壁面を駆け上がってきた化け物を見て感じたのは、体の奥底から沸き上がる恐怖と、自分に対する怒りだった。 キスカは昔からロッソの命令を忠実にこなすことが出来なかった。 必ず中てろ、と言われた弾丸を中てることが出来ない。言葉遣いを直せ、と言われても直すことが出来ない。 役立たず、と見捨てられても仕方のないようなミスを沢山してきたし、これから自分が器用に立ち回る自信もない。 ただ己の命と担当官の命を守ることが精一杯で、生きることが精一杯だった。 ブリジットに勝て、と言われても恐らくそれは不可能な現実。 その証拠に今この瞬間、自分に向かって飛びかかってきたブリジットの一撃を右腕で受け止めるだけで精一杯だった。 もちろんナイフの斬撃が見えたわけではない。ただ、動物的な本能で、己の顔を庇うように突き出した右腕が盾の代わりになっただけだった。けれど運が良いのか悪いのか、骨にまで達したナイフの刃は炭素繊維で出来たそれにぶち当たり真っ二つに折れていた。 夕日に煌めく鮮血の中、ブリジットの昏い瞳がこちらを見下ろしている。 背中を駆け抜けていく寒気を振り払いながら、キスカは渾身の力でブリジットの腹を蹴り上げた。 意外にも軽い彼女の体は倉庫のトタン屋根の上をバウンドしていく。キスカは己の右腕に食い込んだナイフの刀身を捨て、自身のナイフを左腕に構えた。 そして出来るだけ姿勢を低く、出来るだけ重心を低く、転がっていくブリジットに突進していく。「死ね!」 口から自然と沸き上がってくることは憎悪の言葉。ブリジットの淀んだ殺意を受けて飛び出した必然の言葉だった。 ゼロから瞬く間に最高速へと到達するキスカのナイフがブリジットを捉える。バウンドをしていったブリジットはトタン屋根の隅で今まさに起き上がろうとしている最中だ。 煌めく銀色の切っ先がブリジットの脇腹に食い込む。「つあっ!!」 口端から血を吹きだし、ブリジットの身がトタン板に縫い付けられそうになる。だが彼女は素早く身をよじらして、軟らかい腹部を突き抜けた刀身を敢えて利用し、内蔵を傷つける前にその場から離脱した。 それを見たキスカの手が一瞬だけ止まる。 そして右側頭部に衝撃。 見れば見事なまでにブリジットのハイキックが頭部へめり込んでいた。あまりにも鮮やかな手並みに声を出すことが出来ない。 彼女が感じたのは絶望的なまでの力量差だった。 ブリジットが自分ではなくキスカに突撃したことは行幸と言えた。 もし自分が標的にされていたのなら五秒と持たずに肉片に還られていただろう。 だがキスカとブリジットの戦力差は明白だった。善戦はしているものの、とても打ち勝てるような展開ではない。それはナイフの斬撃に対する捌き方で顕著に表れていた。 利き腕を犠牲にしたキスカと脇腹を犠牲にしたブリジット。どちらが優れているかと言えば断然ブリジットだと言える。 義体はそもそも失血死で死ぬことは殆どない。 脳に深刻なダメージを負うか、肉体をバラバラに吹き飛ばされない限りは限りなく死ににくい体質なのだ。 ならば戦闘行為に支障をきたす利き腕を差し出したキスカは、余り差し支えのない脇腹一つで纏めたブリジットに遠く及ばないことになる。 報告書で「上手い」と評されていたブリジットの戦闘スタイルにただただ舌を巻く他ない。 ただ闇雲に飛びかかっているだけに見えるブリジットはその天才的なセンスを武器に、実に精緻な動きを体現しているのだ。「あぐっ!」 そして決着は現実の時間にして三十秒ほどだった。 血を円上にまき散らしながら放たれたブリジットのハイキック。それはキスカの側頭部を見事に捉えて彼女を吹き飛ばした。 キスカがブリジットを蹴り飛ばしたときよりも質量と速度を持った飛翔。 小さなキスカの肉体はトタン屋根をバウンドすることなく倉庫の谷間に堕ちていった。 いたい、。いたい、いたい、痛い、いたい、痛い。 物の見事に墜落したキスカは倉庫と倉庫の谷間で呻いていた。大きな外傷は無いものの、落下のショックとハイキックの衝撃で脳が麻痺している。 