことだ。おそらくこれ以上エルザとの繋がりが強化されると彼女を見捨てることが出来なくなるだろう。 傍観か、介入か。 目の前に置かれたSIGを見つめて俺は固まった。 アルフォドが飲むコーヒーの匂いが鼻をくすぐる。 茶菓子のクッキーを乱暴に引っ掴むとアルフォドが驚くのも無視して、それを丸齧りした。 ラウーロさんからブリジットたちと組むことを伝えられた。 私はそれを聞いて、自分の部屋に閉じこもった。ルームメイトなんか最初から存在しない自分だけの部屋。 私は私の宝物のラウーロさんの写真を抱きしめてベッドに横たわる。 ブリジットのことを考えるとどうしようもない絶望感に襲われて、自然と視界が曇る。 彼女はあの担当官のことが好きだ。あんなに強いのに担当官の目の前になると、とても女の子らしくなっている。 そして担当官の人もブリジットのことを愛しているのだろう。 あの担当官はブリジットを褒めていた。そして負傷を心配していた。昔私が刺された時ラウーロさんは何も言ってくれなかったけど、あの担当官ならブリジットが少しでも怪我をすると凄く心配してくれるのだろう。 私はわからない。 どうしてラウーロさんは私を愛してくれないのか。 どうしてブリジットはあんなに愛されているのか。 私とブリジットは何が違うのか。「惨めなだけじゃない」 エルザはベッドで一人泣いた。自分の中に渦巻く嫉妬の念が怖くて一人で泣いた。 ブリジットのことを思い出すたび、涙が止まらなくなる。ラウーロのことを考えるたびに泣き叫びたくなる。 彼女の嗚咽を聞くのは、写真の中の愛しい担当官だけだ。