距離感を狂わせるほどに広大な暗闇の中、一人の青年が音も無く佇んでいた。
周囲の闇にも染まらぬ純白のスーツと、その上に羽織った純白の長衣。細長く優美な輪郭の美青年。幽霊のようにあやふやな印象を与えるその身体は、奇妙なことに薄白く輝いていた。
だが、そのようなものがなくとも、彼を一目見た者はそれが人間ではないと分かったことだろう。
青年は、空に浮いていた。
その青年――人を喰らう人ならざるもの、『紅世の徒』の一人である "狩人" フリアグネは、眼下で白く浮かび上がる巨大な箱庭を眺めながら、肩にちょこんと座っている人形をいとおしげに撫でた。
表情を縫い付けられた小さな人形。その表情は変わらなかったが、彼女をよく知るフリアグネは、その人形の幸福げな心の動きを感じ取っていた。
それを知り、フリアグネもまた心に満足感を得る。互いの間に言葉は不要だった。
その二人の目の前にはフリアグネと同様、薄白い光に浮かび上がった巨大な模型が置かれている。
ブロックや模型、玩具の部品で構成されたそれは、驚くべき精巧さで彼らの滞在する御崎市の全域を模していた。
ふと、自らの左手薬指、そこにはめられた銀色の指輪にフリアグネは陶然とした面持ちを向ける。
瀟洒なつくりのその指輪には、中心を取り巻くように奇怪な文字列が刻まれていた。その文字列が一つ一つ、暗闇に薄白く輝いてゆく。
指輪が光る帯にくるまれたのを見届けると、フリアグネは左手をゆっくりと回した。
ほどけるように、光る文字は少しずつ中空に縫いとめられてゆく。いつしか文字は暗闇を星空のように埋めていった。
文字の星海をフリアグネと、その肩にとまるマリアンヌは共に見上げる。一瞬ののち、光る文字群は一つところに収束し、一個の巨大な光玉を作り上げた。
同時に、マリアンヌの胸の内にも同じ文字による、しかしやや小さな球体が点る。
その様を、フリアグネは強い歓喜とともに迎えた。
そう、歓喜だ。この球体の文字列こそ、かつて天才的な自在師たる "螺旋の風琴" が遺した自在式の一つ。
内臓するモノの在り様を作り変え、他者の "存在の力" に依存することのない存在として、この世に定着させる『転生の自在式』だった。
彼にとっては、都市一つ分の命を奪い去り、その存在を欠落させる秘法『都喰らい』さえも、自在式の起動に必要な "存在の力" を集め、愛するマリアンヌを一個の存在とするための道具でしかない。
そして、その仕込みはいまのところ順調だった。
彼の前にある箱庭には、無数の小さな鬼火がうごめている。
その一つ一つが、彼の望みを成就させるための種だ。小さな鬼火、つまり存在の力によって構成された "トーチ" には特殊な仕掛けが施されている。
信管とでもいうべきそれが組み込まれた "トーチ" は、ひとたびフリアグネが合図を下すことによって爆発、その存在を欠落させ、一度に生まれた多大な欠落は坂を転がるように連鎖的な存在の欠落を作り出す。
これによって作り出された大きな歪みを利用し、都市一つを丸々高純度の "存在の力" に変換する。それがフリアグネが心に期する計画の全容だった。
そして、その計画は今も順調に進行しつつある。
箱庭に映し出された "トーチ" の数は予定数にはわずかに届かないものの、今もその数は増えつつある。『都喰らい』を起こすのに必要なだけの "トーチ" が揃うのもそう遠いことではないだろう。
そうして静かに箱庭を眺めていたフリアグネの表情に、ふと小さな疑念が浮かぶ。
それを察したのか、肩に座る人形が案ずるような声で問いかけた。
「どうなさったのですか? ご主人様」
愛する彼女の言葉に、フリアグネは優しげな微笑みで答えた。
「ああ、ごめんよマリアンヌ。いや、大したことではないのだけどね。どうやらここに、"トーチ" が一匹紛れ込んだらしい」
「……? それが、いかがなさったのですか?」
フリアグネとマリアンヌ。彼らが滞在するここ、御崎市のトーチの数は極めて多い。ましてや彼らが居と定めた場所は人の行きかう街中にある、"トーチ" の一体や二体が紛れ込んだとしても不自然ではなかった。
