チャヌマウでの邂逅から、およそひと月。
その間に、二人を取り巻く環境や立場は大きく変転している。
ベナウィはこの國の武人の最高位である侍大将から、今や一介の関守へ身を落とし。
片やハクオロは辺境農民の叛乱指導者から、いまや多数の豪族の支持を得て國の半分を実行支配する一大勢力の盟主となり。
――そしてついに今、ハクオロは自ら「皇(オゥロ)」となることを宣言したのであった。
ベナウィにとって、そしてハクオロにとって、先ほど門前でふれ係が高らかに告げた「新しき皇を迎えよ!」という言葉は単なる降伏勧告以上
の意味があった。
ハクオロが対外的に皇位に就くことを表明したのは、このタトコリ関での宣言が初めてである。
ハクオロが皇になる、新しい皇が生まれる――それはとりもなおさずこの叛乱が単なる”乱”ではなく、古い國を打倒し新しい國を建国する
”革命”であることを内外に宣言することを意味していた。
そして、もう一つ――
「……ベナウィ、私はお前と戦いにきたつもりはない」
ハクオロはウォプタルにまたがったまま、櫓の上のベナウィをまっすぐに見上げてそう言った。
その声は大きく、山を渡る夜明けの風に運ばれて周囲の仲間や関の内側の兵達の耳にも届いていた。
「だれよりも民の安寧を願い、そのためにこんな山奥までやってきたお前と、なぜ私たちが刃を交え、血を流さねばならない。
お前のその刃は、一体何を護るための刃か!
力なき民か。 それとも、インカラの肥えた腹か!」
「――野郎……」
「おやめなさい、クロウ」
ハクオロの言葉に食いしばった歯を鳴らし思わず怒鳴り返そうとしたクロウを、ベナウィはわずかに動かした掌で止めた。
くっ、と悔しげな声を吐き捨てクロウは一歩引き下がる。
ベナウィは思う。クロウはハクオロの言葉が根も葉もない誹謗中傷だから怒ったのではない。
むしろ、悲しいことではあるがその指摘が的を得ており、しかしそのインカラの元で事態をよりよい方向へ動かそうと孤軍奮闘してきた
ベナウィの隠忍自重の日々まで貶められたようで、クロウは激したのだ。
しかし――ハクオロと向かい合うベナウィは、それは違うと理解した。
ハクオロの眼は、表情は、ベナウィを責めてはいない。
今と、これまでのベナウィの働きの意味そして価値を、ハクオロは充分に知っており、また認めている。
その上でハクオロは――ベナウィの『これから』を問うために来たのだと、ただ眼を見るだけで分かった。
知らず、気持ちの高ぶりを覚えるベナウィであった。
己を識る相手と向かい合うことの愉悦と畏怖を、彼は長らく忘れていた。先代侍大将ヤラムィ亡き後、それに最も近いのは副長として働く
クロウであるかもしれなかったが、クロウとてベナウィのことを十全に識っているとは言い難い。
それが――ただ一度会っただけの男が、これほどまでにベナウィのことを理解している。
”皇(オゥロ)”
その言葉の意味さえ、ベナウィはいま書き換えねばならぬような心持ちになりつつあった。
しかしそんな感情を、ベナウィの理性は危険なものとしてすぐに冷却する。
一介の関守に位は落ちようとも、國を護る決意に変わりはない。侍大将としてではなく、一人の国士ベナウィとして、問うべき事、語るべき事
そして確かめるべき事があるはずであった。
「――戦いに来たつもりはないとは良く言いました。それならばなぜ、このような夜明けに、闇に乗じてこそこそと現れたのです。民の安寧を
語るならばなぜ、農民達の手に武器を持たせ戦場に連れ出したのです」
「……」
「戯れにでも皇を名乗った以上、貴方は相応の覚悟があるのでしょうが、貴方に従う他の農民達は知っているのですか。
皇の名を騙るものも、それに与するものも、一族郎党残さず死罪となるということを」
沈黙が、谷に落ちた。
ベナウィの言葉は重く、血気に逸って押しかけた農民達に冷や水をかけたかに見えた。
ハクオロは変わらぬ眼差しでベナウィをしっかと捕らえたまま、黙っている。
言い返す言葉を探しているのか、いや、これはなにか別の――
何かを信じて待っているような――
「――そ、それがどしたァ!!」
ベナウィへの答えの声は、ハクオロの率いる民の中から上がった。
視線が集まる中、農具を改造したとおぼしき武具を持つ中年の男が、わずかに震えながら、真っ赤な顔をしながら叫んでいた。
「オ、オラたちは……オラたちサントペ村のモンは、皇なんて名乗ったこと無かった! 無茶な租を巻き上げられても畑さ耕して、真っ当に
暮らしてたんだ! だのに、だのに……」
あふれる涙をぬぐいもせずに、泥臭い訛りを隠しもせずに、サントペ村の男は谷中に響くような声で叫んだ。
「なしてオラの村は皆殺しにされねばならねかっただ! オラの母ちゃんも、ミミも、生まれたばかりのイジュも! なんで殺されねば
