「……げなさ……、……!」
声が……
「……や…! ――ない!」
――誰だ……
誰かの必死に呼びかける声に背を押され、俺はふらふらと歩いている。
俺? これは俺なのか……?
意識は朦朧として、なにも分からない。考えられない。
ただ、俺は後ろから声をかけるあの人の言うままに――
――まて。
”あのひと”って、誰だ。
「――たぞ! おい……!」
「……火を――やがった!」
荒々しい足音と声が迫る。
炎に包まれた屋根から大きな柱が一本落ち、黒い煙が立ちこめる。
「――!」
「――!」
恐ろしい声が煙の向こうから聞こえる。
”あのひと”がいる場所から。
戻ろう。
いや、逃げなくちゃ。
でも、この中には、中には――
「あ……あ――さ」
「――やれ!」
――ザクッ
声を上げると同時に、重い刃が何かを貫く音がして。軽いナニカが木の床に崩れる音がして……
直後、焼けた天井が本格的に崩れ始めた。
なのに俺の脚は前にも後ろにも動かなくて――
「あ……あ……」
炎を上げる梁が頭に当たり、俺は打ち倒された。
それでようやく俺は這いずるようにその場を離れ――
「――さん。――あさん」
泥を舐めるようにして腕の力で進み、藪の中へ頭から突っ込む。
どこかから飛んできた流れ矢が、寸前まで彼がいた地面に突き刺さる。
松明のように燃え上がった家が崩落する音が響き、その向こうからは逃げ惑う人々の悲鳴と断末魔が聞こえる。
「ああ……あああ――!」
ああ、これは夢だ。
夢でいい。夢であってくれ。
こんな絶望と恐怖に満ちた――焼け落ちる生家から這いずるように藪の中へ逃げ、血と泥に塗れながら誰かの名を叫ぶような記憶は――
(もういい――やめてくれ……)
フラッシュバックする光景。
立ちこめる煙の臭いと、肌を炙る炎の熱さ。
『――ロ!』
(覚めろ、覚めろ! こんな――こんなの……!)
『アオ――ん!』
一瞬煙の向こうに見えた、”あのひと”の姿。
地に伏せたその胸元からは、赤い、紅い――
『――アオロ!』
「うわああああああああああああ……っ!!」
覚醒の瞬間、俺は叫んでいた。
叫びながら、泣いていた。
そして気がついていた。
これは夢だけど、夢じゃなかった。
これが……こんなに悲しいものが。
――君の、最後の記憶なのか。
※ ※ ※
アオロが魘されている、と言ってエルルゥを呼びに来たのは、彼女が姉と慕うソポクだった。
熱があるわけでもなし、普通なら悪い夢を見ているだけで薬師を呼びはしない。しかし今回に限っては事情が違った。
ヌワンギの兵によって全滅させられたチャヌマウ村の唯一の生き残りであり、エルルゥ自身がその治療に当たった彼女の患者でもあるとある少年を、ソポクとテオロの夫婦はアオロと名付け、養子として引き取っている。
普通の子供ではない。
脚には、奴隷の如く意図的に斬られた痕があり、手には職業楽人もかくやというほどのタコがある。
楽器を渡せば見事に弾きこなし、筆を渡せば立派に文を綴る。
脚の傷はまるで奴隷のようだが、施された教育の跡は決して奴隷に対するそれではない。その上ハクオロらによれば、戦に対しても驚くべき洞察力と先見を示し、堂々たる弁舌で人を動かしたという。
一体何者なのかと、皆が不思議がった。しかし少年以外皆殺しになっている上に、当人も記憶を失っていたため、どのような身の上の少年なのかこれまで全くつかめなかった。
しかし、ついに少年を知る人物が現れた。なんとタトコリ関での戦いでこちらに降ったケナシコウルペ國侍大将、ベナウィその人である。
凱旋する兵達を楽で迎えようと勧めたのはエルルゥなのだから、それがきっかけでベナウィと少年が出会い、身の上が明らかになったのはめでたい事であるはずなのだ。
