「ナラガン、ミライ――」
悩むような顔で父と母の名をつぶやく少年を、ハクオロとベナウィはそれぞれの視線で見つめた。
ハクオロは、失われている少年の記憶がこれを刺激に蘇るのではないかと観察の目を注ぐ。その眼差しにほんのわずかに共感と羨望の色が混ざっている
ことに、本人は気がついていない。
そしてベナウィは――幼いときから見続けているこの少年の顔が、見たことのない表情をし続けていることにかすかに困惑していた。
今自分の目の前にいるこの少年が、あの「アワンクル」であることは間違いない。
それは違えようのない証拠で明らかだ。しかし……
チャヌマウ、あの惨劇の村でこの少年が家族と共に記憶も失ったことは聞いている。
とはいえ、記憶を失った人間は、その人間性までも変化するとでも言うのだろうか?
貴方の過去ですと言って実は全くの赤の他人に「彼」の出生を教えるような過ちを、自分はいま犯しているのではないか?
――ベナウィは目を閉じて、益体もない物思いを終わらせた。
自分らしくもないことだ。理性より感情が先立ち、思いを迷わせるとは。
彼が彼以外の者であるはずはないというのに……。
再び目を開けたとき、ちょうど、ハクオロが少年に声をかけるところだった。
「どうだアオロ――いやアワンクル、だったな。何か思い出したか」
「……いえ」
少年はハクオロを一瞬だけ見上げてすぐに目を落とし、静かに首を振った。
「そうか。まあ話もまだ途中、むしろこれからだ。私はなるべく口を挟まないように聞いているが、アオロ、お前は気になったことは質問するといい。
何よりも自分自身の――そして家族のことだからな」
「……はい、ありがとうございますハクオロ様」
わずかなためらいの後に、決然と顔を上げて少年は肯く。引き締められたその口元と、強い意志が感じられるその目にベナウィは再び違和感を覚えるが
それを完璧な自己制御で抑え、頷き返すまでもなく語り始めた。
「――先ほどまでの話は、この國の歴史に少し詳しい者ならば知っていてもおかしくはない内容です。ミライ様がナラガン様お気に入りの楽士で、度々
招かれ楽の音色で心をお慰めしていたことも、宮中では有名なことでした。しかしここから先、アワンクル様、つまり貴方の出生についての事情を知る
者は、当時でも限られたごく少数。今では数えるほどしかいないでしょう。私にしても、先代侍大将ヤラムィ様よりチャヌマウ巡邏の命を受けるまでは
想像さえ及ばぬことでした」
「チャヌマウ、巡邏……?」
疑問のつぶやきをこぼした少年をベナウィは見つめ、静かな声で言った。
「……ここから先の話は、貴方にとって辛い内容になります。貴方には真相を知る権利がありますが、義務はありません。正直なところ、全てを知らせる
のは、まだ若い貴方に重荷を負わせることになるのではないかとの懼れも感じます。しかし同時に、今の貴方ならばそれにも耐えられるのではないかとの
期待もあります。
――今一度、貴方の覚悟を尋ねます。全てを知ることを、望みますか」
「お願いします」
間髪を入れない、返答であった。
「どれほど辛い過去であろうと、それが私のものであるならば、それを抱えて生きてゆくほかないと思います。私の年齢に配意くださるのは有り難いこと
ですが、遠慮は無用に願います。全てを、包み隠さずお教えください。覚悟は出来ております」
「承知しました。それでは――」
ベナウィは少年のはっきりとした応えに居住まいを正し、語り始めた。
※ ※ ※
チャヌマウは今でこそ寂れた村だが、かつては近くの山から産する黒曜石(コクユカゥン)の取引で賑わった、歴史のある村である。
ウルブのような単一部族の村ではなかったために後の戦国時代には目立った役割を果たすことはできなかったが、村長の下で多数の部族民が合議で
自治を行うチャヌマウの村のあり方は、昔の時代においてはとても先進的なものであり、その村長は周囲からの敬意を集める存在であった。
黒曜石の需要が減り多くの人々が村を去った今でも、その名声と信望は残り香のように残っており、だからこそハクオロは乱を起こしたすぐ後に挨拶を
しに行ったのである。
ミライはその村長の三人兄弟の末娘として生まれた。
幼くして楽謡に著しい才を示し、数えで十になる頃には在郷の楽士たちではもはや彼女の師たりえぬと、わざわざ皇都から人を招いていたという。
