彼女が俺の矢面に立った時、希望よりも絶望を感じた。 何故ブリジットがここにいるのか。何故ブリジットがまだ戦おうとしているのか。 彼女が血を吐いて倒れた時、正直なところ一抹の安堵を得たものだった。こてでブリジットの戦いは終わる。ブリジットを苦しめる負の連鎖は追わると。 だが現実はどうだろう。ジャンとリコに追い詰められ、裏切り者の粛清を受けようとしていた俺を彼女は助けてしまった。 矢面に立った彼女は叫びを上げる。戦って死ぬ、と、宣言した彼女の声色には決意が滲んでいた。 悔しいことに脇腹一つ撃たれただけで、戦いぬく気力を削がれていた俺とは違う。いつも父親面して、そして恋人としてブリジットを愛した俺はまだまだ決意が足りていなかった。 生き抜く決意が足りない。死にに行く決意が足りない。ブリジットを地獄に堕とす決意がなかった。 ブリジットがこちらに振り返る。彼女は俺の頬を流れる涙を見つけ、はっとしたような表情を見せた。そしてそれを直ぐに憤怒に染め上げると今更起き上って来たジャンに向かって啖呵を切る。「これ以上、この人は傷つけさせない!」 ああ、違うんだブリジット。これは痛くて、傷が痛くて、死ぬのが怖くて泣いているんじゃないんだ。 君を助けることが出来なくて。君を心の底から愛していると、誰にも自慢できることが出来ないことに情けなくなって泣いているんだ。 だから頼むブリジット。こんな馬鹿な男の為に残りの命を使うな。 君がもっと幸せと感じることに命を使うんだ。君はこんなところで死んではいけない。君は地獄に堕ちるべきではない。「リコ!」 ブリジットの乱入からいち早く立ち直ったジャンがリコの名を叫ぶ。すると数瞬と遅れることなくリコはこちらに急接近し、ブリジットに掴みかかった。ブリジットはそれに対応するように、ステップを踏み、俺から離れていく。 やがて二人の姿が見えなくなり、打撃音と銃声も遠いものとなっていった。 残された俺に歩み寄ったジャンはブリジットに折られたのか右腕をだらしなく肩から吊り下げていた。「立て、アルフォド」 言われて、出血の止まらない脇腹を押えながら立ち上がる。「ジャコモを地獄に送る前に、お前を殺してやる」 ジャンから再び銃口を向けられた。引き金が引かれる前に身を倒し、その場から離れる。いつのまにか手にはブリジットからお守り代わりとして借用していたSIGを握っていた。 せめてこれを彼女に返すまでは生きよう。 ブリジットとリコが消えていったと思われる方角へ、俺は走った。 リコとの取っ組み合いはブリジットに何処か懐かしさを与えていた。 彼女がこの世界に生を受けて、初めて戦ったのは意外にもリコだった。結果は惨敗。こちらを組み伏せてきたリコを投げ飛ばしたまでは良かったものの、まだ義体の体に慣れきっていなかったブリジットは技で全くと言って良いほど歯が立たず、手痛い敗北を喫していた。 その感触を思い出す必要は全くと言って良いほどないのだが、それでも初めて義体として戦った相手というのは特別な物だ。 さらにリコはブリジットが初めてボタンを掛け違えてしまった相手でもある。 彼女が任務の途中でホテルボーイの少年を手に掛けることが耐えられなくて、ブリジットはその運命を変えようとした。結局は目論見は失敗に終わり、ブリジットとリコは仲違い、再調整されてしまうのだが、今更後悔はしていない。 ブリジットは今まで歩いてきた軌跡を後悔しない。振り返ることはあっても悔やむことはない。 それは多分、もう終わりが目に見えているから。「ぐっ!」 リコの上段蹴りがブリジットの側頭部にヒットした。普段ならば考えられないブリジットの姿にリコは戸惑いを見せる。 社会福祉公社最強の義体として君臨していたブリジットは格闘戦に於いても非凡な才能を見せていた。またついこの間まで負傷した右肩を庇いながら、左腕一つでGISを手玉にとって見せていた。 だが今のブリジットは明らかに反応速度が遅れている。 リコの打撃に対する速度が圧倒的に足りていない。まるでもう殆ど視力がないみたいに。「ブリジット?」 リコがバックステップを使ってブリジットから離れた。リコより頭一つ身長の高いブリジットは穿たれた側頭部から血を流し、鉄索に寄りかかっていた。「……なあに、リコ」 息も絶え絶えにブリジットが答える。その瞳には光がなく、濁った瞳孔が広がっていた。 リコは思わず目が合ってしまったブリジットの瞳に息を呑む。