しかし――
「――ううっ……うーっ、ううーっ!」
「ちょっと前から、こんな感じになっちまってね……」
額に汗をかきながら悪夢に魘される少年の苦しみに歪んだ寝顔と、そのかたわらで痛ましい表情を浮かべるソポクを見ると、間違ってもこれがめでたい事であるなどとは言えなかった。
少年の枕元には、一棹のユナルとその弓が置かれている。ヤマユラ一番の芸達者であるカヌイからアオロが借り受けている、素朴な楽器だ。
昨夜ハクオロとベナウィの待つ部屋に呼ばれたとき少年はそれを持って行き、帰ってきた時には手ぶらだった。ソポクたちの部屋に戻るなり倒れ、昏々と眠り続け今に至る。
そのユナルは今朝、ハクオロが部屋に届けに来たのだ。そしてその時、ハクオロはアオロ――本当の名はアワンクルというらしいが――の身の上をテオロとソポク、そしてエルルゥに語った。
それは歴史の闇に隠された、ケナシコウルペ國の暗部。あまりに、恐ろしい話だった。
「――この話は、口外無用だ。本人の意思を優先するが、私としては今後もこの子はアオロ――親ッさんとソポクさんの息子として扱うつもりだ。それでかまわないか」
淡々と語るハクオロがそう確認すると、ソポクは小さくうなづき、眠る息子の頬を撫でた。エルルゥも頷き返した。
アオロの枕元にあぐらをかいていたテオロは、腕組みをして黙って話を聞いていたが、ハクオロの言葉に腕組みをほどいて言った。
「すまねえな、アンちゃん。それで頼むぜ」
「親ッさん……」
「それより、軍議があンだろ。オレたちの都合で遅くなっちゃあいけねェ。行こうぜ」
今朝になって、山向こうから早駆けの報告が来たのだという。
ハクオロがこの部屋に寄ったのは、テオロを呼びに来たという理由もあるのだ。
部屋を出て行きかけたテオロは入り口のところで振り返り、眠る息子の顔を見た。
「アンタ」
「カァちゃん、坊主を頼むぜ。起きたら腹ァいっぱいメシ食わせてやんな」
声をかけてきた妻にそう言って、今度こそテオロは部屋を出て行った。
前へ向き直り、歩き出す――その一瞬、エルルゥにはテオロの顔が見えた。その瞳が見えた。
見たことがないほど、怖い目をしていた。
テオロは土神テヌカミを身に宿している。テヌカミは暴れん坊のヒムカミを封じる神であり、力強く穏やかであると伝わる。人の人格は宿している神によってある程度左右されると言われているが、テオロも例に漏れず、力が強く、豪快で、細かいことにこだわらず、穏やかで我慢強い。育ちが悪いせいか言動がなにかと荒っぽいため、しょっちゅう誰かと喧嘩している怒りっぽい人物のように見えるが、それはほとんど遊び半分なのだ。産まれたときからの付き合いであるエルルゥでさえ、テオロが本気で怒っているのを見たのはついこの間――トゥスクルが兵に殺された時が初めてなのだ。
そのテオロが、怒っている。
あの冗談好きで陽気で気さくな、いつもエルルゥとアルルゥを本当の兄妹みたいに見守ってくれているあの優しい瞳が……今は爆発する前の火山のように怒りに満ちていた。
このまま見送っていいのか、なにか自分も声をかけるべきなのではないか、そう思ってエルルゥは廊下に出――結局何も言えず遠ざかる二人の背中を見送った。
それが、今朝の出来事。
そしてまもなく陽が沈むという頃合いになって、アオロがひどく魘されていると呼び出されたのだ。
「う……ううん! あ――う…っ!」
「すまないねぇ、エルルゥ。忙しいだろうに呼んじまって」
「いえ、私もアオロくんの様子、気になってましたから…」
「そうかい。ありがとうよエルルゥ」