十五の歳に成人し、すぐに宮廷付きの楽士となった。娘盛りの歳となり、楽の音色と歌声の素晴らしさと並んで、その容姿の美しさもまた称賛されたが
ミライ本人はその評価を快く想っていなかった。楽の申し子であった彼女は、楽以外のことで評価されるのを嫌ったのだ。
ゆくゆくは女性初の宮廷楽士長となり、歴史に名を残すであろうと思われたミライであったが、しかし彼女の皇都での活動は急な終わりを告げる。
肺病を患ったミライは都払いの処置となり、故郷のチャヌマウに帰ることになったのだ。
それは今からおよそ15年前。ナラガンの即位から2年後のことであった。
「――しかし病とは怪しまれずに都を去る方便で、実際はその時、ミライ様は懐妊しておられたのです」
「それが、私……」
「はい。故郷に戻られたミライ様をチャヌマウの村長、つまりミライ様の父君であるカイ殿は、病を理由に屋敷の裏の人気のない場所に建つ小屋に住まわ
せました。ミライ様の二人の兄も、村の人々も、ミライ様が病などではなく御子を宿して帰ってきたのだと感づいていましたが、その父親が現皇ナラガン
であるということは、村長であるカイ殿の胸のうちのみに納められました」
楽士になり都へ行った娘が、どこの種とも分からぬ子を孕んで帰ってきた。それが恥ずかしくて村長はあんな外れの小屋に隠れ住まわせているのだと
人々は噂し合った。それはいかにもありそうな話であった。決して本来の役割でも褒められた事でもなかったが、楽士には時折そういうことがあるのも
事実だったのだ。
しかし父である村長が病という建前を決して下げなかった為に、村人たちもそれに倣い、よそ向きには「ミライ様は病」と言うようになった。
それこそが、カイの狙いであった。
「ミライ様は故郷にいながら、人目を忍ぶようにしてあなたを産まれました。悲鳴が漏れぬよう口には布を噛み、産婆の手も借りずに一人でご出産
なさったと聞いております」
「………」
「なぜそこまで、とお思いかもしれませんが、カイ様がかたくなに「病」の建前を掲げられ押し通したのも理由がありました。ミライ様の懐妊と出産が
口づてにでも皇都に伝われば、やはりそこでも父親は誰だということになりましょう。そこで誰かが、真相にたどり着かぬとも限らなかったからです」
ナラガンはミライの才能を高く評価していたが、人前では触れるどころか贈り物をすることさえ無かった。唯一、とある事件の後にユナルを一棹賜って
いるが、楽士に楽器を贈ることは名誉はあれど色恋のからむ話ではなく、宮廷の者達も二人の関係には気付かぬままであったという。
「……皇は」
その時アオロが口を開いた。
「ナラガン皇は、母が自らの子を身ごもったことを、知っていたのでしょうか」
落ち着いた声でそう問うアオロの姿に、ベナウィは今更ながら驚かされた。
その驚きが表に出ないように努めながら、ええ、とベナウィは小さく肯いた。
「ミライ様を病として楽士の職を解き、都払いに処したのはナラガン様の命でした。肺病は人にうつる病、それを理由として都を去らせれば、ミライ様
を追ってチャヌマウへ行く者もおらぬでしょうし、いたところで隠れ住む理由になります。カイ様の決定も、ナラガン皇のその気遣いを察してのこと」
「気遣い、ですか」
「――はい。当の本人である貴方に、仕方なかったから納得してくれと言うほど厚顔ではないつもりです。しかし、結果だけを言えば、ナラガン様の
その決定のお陰で貴方は無事に産まれ、ミライ様も命を長らえたのです。なぜならば、ナラガン様の血を引く赤児――貴方の存在が知られれば、早晩
ミライ様共々そのお命が狙われていたことはまず間違いのないことでしたから」
膝頭に添えられた少年の手に、一瞬、強く力が入るのをベナウィは見た。
ついに、怒るか、嘆くか――それも仕方がない、むしろ当然のことだとベナウィは思った。この少年には身勝手な大人たちを糾弾する資格も、彼らの
都合で振り回された自分と母親の悲劇を嘆く権利もあるのだから。
しかし、ベナウィの言葉を咀嚼するように瞑目していた少年は、ふっとため息をついて、指先から力を抜いた。
その表情に、怒りはない。困惑もない。あってしかるべき悲憤さえなかった。
カムライの行から覚めた高僧のような半眼の奥に見て取れるのはただ、理性がもたらす落ち着いた哀しみと、強い覚悟の存在を示す光だった。