「……ううん、なんでもない」 恐れを、それとも憐憫か。 ブリジットに対して抱いたもやもやとした感情を封じ込めながら、再度リコは掴み掛かった。互いに刃物類は一切使わない肉弾戦だけの殺し合い。 だがその闘いは決して均衡していない。動きの鈍いブリジットの体に次々とリコの拳が吸い込まれていく。 その度にブリジットは血反吐を吐き散らし、リコの白い肌を汚していった。「まさか、こんな勝てないなんて」 投げやりに笑ったブリジットが膝をつく。「駄目だなあ、私。最後なのに全然しまらない。人生もっと格好良く終わると思ったのだけれど」 立ち上がる力すら残されていないのか。拳を止め、リコは呆然と立ち尽くした。 もっと戦えると思っていたブリジットは、「戦って死ぬ」と宣言したブリジットはもうこんなにも弱っていた。何故だかそれが悲しくて、ブリジットに近寄ることが出来ない。「……自分の寿命ってのはね、ずっと分かってた。ねえ、リコ。私を殺してもいいから、アルフォドを殺すのは止めて欲しい。私の命をあげるから、あの人を助けて」 ブリジットの泣き声にも似た懇願を聞いて、リコはある事実に行き着く。それは考えたくもないブリジットの悲しい覚悟。 そう。ブリジットはこの戦場に来たときから決めていたのだ。まともに銃すら握ることの出来ない自身の戦う方法を。 ガンスリンガーとして、義体として戦うことの出来なくなったブリジットはアルフォドの外敵を排除してやることが出来ない。ならばどうするか。答えは簡単だ。 アルフォドが生き抜くための肉の壁なり、人質になって死んでやればそれだけでブリジットの悲願は達成されるのだ。 ブリジットはもう生きようとはしていない。彼女が叫びを上げたように、「戦って死ぬ」ということが――――アルフォドの為に死ぬということがブリジットの目的なのだ。 それに気がついた途端、リコはブリジットに拳を向けることが出来なくなった。 何故ならリコもブリジットの気持ちが痛いほど理解できるから。担当官を守るために、まともに戦えなくなった義体がどれだけ辛い思いをするのか。 担当官を守り通すことが出来ないのなら、いっそのこと担当官のために死ぬ。 リコも恐らく、ジャンの隣で戦うことが出来なくなったらその答えに行き着くはずだった。 だからもうブリジットに殺意を向けることが出来ない。 一度ブリジットが内に抱いている感情に共感してしまうと、今までの場所に戻ることが出来なくなった。「ブリジット……」 膝をつき、俯いたままこちらを見上げてこないブリジットにリコは近づく。 自分が彼女にしてやれることがなんなのか、まだわからない。だがリコはうっすらと思い出す。自分を庇うように、得体の知れない悲劇からこちらを庇うように目の前に立つブリジットの姿を。 ああ、そうか。 私、この人のことが嫌いになれないんだ。 条件付けの向こうに封印された光景が徐々に思い出される。 あの場で少年を殺さなければならないのは、作戦を失敗したリコの筈だった。なのに、目の前で終わりを迎えようとしているブリジットはその悲劇を代わりに受け持って見せた。 ならば今ブリジットの悲劇を肩代わりしてやれるのは誰なのか。 それはアルフォドでも、ましてやジャンでもない。 他ならぬ自分自身だと、驕ろうとも思わない。ただ、少しでもブリジットが楽になれるように、手を差し伸べて引っ張ってあげることは出来る。「ブリジット」 リコが血塗れの手で、血塗れのブリジットの手を掴んだ。 こちらをやっと見上げたブリジットの反応は鈍い。まるで夢現の中を歩いているかのように、ブリジットの反応は脆弱だ。「アルフォドさんのところへ行こう。私と一緒に行こう。そしてジャンさんを説得するんだ。ブリジットが少しでもアルフォドさんと一緒に生きていけるように」 だから、と言葉を続ける。 ブリジットの腹を撃ち抜いたときとは正反対の、憎しみではなく、優しさに包まれた表情で。 だから立って、ブリジッ――――、 銃声が、聞こえる。 ブリジットは顔面に熱を感じる。 ブリジットは朦朧とする意識の中で、己の顔面に降りかかった熱い物の正体を知った。 こちらにゆっくりと倒れてくるリコの脇腹がごっそりと抉られていた。 そして動かなくなったリコを受け止めたとき、ブリジットはこちらにアンチマテリアルライフルを構えている男の姿を見つけた。「ジャ、コモ?」 それはブリジットが生きる物語の災禍といっても良い、闘争に生きる男だった。