「アルファルドさん! 今日は何処に行くんですか?」 ベッドの上で少女が声をあげる。黒髪を肩口まで伸ばした彼女は左足がなかった。 彼女はアルファルドと呼んだ男に義足をはめて貰いながら、楽しみを隠しきれないっといった様子で問いかける。「……今日は俺の大切な人のお墓参りさ。ブリュンヒルデ」 朝日が差し込む病室で、無精髭を生やした男は静かに笑った。 墓は海が見える丘の上にあった。石碑には名が刻まれていない。ただ手入れは行き届いているのか、大理石で出来たそれは昼の暖かい日差しを受けて白く輝いていた。 ブリュンヒルデは自分の介護士が墓に花を手向ける様子を黙って見守っていた。彼女が世話をしている二匹の黒猫が足下で鳴き声をあげる。「ねえ、アルファルドさん。ヒルダとブリジットがお腹空いたって」 二匹を猫を抱えあげてブリュンヒルデが笑う。アルファルドはそうか、と呟くとポケットの中からチョコレートを取りだして彼女に渡した。「もう、ヒルダとブリジットはチョコレート食べられないよ!」 到底、猫の餌には相応しくないものを手渡されてブリュンヒルデは頬を膨らます。アルファルドは一瞬、我に返ったような表情をすると「すまない」と小さく頭を下げた。「……昔、これが好きな女の子がいたんだ」 彼の視線の先には大理石の墓がある。ブリュンヒルデはそれを見てこう言った。「その女の子がそこにいるの?」「いや、ここにはいないよ。もう何処か遠い、俺の手の届かないところに行ってしまった」 寂しそうに答えを返すアルファルドを見て、ブリュンヒルデは眉根を下げた。 きっとその女の子は自分なんかより、よっぽど彼の心の中を支配していたに違いない。「彼女はね、幸せじゃなかった。けれど諦めなかった。彼女が生きてくれたおかげで今の俺がいるんだ」 丘に風が舞い、芝生が宙に舞う。ここから見える海はとても雄大で、綺麗な景色に違いなかった。 そしてアルファルドは何かを思いついたかのように言葉を開いた。「ヒルダとブリジットの餌は車に積んである。取ってきてもいいよ」「アルファルドさんはどうするの?」「暫くここにいる。ここで待っているよ」 穏やかに告げるアルファルドに従い、二匹の猫を携えてブリュンヒルデは丘を駆け下りていく。それと入れ替わりに、春だというのにロングコートを纏った男が麓から歩いてくるのが見えた。 アルファルドはその様子を見て、目を見開いた。「ヒルシャー……」 五年ぶりに出会った同僚は記憶よりも老けて、けれど生気に満ちた顔をしていた。「久しぶりだな。アルフォド。いや、もうここではアルファルドか」 丘を降りていくブリュンヒルデを見ながらヒルシャーは再会の挨拶を告げた。「似ているな、彼女に。聞いたよ、実家に戻って介護士になったんだってな」 イタリアでアルフォドと呼ばれていた男は、偽名を名乗ることをやめ、ドイツの地で静かに暮らしていた。あれほど変えることを拒んでいた実家にもすんなりと順応できた。 もう公社で働いていたのは遠い昔のことのように思える。「……彼女はブリュンヒルデ。ドイツが持ち帰った義体の情報を民間に流用した義足をはめている。ブリジットの系譜だよ、彼女の足は。その所為かここ数年でよく似てきた」 墓の前に腰掛けてアルフォドは語る。「君はいま何をしているんだヒルシャー、トリエラはどうした?」 新トリノ原発戦で戦力を大幅に減らした社会福祉公社は解体された。その際、NATO諸国の介入も激しかった。 生き残った義体はそれぞれ専用の施設で最期を迎えたという。「一昨年逝ったよ。戦いを止めた途端、随分もった。その半年後にクラエスが、その翌月にはペトラとアンジェリカも逝った」「……リコはどうした?」 新トリノ原発で産まれた殉職者には軍警察で共に戦ったジャンの名前もあった。彼に付き従っていたリコは弟のジョゼに保護されたようだが、それから先のことをアルフォドは知らなかった。「まだ生きてるよ。と言っても去年から歩くことが出来なくなったが。……成長して美しい女性になった」「義体は成長しないはずじゃ……」「いや、彼女の場合は特別だ。最小限の条件付けでもともと脳の状態も良かったから、精神年齢に沿って体を置き換えていったんだ。これは彼女が望んだことだ。――――その課程でブリジットの臨床結果から作られた薬剤が役に立ったよ」「そうか……」「僕はEU警察に復帰した。君の足取りを探すためにね。ドイツに帰国したことまでは掴めたんだが、それからが大変だった」 ジャコモをブリジットが殺したことによって、アルフォドは五共和国派に共謀したことを罪に問われることはなかった。 裁判が決着し次第、彼は故郷であるドイツに亡命にしていたのだ。