少年がもらしたため息は、自分の身の上を嘆くものではなく、取り巻く事情を悟ったが故のものであることが、続いて放たれた言葉によって明らかに
なった。
「――皇后、ですね? そして、ケナシ族至上主義……」
ベナウィは、そのつぶやきに少なからず驚いた。
その二つの言葉は短いが、彼のまっとうな誕生を妨害した要因の、主な二つを的確に挙げている。
自らの身の上の悲劇をそうまで客観的に分析できるというのは、単なる知性だけではなく、感情に流されぬ強い心をこの少年が持っているということを
意味していた。しかしそれはベナウィにはむしろ哀しいことのように思えた。
そして同時に、先ほどから感じ続けている違和感をさらに強めもしたのだ。
彼の知っている『アワンクル』は、こういう時に、このような振る舞いをする少年だっただろうか……。
ベナウィはやはり何も口には出さず、肯いて話を続けた。
「皇后アムルタクは先のケナシ族長ホヌマンの一人娘であり、ケナシ族への強い影響力を持っていました。政権奪取以降ケナシ族の間に巻き起こった例の
ケナシ族至上主義の中心は、ホヌマンから娘へと引き継がれていたのです。そしてなお悪いことに、ホヌマンはその至上主義を部族の勢力拡大のための
手段として使用しているという自覚がまだしもありましたが、娘のアムルタクにはその自覚がありませんでした」
「つまり、至上主義を本気で信奉していた、と?」
「はい。そしてそんな皇后にとって、親ウルブと見なされていたチャヌマウ出身の娘との間に、皇位継承権を持つ子ができるというのは許し難いことで
あり、発覚した場合どうなるかは容易に想像ができました。――事実、後にその通りになりました」
予期していたのだろう、聡い目をした少年はベナウィの最後の言葉にも驚いた様子はなく、ただ話の続きを促すように小さく肯いただけだった。
※ ※ ※
ナラガンは、ミライと産まれた子供の安全を心から案じていた。そのため、腹心の部下であるヤラムィにとある相談を持ちかける。
チャヌマウに誰か腕が立ち信用のできる人物を駐在させ、何か変事が生じたときには母子を護ることができるように取りはからえないか、と。
侍大将ヤラムィはナラガンと同じ部族の出身で、政治にも軍事にも明るく皇の信篤い老練の宿将であり、ミライとの関係を知る極僅かな存在の一人であ
った。ヤラムィは皇の請いを受け、一人の手練れをチャヌマウに送り込んだ。名をワチと言い、ヤラムィ子飼いの細作の一人である。
ワチの派遣自体公にはされなかったが、用心深いヤラムィは公にしない理由まで用意した。森へ去ったとされるウルブ族の動きを密かに探るため、と
いうのがそれであり、実際彼はチャヌマウでその役目も果たしていたのだった。
こうして、しばしの間平穏な日々が過ぎた。いよいよ傍若無人な振る舞いをし始めるケナシ族の扱いに苦心しながらもナラガン皇は善政に勤め、忠臣
ヤラムィもこれをよく支えた。ウルブ族もなりをひそめ、周辺諸国との関係も比較的良好、森の恵み太陽の恵みも乱れなく、人々は平和に暮らしていた。
ミライの暮らしぶりと幼い我が子アワンクルの成長については、ワチからウルブ族に関する報告に紛れて定期的に報告があり、ナラガンはヤラムィから
その報告を受けるときには眉間の深い皺もほぐれ、穏やかな表情になっていたと言う。
ずっとこんな時が続けば――そんな願いを抱いたとて誰が責められよう。
しかし、ある国難がケナシコウルペの全土を覆ったことにより、その日々は蝕まれるように終わりを迎えることになる。
それは今から10年前。ミライが故郷で子を産んでから、およそ5年が立とうとしている時のことであった。
「10年前――流行病、ですか」
少年のそれはもはや質問ではなく、確認だった。
ベナウィは肯いた。
「ご存じでしたか」
「一昨日の夜に、母さん……ソポクさんから聞きました。10年前にヤマユラをひどい流行病が襲って、たくさんの人が亡くなった、と」
「本当にひどい災厄でした。あっという間に國全体に広がり、多くの人が倒れ、多くの人が命を喪いました。ヤマユラはトゥスクル様がおられたお陰で
まだしも犠牲者が少なく済んだ方でした。村人が死に絶え廃村になったところもあったほどでしたから。――とはいえ、その病でトゥスクル様はご子息を
お亡くしになっておられたはずですから、良かったなどとはとても言えませんが」
ハクオロはその言葉に一瞬目を鋭くしたが、小さく息を吐いただけで何も言わなかった。