ならなかっただか! 教えてけろ! アンタ偉いお侍さんなんだべ!? 教えてけれ!!!」
興奮のあまりぶるぶると震えながら叫ぶ男の肩を、周りにいた男達が手を伸ばして支える。その男達の目も涙に濡れている。サントペ村の
生き残りか、他の村で同じ境遇にある者か――
気がつけば、ハクオロの後に従う民の全てが声を上げて叫んでいた。
「――オレも! オレたちもだ!」
「殺せるもんなら殺せ! 一度殺したもんを、もう一度殺せるもんなら殺してみろ!」
「もう我慢できねぇ! インカラはもうまっぴらだ!」
「返してくれ! 俺の村を……家族を……!!」
それは、民の声。
疑いようのない覚悟の表明であり、インカラの施政への断罪であった。
ベナウィはその声の一つ一つを忘れまいと思った。
それはインカラの罪のみならず、彼自身の罪をも告発するものであったのだから。
民と向き合い、逃げることなく非難の叫びに身を晒すベナウィに、しかしハクオロはそんな心中を読んだように語りかけた。
「ベナウィ、インカラの罪はインカラに贖わせれば良い。お前が奴の罪をかぶる必要はない」
「……どういう意味ですか」
「村を焼き、無辜の民を惨殺したのはお前ではないと、私は知っている。それをしたのはインカラと、甥のヌワンギだ」
谷を満たしていた怒りの声が静まっていく。
そこにハクオロの良く響く低い声が、こだまのように広がっていく。
「お前はむしろ、インカラの不興を買いながらも度々その振る舞いを諫め、この國を護ろうとこれまで努力してきた――だからこそ!」
ハクオロが一際声を強めたその瞬間。
まるで奇跡のようなタイミングで、ハクオロの背後の山裾から夜明けの光が空を切り裂いて走った。
「……降れ、ベナウィ。インカラを捨て私のところへ来い。この國の行く末を、人任せにするな」
昇る陽の光を背に告げられたハクオロの声は、まるで天からの声のごとく、聞く者の耳に響いたのであった。
※ ※ ※
櫓の上に立つベナウィは、正面から差し込む曙光のまぶしさに目を細めた。
一瞬、影にたたずむハクオロの姿を見失う。その一瞬に矢を射掛けられれば危なかったかもしれないが、そんなことはされなかった。
再び見いだしたハクオロの白面は、言うべきことは言ったという強い意志と誠実さを漲らせてこちらの出方をうかがっている。
戦いに来たつもりはない、とハクオロは言った。
そして今、ハクオロはベナウィに「私のところへ来い」と告げた。
ベナウィは、ようやく理解した。
……ああ、この男(ひと)は、自分にこれを言うために、皇を名乗ったのか、と。
うぬぼれかもしれない。
しかし、チキナロや細作に集めさせた情報によれば、つい数日前まで彼に皇を名乗った形跡はなかった。
ベナウィがこのタトコリにいると知れたのも、おそらくは今夜――あの見逃した関破りの青年からの情報だろう。
だとすれば――ハクオロは、ベナウィがタトコリにいると知ったために、皇を名乗る決意をしたと、そう推論するのは早計だろうか。
ただ一度の邂逅で、ベナウィのこの國への思いや立場をここまで理解する男だ。
ベナウィがタトコリにいる理由を察知しても、そしてそこからベナウィが真実求めているものを酌み取っても、不思議ではなかった。
ベナウィが叛乱に与することはないだろう。
しかし、新しい國、新しい皇に仕えることは――心が揺れぬ訳にはいかなかった。
その皇がこの男であるというならば、なおさらに。
しかし背に纏う濃紺の外套の重みが、彼に個人としての想いより、国士としての慎重さを優先させる。
新しい國。新しい皇。
この腐った國と愚かな皇が取り替えられるのは良い。
しかしその後にやってくるものが、見かけだけのものであってはならぬのだ。
ベナウィは自らの価値を理解している。
自分がハクオロの皇位を認めその許に参じればどうなるか、正確に予想できる。
だからこそ――目利きを間違えるわけにはいかないのだ。
「――クロウ、門を開いて兵を展開させなさい」
「打って出るんですかい? そりゃあ頼りにならねえ壁ですが、最初から門を開けるのは得策じゃねえですぜ?」
「出戦ではありません。兵達に立ち会ってもらうためです」
「ッ! 大将まさかッ」
察したクロウが驚きの声を上げるのをよそに、ベナウィは今や朝の光が降り注ぐ櫓の一番前に出でて、高らかに声を上げた。
「貴方の覚悟はよく分かりました。しかし、わたしもまた覚悟を持ってこの地へ赴いた身。そのわたしに主を変えよと言うのであれば」
キン――と、その手に持つ槍が刃鳴りを起こす。
「――ハクオロ。貴方の力で、『わたしの皇』たる資格を証明しなさい」
そう言ってベナウィは一気に手すりを飛び越え、ハクオロら叛乱軍の前に降り立ったのであった。