いつも気丈な、しっかり者のソポクだが、今こうして苦しむ子供を見守るその表情は、いつもよりほんの少しだけ心細げに見えた。
エルルゥは、”アオロ”という名前の由来を知っている。この二人にとってどんな思いがそこにあるのかを知っている。
だからかもしれない、とエルルゥは思った。普段はアルルゥがお腹が痛いと言っても全然心配せず、むしろおかしなものばかり食べるからだとお小言を言うような肝っ玉母ちゃんのソポクが、今はうめきながら眠るアオロのかたわらで、心配そうな表情を隠しきれずにいる。
「かあ――ん……あ……ううーっ」
掛け布を跳ねのけるように腕が中空に伸び、悪夢にさいなまれるアオロの表情が一層の苦渋に満ちる。
しかしそれでも、エルルゥは彼を起こせとは言わない。ソポクもまたそうしようとはしない。なぜなら――
「――あさん…… うーっ うーっ!」
『かあさん』――母さん、と彼は幾度となく呼ばわっているのだ。
それは、つい先日親子となったソポクのことではあるまい。衝撃的な身の上話を明かされた直後に観る夢なのだ。そしてなによりこの苦悶の表情……まるで顔を火で炙られてでもいるかのような苦しみようはどうだ。
彼はいま、夢の中で思い出しているのだ。
喪われた記憶を――全てを喪った記憶を。
苦しいだろう、辛いだろう。見守るエルルゥでさえ胸が詰まるほどなのだ。
肩を揺すり夢から覚まし、悪夢を終わらせてやりたい。それは夢だ、もう忘れなさいと言って抱きしめ、穏やかな眠りにつかせてやりたい。
しかし――きっとそれは彼の為にならないだろう。
彼は思い出すべきなのだ。たとえどんなに恐ろしく、恐怖と苦痛に満ちた記憶であっても。
アオロ自身も、過去を知る覚悟を問うたベナウィにこう答えたという。
『どれほど辛い過去であろうと、それが私のものであるならば、それを抱えて生きてゆくほかないと思います――』
エルルゥはふと、その言葉にハクオロを想った。
彼もまた記憶喪失者、だ。
彼が記憶を取り戻すときも、このように苦しむのだろうか。そのとき、自分はどうするのだろうか……
「うあああーーっ! ああーーっ!!」
アオロが一際大きな声を上げて暴れ出したのはその時だった。
「――さん! ――あさん! ああああああぁぁ!!」
「アオロ!」
叫びながら、泣きながら、もがくアオロ。ソポクがアオロの手をとり、名を呼んだ。
はっとしたようにエルルゥのほうを見るが、その目はエルルゥに訴えかけている。
もういいだろう、と。
エルルゥはうなずいた。
夢は心の働き。実体無き玄妙なるもの。心や魂といったものはウィツァルネミテアの僧や巫の範疇。
見習い薬師の、ましてやこんな成人して間もない小娘ごときが口出しできるようなことではないが、それでも偉大な祖母の教えがこの時も彼女を導いている。
『食べ物が口を通って胃の腑に届き、腸へ進み栄養を吸い取るのと同じで、心もまた目で見て耳で聞いたことを、夢の中で消化するものなのさ。悪いものを食えば腹が苦しいし、辛いものを食えば痛む。それは当然のことで、大事なこと。腹が痛いからといってすぐに薬を飲んでいては、体は強くならないだろう。夢も同じだよ。良い夢も、悪い夢も、それは記憶を魂に取り込んで自分のものにしている最中なのだから、途中で起こして邪魔をしてはいけない。――でも、腹が苦しすぎれば人は死ぬ。悪い夢も過ぎれば毒、心を折ってしまうさね。だからそういう時は――」
「アオロくん!」
「起きな! アオロ!」
ふたりの呼びかけに応えるように、一際大きな叫び声をあげてアオロが悪夢から目を覚ましたのはその直後であった。
2012.01.06 一部表現修正。ご指摘感謝!