「……少し話が逸れました。病の事についてはいずれ別にお話することにいたしましょう。ここで重要なのは、病は國中に広まった、という点です。
行疫神(ハラツゥヌカミ)は田舎でも都でも猛威をふるいました。宮廷ですら例外ではなく、ついにはナラガン皇もその病に冒されました」
高熱と脱水、激しい咳嗽を特徴としていたこの伝染病は、齢既に還暦に達し、しかも心身両面に疲労を抱えていた皇の肉体を容易く蝕んだ。
薬師らの懸命の努力によって一命は取り留めたものの、気力体力共に著しく衰え、執務にも大きな影響が出るようになった。
それを待っていたかのように動き始めたのが、皇后アムルタクと、それに従うケナシ族のものたちであった。
彼らは病を理由にナラガンに対し、インカラへの禅譲を求め始めたのである。
「この時、おそらく皇后はすでに貴方――アワンクルの存在を知っていたものと思われます」
「なぜ、ですか」
「その後の物事の進展の滑らかさは、そう考えると理解しやすいのです」
インカラに皇の適正がないことは、父であるナラガンが一番よく知っていた。次男のササンテのほうが武芸に興味を示す分、まだしもマシだと腹心の侍
大将に漏らしていたほどであった。
しかし、ウルブ族無き今、最上位の皇位継承権者がインカラであることは明らかであったし、インカラはその母同様、同族には気前が良いためケナシ族
からの支持はそれなりに厚かったのである。
度重なる禅譲の要請を、その都度拒否し続けたナラガンだったが、ついに拒みきれなくなる時が来た。
――即位後、五年はナラガンの後見を受けるものとし、侍大将の座には引き続きヤラムィを据えること。
これを条件に、ナラガンはついに皇位をインカラに譲ることに同意した。
後見も、腹心を要職に送り込むことも、ますます強まるであろうケナシ族主義へのせめてもの抵抗であった。
こうして、インカラ皇が即位する。今から8年前のことである。
「……そして、そのわずか1年後に、ナラガン皇は急死なさるのです」
先皇ナラガン死去の報は、かつて皇位にあったものへの扱いとしては不自然なほど国民には伏せられた。
不自然と言えば、降位後一年という早すぎる死も不自然であった。流行病のために衰弱し皇の激務には差し支えが生じていたとはいえ、一線を退き安静に
しているぶんには問題ないはずであった。だからこその五年の後見という条件であったのだから。
謀殺説が密やかに囁かれたが、大きな声になることはなかった。
前皇であり、かつ現皇の父のものとしては驚くほど簡素な葬儀が、死後日を置かずに行われ、こうして真相と共にナラガンは葬られた。
尚、この時の慣例を無視した葬儀(ハハラ)に対してウィツァルネミテアの國師(ヨモル)が抗議し、それに対する報復としてインカラが國師追放、社の
破壊を命じたことによって、オンカミヤムカイとの国交を断絶。ケナシコウルペは対外的にも孤立を深めていくことになる。
ナラガンの死後、政の実権を握ったのは太后となったアムルタクであった。
我が儘、かつ傲慢な気質で知られるインカラも、この母にだけは逆らえなかった。というよりももはやインカラにとって母は神のような存在であって逆ら
ったり疑ったりすることなど思いもつかぬ事であった。
自分には幼児のように従順なインカラを自在に操り、太后は次々とケナシ族偏重の国政を打ち出し続けるアムルタク。
それに対し、ついにある日侍大将であるヤラムィが動いた。
単身玉堂へ乗り込み、彼はアムルタクに礼を示しつつも詰め寄った。
「亡き夫君の御遺徳をないがしろにする数々のお沙汰、発令はいかなることか。民あっての國であり、民を和のうちに安んぜしむることこそ皇の勤めと
のたもうた前皇のお心をお忘れか!」
対して、アムルタクは言った。
「民とは我が同胞のことにゃも。即ち我らケナシ族あってこその國にゃも。そして我が同胞は、皇家あっての一族。ゆえに、皇こそが國と心得えるにゃもよ」
民を軽視するどころではない、ケナシ族以外は民ですらないと言い切った太后のあまりの発言に絶句するヤラムィ。
そこへ追い打ちのように、アムルタクは続けた。言いつつ浮かんでいた笑みは、たるんだ頬を歪ませた恐ろしく醜いものだった。
「それゆえ、これからはこのようなものも見逃す訳にはいかんにゃも」
言いつつ懐から一つの美しい輪を取り出し、アムルタクはそれをヤラムィの前に放った。