まさかここまで差があるとは思わなかった。 まさかここまで一方的にあしらわれるとは思わなかった。 キスカは残された左腕だけで立ち上がろうとする。全ては上に残してきてしまった担当官を守るため。ブリジットという敵から守るため。 だがその心配は無用だった。一刹那、倉庫の合間から見上げていた夕日が影に遮られる。 見開かれたキスカの両の瞳に映ったのはこちらに飛び降りてきたブリジットだった。「はあ、はっ、はっ」 キスカに穿たれた脇腹が痛むのか、ブリジットの額には脂汗が浮かんでいる。自身の血とキスカの血でドロドロになった右手が傷口を押さえていた。「ころ、さないと……」 決して確かではない足取りを無視しながらブリジットが迫ってくる。キスカはそれを見て泣きたくなった。 身近に差し迫っている死の恐怖と、悪魔のような義体の姿に。 あまりにも濃密すぎる凶器の色がキスカの世界を絶望に塗りつぶしていく。ブリジットの左手がキスカの頬に触れた。 何千発と銃器を振り回してきたであろう手にはタコの一つも存在していなかった。白魚のように細い指先がキスカの唇をなぞる。「殺してあげる」 次の瞬間、ブリジットの両手がキスカの首を掴んだ。いや、掴むという表現は生ぬるい。まるでそこにある首をへし折らんばかりに握力の込められた掴み方だった。 実際のところ、義体に改造されているキスカではなく常人のそれだったならば二秒と持たずに握りつぶされていただろう。 「ひくっ」 キスカは残された左腕でブリジットの腕を掴む。だが悲しいかな、それは彼女の拘束を振りほどくには弱すぎた。 酸欠の所為で舌が引っ込みそうになるのを必死に堪えながらキスカは声を絞り出す。瞳には涙を讃え、倉庫の隙間から広がる夕焼けを見た。「たす、けて。ロッソ……」 正直、射撃の腕は社会福祉公社の中でも指折りに下手くそだった。 だからこうして引き金に指を掛けている間も震えが止まらない。キスカと重なったブリジットに星門を重ねても手先の震えから狙いが定まることはない。 こうなることは薄々と分かっていた。キスカを信じていないわけではなかったが、心の何処かで作戦が失敗することを知っていた。 僕はこの世界が大嫌いだ。僕にこんな辛いことをさせるこの世界が大嫌いだ。出来ることなら平和に、前いた世界の日本で暮らしていたかった。銃とは無縁の世界で生き、そして死にたかった。 なまじキスカを助ける手段があるからこそ、僕は力を行使しなければならない。 僕はそれが嫌で嫌で仕方がないのだ。 それに、ほら。「たす、けて。ロッソ……」 彼女の懇願を聞いてしまったのなら、もう選択肢など残されていないのだから。 倉庫の屋根から飛来した弾丸はブリジットの左肩を撃ち抜いた。衝撃に打ちのめされブリジットがキスカに覆い被さるように倒れ込む。絞殺から逃れたキスカはブリジットの下で大きな咳を繰り返した。まさに失われた酸素を取り戻すために。だが自分にのし掛かるブリジットを押しのける力はないのか四肢を弛緩させたまま身動きを取らない。 漠然とした頭で自分が助かったことをキスカは知った。「ロッソ、さま」 愛すべき担当官の名を呟いたとき、キスカは己に課せられた任務をやっと思い出す。のろのろと倒れ込んできているブリジットの腰にぶら下がっていた拳銃を抜き取り、薬室に弾丸が込められていることを確認した。 そう、自身に課せられた任務は裏切り者のブリジットを殺すこと。 今それを果たす千載一遇のチャンス。「ふっ、ふ」 肩を撃たれたことで意識が混濁しているのだろうか。ブリジットは荒い息を吐き出すだけで抵抗しようとしない。 キスカは拳銃をブリジットの顎に押し当てた。 とくん、 何処かで鼓動が聞こえる。それがブリジットのものなのか、それとも自分のものなのかはわからない。 とくん、とくん、とクン…… どちらの鼓動か分からないまま、リズムは加速していく。 キスカは、引き金を引いた。 HEAVEN HEART HEART