――コトン
目を覚ましたきっかけは、水差しか何かを枕元に置くような、そんな些細な物音だったような気がする。
ゆっくりとまぶたを開くと、太い梁が走る木張りの天井が見えた。
(どこだ……ここは……)
目覚めたばかりの、霞みがかった意識のなかで最初に浮かんだのがその疑問だった。
少なくとも自分の部屋ではない。
自分の部屋の天井はもっと……
――あれ?
(自分の……部屋? なんのことだ……俺は……)
もしかすると、自分は夢を見ているのかもしれない。
朦朧としてまとまらない思考も、なぜか力の入らない手足も、それならうなずける。
(は……はは……明晰夢ってやつだな。『うたわれるもの』の世界に入り込むなんて……面白い)
そうだった。俺は不意に意識を失う前の景色を思い出していた。
燃え尽きて崩れ落ちた建物と、立ち上る黒煙。地に伏して動かない兵と村人たちの屍。
そして白い仮面をかぶった凛々しい男と、白い獣を引き連れた少女……。
(ハクオロとオボロにアルルゥが一緒で……そういえばあの”男の娘”二人もいたっけ……)
ということは、ちょうど「森の娘」のシナリオが終わったあたりなのか。
他の連中が見あたらなかったということは、ゲームの方じゃなくてアニメの方の記憶で夢を見ているのだろうか。
それともあの時近くにいなかっただけで――
(私の名はハクオロ。お前の名前は――)
あの時――
俺は激しい痛みで――
「――ぁ……」
喉が震え、小さな小さな声が漏れた。
それが、本当の意味での覚醒のきっかけだった。
――夢じゃない。
少なくとも、この体中に感じる痛みは現実だ。
「ぁ…あ……っ」
さっきより激しく咽が震えた。
その肉体の感覚が、これが現実だと教えてくれる。
手も足もやけに重たくて、力が入らない。でも感覚は繋がっている。
ごわごわした布の手触りも、ふとんの重みも、声を出したせいか急に感じ始めたのどの渇きも、これが夢ではない、リアルなのだと教えてくれる……。
「――!」
不意に枕元で誰かが息を呑む気配がした。
(ああ――そういえばその物音で目が覚めたんだっけ……)
誰かそこにいるのか。
いるのなら、水を一口……
そう思ってのけぞるように首を動かそうとした俺の目の前に、突然見知らぬ少女の顔が視界をふさぐように現れた。
頭の上でお団子にした髪を、オレンジ色の布で包んで飾っているその少女は、大きな目を見開いてこちらの目をじっと見つめてきた。
俺たちは瞬きを一度する程度の時間見つめ合い
「あ……の――」
「エルルゥ! この子気が付いたよ! エルルゥ!!」
俺の言葉など聞きもせずに毛先の黒い耳をピンと立て、尻尾をばさばさと動かしながら枕元から大声を上げて走り去っていったのだった。
(はぁ……まあいいか。じきにエルルゥが来るんだろう。水はそのとき……)
その頃までには朦朧としていた意識もすっかり晴れており、自分の体がひどく弱っていることも何となくではあるが自覚できるようになっていた。
(しかしあの耳、そして尻尾……おれは本当にうたわれるものの世界に……)
※ ※ ※
「ユタフにエプカラ、それにサンとワッカイの連中――と。数日でこんだけ集まったわけだ」
叛乱への助力を申し出てきた集落の長達との話し合いを終え、ハクオロとオボロ、そしてテオロの三人はハクオロの部屋に集まっていた。
「インカラの無作為な村焼きが、逆に事態を早めてくれた……」
「――ッ!」
つぶやくようなハクオロの言葉に、オボロは腰の得物をガチャリと鳴らしながら立ち上がる。
まっすぐで烈しい気性のこの男にとって、インカラの無道は話を聞くだけでも我慢ならないものであった。
その背には、今にも飛び出して行きそうな怒りがみなぎっている。
「オボロ、お前の怒りはもっともだが――」
「分かっている……!」
オボロは一瞬歯がみをして、荒々しい感情をとりあえずはなだめることに成功した。
しかしその怒りは消えたわけでは無く、オボロの魂の深いところに蓄えられただけであることをハクオロもテオロもよく分かっていた。
蓄えられ練り上げられたその力が解放される時、どれほどの働きをこの若者が見せるのか――
それは次なる戦いの場において明らかとなるであろう。
「――ハクオロさん」
エルルゥが部屋に入ってきたのはその時だった。
「どうした、エルルゥ」
「あの子が――目を覚ましました」
それは明るい報せのはずであった。
しかしエルルゥの口調はどこか沈んでいて、それがハクオロ達には気になった。
「……なにかあるのか」
「はい。その……あの子――記憶が無いみたいなんです」
やはりか。ハクオロは胸中でひとりごちた。
チャヌマウで名を聞いた時の様子から、悪い予感はしていたのだ。
「名前を聞いても思い出せないみたいで……家族のこととか、どうやって逃げたのかとかも覚えてないみたいです。ひどく混乱しているみたいで……」
目を伏せながらエルルゥはそう言うが、もしかするとあの少年にとって、それらは忘れた方が
幸せな記憶かも知れないとハクオロは思った。
「そうか……今はどうしている」