乳白色の石を円い輪に磨いたそれは、硬い音を立てて玉堂の床に落ちた。それは落ちる前からすでに輪の一部が欠けていた。
ヤラムィは、その輪がなんなのか、誰のもので何を意味するのかに気がつくや全身の毛が逆立つような思いに囚われた。大声を上げそうになるのを必死で
押さえ込まなければならなかった。
輪は、女性が成人した際に家族から贈られる、いわば成人女性の証である。輪は母から娘、複数いる場合は長女に受け継がれて行くものであり、娘に伝来の
輪を渡した母は、そこで改めて夫や家族から、新しい輪を渡されるのである。髪飾りとするも帯留にするも首飾りとするも自由であったが、身につけることが
求められた。
エルルゥが髪飾りとしている輪は、数年前にトゥスクルから受け継いだものであり、軽いのに非常に丈夫な、不思議な素材で出来ている。
同じ目的のものとして、成人男性にはやはり家族から帯(トゥパイ)が贈られる風習がある。これは成人前に締めている腰縄とは違い、家族に伝わる織りや
意匠を凝らした物であり、家族の男衆に立派な帯を締めさせることは女衆の誇りであり、重要な仕事なのだった。
かつてアルルゥがハクオロの為に帯を織ったのは、彼女がハクオロを家族と認めた証であり、それを知った後は、拙いながらも想いのこもったその帯を締め
る度に、ハクオロは心温かくなったものだ。
ただし、ここで帯と輪では扱いに違いがあることに注意が必要である。
男衆は、帯を粗末に扱うことは当然許されなかったが、いつまでも同じ帯を締め続けることも恥とされた。一生懸命に働けば、帯は汚れ、擦れ、綻びるのは
当たり前のことであり、いつまでも帯が替わらずくたびれもしないのは、怠け者の証とされている。事実ハクオロが今締めている帯も最初に渡されたそれでは
なく、アルルゥとエルルゥが二人で織ってくれた立派な菱紋入りの角帯である。
対して女衆は、親から託された輪を大切に扱うことが求められた。と言って、宝物のように祭り上げることも褒められたこととはされていない。
輪は成人女性の証であり家族の絆でもあると同時に、健康や安全、多産を願う護符でもあるのだ。常に身につけながらもそれを大切に扱うという行為は、
そのまま女性が成すべき身の処し方を教えるものでもあった。たとえわざとでなくともそれを損なったり喪ったりするものは、家長から厳しく咎められるの
であり、まして故意にそうする者は不忠、不貞、不孝の極みとして家族のみならず所属する地域社会からも断罪され、軽蔑の対象となった。
その、欠けても奪われてもならぬ輪が――砕かれたような断面を輝かせて、ヤラムィの眼前に転がっている。
彼には、その輪に見覚えがあった。
……ミライのものであった。
「太后である妾に隠し事とは、けしからん侍大将にゃも」
衝撃に声もなく震えるヤラムィを上座より見下しつつ、アムルタクはにゃぷぷ、と満足そうに笑った。
「――太后様、この者に何をなさいましたのか」
「別に、何もしてはおらんにゃも――今は、のぅ」
感情を押し殺しつつ問うたヤラムィへの答えは、最悪の結果ではなく、最悪の予定を示すものだった。
「妾はただあのキママゥ臭い田舎へ人をやって、身の程知らずにも我が夫、前皇の愛人などと称する小娘からこの輪を奪ってきたまでにゃも。何かをするのは
――ヤラムィ、お前の仕事にゃも」
「……!」
「皇の情けを受けたと称するだけならまだしも、子まで居るにゃも。田舎者らしい見栄に決まってるにゃもが、事実とすれば許し難いことにゃも。汚らわしい
下民どもと尊い皇の血筋が混ざる事など、あってはならんことにゃも!」
だん! と脇息を叩いてアムルタクは息巻いた。
「しかし、それに妾が直接手を下すのも具合の悪い事でのう。半分とはいえ皇の血を引いた子を、太后である妾が殺めれば、後々うるさいことの種ともなりかね
んにゃも。――それで、ヤラムィ」
アムルタクは扇子の先をヤラムィに向けて、酷薄に笑んだ。
「お前がやるにゃも」
「……」
「お前はお父様の代からよく仕えてくれたケナシの功臣にゃもが、近頃は妾や皇となった我が子インカラへの忠誠が薄いようだと噂になってるにゃも。でも、
お前に限ってそんなことは無いと、妾は信じてるにゃもよ?」
だから――と続ける声は、まるで毒液のしたたりを聞くような禍々しさであった。
「……だから、その証拠を見せて欲しいにゃも」