「今日はこれを渡すためにここに来た。……僕の妻のロベルタがブリジットから預かっていたものだ」 そう言って取り出されたのは色あせた赤い日記帳だった。いつかのクリスマスに、ブリジットへ贈ったものだと思い出すのに少し時間が掛かった。「これは?」「さあな、中身は僕も知らない。ただブリジットは君へいつか届くことを願っていたらしい」 ヒルシャーはそれだけを告げて手にしていた花束をブリジットの墓へ添えた。名を刻むことの出来ない墓石に一瞬表情が曇るが、直ぐに墓石前へ膝をついてみせた。 アルファルドはそれを見届けた後、静かに日記帳を開いた。 一ページ目には決して綺麗とは言えない字で、でも確かにブリジットの筆跡でこう書かれていた。 思い出を忘れてもいいように、日記を付けようと思った。でも、忘れることが運命ならば、それに抗うのではなく受け入れて見せよう。それが多分正しい。 なら何を書こうか? そうだ、あの担当官に思うところを書けば良いんだ。 二ページ目以降からは、毎日毎日、ブリジットがアルフォドについて思うところが書き連ねられている。 今日、とある重役のパーティーに潜入。珍しく着飾ったあの人は気持ち悪いくらい格好良かった。何だろうあれ。普段からもきっちりとすればいいのに。 今日、猫を飼い始める。名はヒルダ。あの人は賛成してくれた。なんだかんだいって優しい。 このごろ物忘れが酷い。でも書かない。決めたことだから。あの人のことだけで埋めると決めたんだ。だから書く。あの人は中々私を助けてくれない。 また憎まれ口を叩いてしまった。そんなつもりはないのに。もう時間がないのに。どうしていつもこうなるんだろう。 多分もう直ぐ終わりが来る。でもあの人には言えない。きっと悲しむだろうから。 そして、アルフォドがブリジットを連れ出した後の日付には日記では無くメッセージが刻まれていた。 ごめんなさい。アルフォド。これをあなたが呼んでいるとすれば多分私が死んでいるときです。だから全部書きます。私のことを全部。嘘だと思うかもしれませんが、これが真実です。 ごめんなさい。あなたの元で教養を伸ばそうとしませんでしたから、変なイタリア語になっているかもしれません。とても恥ずかしいことですが、精一杯書き連ねます。 ――――私は実は私ではありません。あなたたちが作ったはずのブリジットという名の少女ではありません。 私はどこか遠い場所からやってきた、ここにあるはずのない人格なのです。 私には未来が読めました。私にはみんなの心が読めました。私にはみんなに降りかかる災禍が読めました。 でも私はそれを踏まえてみんなを救う力がありませんでした。自惚れの結果、全部壊してしまいました。謝罪は出来ません。してはいけないと思います。 でも、みんなから怨まれるのは仕方の無いことだと思っています。 ――――できればあなたには憎まれたくないです。 話を戻しましょう。そういうわけで私はずっとブリジットという名の少女として振る舞い、生きてきました。でもいつしかそれは演技ではなくなり、私はブリジットという名の少女として生きると決めました。 それはあなたのお陰です。 あなたが私を愛してくれたから、私はブリジットとして生きていくことを決めました。 多分これは正しい選択ではないのでしょう。 私が演技を続けていればきっと救われた命もあったでしょう。 けれど私はあなたと共に、あなたのために生きることを決めました。この手を掴んで離さなかったあなたを信じて。 果たしてそれは間違いではありませんでした。だからここで全部書きます。 あなたが好きです。あなたを愛しています。あなたの為に生き、死にたいです。あなたの子供を身ごもりたかったです。あなたと共に本当の家族になりたかったです。 でも、それはきっと適いません。適ってはいけない願いです。 だから私はあなたの為に死にます。 そして自分の為に死にます。壊してしまった世界を放り投げて、自分の為だけに死にます。 今まで、本当に有り難う御座いました。 私は遠くに行きます。でも忘れないでください。引き摺らないでください。 私は、私が死んだ後、あなたが幸せであることを世界中の誰よりも願っています。 たとえこれが作られた感情でも、運命づけられた愛でも、 私は、ブリジットという名の少女なのですから。 後日、仕事に明け暮れるアルフォドの元にヒルシャーから一つの荷物が届いた。大きなテレビほどはあるそれは一枚の絵だった。 サインにはクラリスの文字。 今その絵はアルフォドが勤めている介護施設の一角に飾られている。 猫のような少女が、金髪と三つ編みの少女に囲まれて笑っている絵だった。