「はい、今はお薬を飲んでもう一度眠っています。目が覚めたら薄いモロロ粥を食べさせるようにノノイに頼んでおきました」
「うん――あの子には一度会って話をしたいんだが、その分では今日は無理そうだな」
「そうですね……もう少し、待ってあげてください」
エルルゥは、ハクオロの看護をした時のことを思い出しながら見込みを告げた。
「食事をして薬を飲んで、今日一日休めば体力もかなり回復しますから……体調は明日なら大丈夫だと思います。こころの状態は……その時になってみないと」
「分かった。エルルゥの言うとおりにしよう。明日の調子が良ければ、すまないが呼びに来てくれないか」
「はい、ハクオロさん」
すると横でずっと二人の話を聞いていたテオロが、腕組みをしたまま言った。
「エルルゥ、そん時ゃ俺にも声かけてくれ。……俺ァどうもあの坊主が心配でよ」
※ ※ ※
やって来たエルルゥからまずはじめに言われたのは、大丈夫、安心して、ここは安全なところだから、とこちらの不安を取り除くような励ましの言葉だった。
それからエルルゥの自己紹介、ここが元藩主の砦であること、自分がチャヌマウでひどい怪我をして倒れていたところを助けられたことを教えられ、それから
「あなたのお名前は?」
――と尋ねられた。
俺は反射的に口を開いてなにがしかの音を発しかけ……俺はそこで、自分を表すための固有名詞を思い出せないことを自覚したのだった。
しかし意識を失う前、ハクオロに助けられた時のように、名前を思い出そうとして頭が痛むということは無かった。
感覚としてはテストの時、歴史上の有名人の名前を問われて「えーと、えーと」と、ド忘れしてしまったものをなんとか思い出そうとしているようなもどかしい感じ。
絶対に知っているはずなのになぜか出てこなくて、思い出そうとすればするほど思い出せなくなっていくような、あの感覚。
エルルゥは硬直した俺を見て話題をかえた。
「どうしてこんな怪我をしたのか、覚えてますか?」
「………」
俺は目を閉じてすこし考え、それから首を振った。
村が焼けていたのは知っている。「うたわれるもの」の知識からして、インカラによる見せしめのために焼き討ちにあったのだろうと見当は付く。
しかし、その知識と、自分がチャヌマウで倒れていたことが、どうしても実感として結びつかないのだ。
自分はなぜチャヌマウにいたのか。襲撃があった時自分はどこにいて何をしていたのか。
いや、そもそも自分は本当にチャヌマウで襲われて怪我をしたのか……。
――そこで俺は、もっと恐ろしいことに気が付いた。
思い出せないのは「この世界」での記憶だけじゃない。
俺の自意識の元になっている「もとの世界」、つまり現代日本の生活の記憶も、俺は失っているということに。
21世紀の日本に住んでいたという意識はあるし、そこに学んだ知識やら身につけた技術やらは覚えている。
「うたわれるもの」のアニメやゲームに関する知識もそれに含まれる。
でも――俺個人の情報に関する記憶だけが、なぜだかきれいさっぱり無い。
自分のみならず親、兄弟、友人の名前、住所、電話番号……自分が何をしていた人間なのかも
思い出せない。
学生だったのか仕事をしていたのか……だとしたら職種は何なのか。
「俺は――誰なんだ?」
目の前が急にぐるぐると回り始めた。
思考が乱れて、重力が消え、体がぐにゃりと歪み――
「大きく息を吸って!」
耳元でエルルゥの声がした。
自分でも気が付かないうちに顔に伸びていた手を引きはがすように掴まれ、気付けをするようにぎゅっと力を込めて握られる。
「あ……」
「大丈夫、焦らないで。あなたは頭をひどく打っていたの。しばらくは混乱しているかもしれないけど、そのうち自然に思い出すから。無理に思い出そうとしないで」
エルルゥは優しくそう言って俺の口に水差しを当てがうのだった。
俺はこくりこくりと無心に喉を鳴らしてそれを飲み、はぁ、とついた吐息で、その水が薬湯であったことに気づいたのだった。
正直苦かった。
思わず顰めてしまった俺の表情に気が付いたのか、エルルゥはくすっと小さく笑った。
「ツェツェ草とハルニレの葉を煎じた薬湯です。滋養があるし、心を静める効き目があるんですよ」
「……それでいいから、もっと飲みたい」
飲み干して気が付いたのは、薬臭くて苦いそんなものでもいいからもっと飲みたいと思うほど自分が途方もなく喉が渇いていたのだということ。
しかしエルルゥは頭をふった。
「こういうときに、水をがぶ飲みすると死んじゃうことがあるんです。胃や腸がとても弱っているから……。さあ、横になって、一休みしてください。目が覚めたら、消化の良いモロロ粥かなにかを持ってきますね」
「俺は別に、眠くなんて……」
あれ。
エルルゥと、俺の背後にいて背中を支えてくれていたさっきの女の子の手で床に横たえられた途端、急にまぶたが重たくなった。
ハルニレの葉って……混乱を治すだけじゃなくって、催眠効果もあったっけ?
ああ、そうかツェツェ草は鎮痛剤でもあったか……。
急速に眠りに落ちる意識の端っこに、エルルゥの声が子守歌のように響いた。
「おやすみなさい……」