しかし、それを知りつつもなお、フリアグネの心中から疑問が消えることはない。
フリアグネはその優美な指を、つっと箱庭に向ける。
その箱庭の一角、ちょうどフリアグネが指し示した場所、彼らの居たる代田デパートの中ほどに鬼火がひとつ、うごめいていた。
「私はね、ここを居と定める際にどのような場所かを念入りに調べ上げた。その結果、ここはすでに廃墟で誰一人寄り付くはずはないと結論付けたんだ。
もちろん、誰かがふとして入り込むことはあるかもしれない。けどね、マリアンヌ。そんな目的もなしに入り込んできた輩が、わざわざこんなところまで上がってくると思うかい?」
その言葉を聞き、マリアンヌの声に動揺が浮かぶ。
「ご、ご主人様! まさかとは思いますが、あの討滅の道具らめがここを嗅ぎ付けてきたのでは……!」
対して、フリアグネは平静な様子のまま箱庭を眺めていた。
「いや、それはないよマリアンヌ。仮にフレイムヘイズが私の居場所を知ったとしても、そこに "トーチ" を同道する理由はない。索敵という可能性もないだろう。彼らは構成員として人を使うことはあっても、"トーチ" を使うということはないからね」
そう言われて落ち着きを取り戻したのか、すっとマリアンヌから動揺が消えた。
消えて、しかし今度はフリアグネと同じように疑問を浮かべる。
「では……この "トーチ" はなぜここに?」
「……そうだね」
フリアグネはふむ、と顎に手を当てると、奇妙な韻をきかせた声で自分の考えを語り始めた。
「考えられる可能性としては、二つ。
一つは私達がまったく預かり知らない理由でこの建物、あるいは私達に用事があるという場合。
……もう一つは、この "トーチ" が何らかの感覚によって私達の、"紅世" の違和感を感じ取り、それに引き寄せられている場合だ」
「"紅世" の違和感……。では、ご主人様!」
フリアグネの本質を表す "狩人" の真名、その獲物の到来にマリアンヌは声を弾ませる。
その様子に、フリアグネはたしなめるように苦笑した。
「そう逸るものではないよ、私のマリアンヌ。そう都合よく "ミステス" が懐に飛び込んでくるものではないさ。ただ――」
声を切ると、フリアグネはその口元に笑みを閃かせた。
さきほどまでの相手を気遣うような笑みではなく、楽しみでならないという凶笑を。
「――もし "ミステス" だとするなら。いったいその中には何が入っているんだろうね。……うふふ、楽しみだ……」
その瞳にはもはや慈愛はなく、ただ己が欲望に忠実な炯炯とした光が宿っていた。
◇◆◇◆◇
悠二は窓から降り注ぐ、どこか白けたような光量の乏しい明かりを頼りに、迷路のような廃墟の中を進んでいく。
その手元には明かりの類はなく、それどころか一つの道具もない。防備の足しになればと着込んだ厚手の上下の中に、わずかばかりの武器を隠し持っている程度である。
デパートというだけあって中は広い。その上、そこかしこにちらばる廃材や、先の見通しにくい薄闇がより一層中を広く見せていた。
すでに侵入を始めてから随分と立つ、何かアプローチがあるのならばそろそろのはずだった。
それがないということは、向こうは悠二を手に掛けるかどうかを決めかねているのだろう。この時点での悠二はただの "トーチ" に過ぎず、襲うほどの価値はない。むしろ彼らの目的を考えれば、"トーチ" は一体でも多く残しておきたいはずだった。
(侵入者に気付いていない……ってことは、多分ないだろうな)
相手はあの百戦錬磨の "狩人" 、その本拠地である。楽観するべきではなかった。
そもそも楽観すべき要素など悠二にはない。今の悠二は力の繰り方を体得しているという点においてのみ並みの "トーチ" を凌ぐものの、力の規模は大差ない。"燐子" が相手だとしても、まともに戦えば恐らくは一捻りにされるだけだろう。
ましてや相手は "紅世の王" の中でも有数の実力者。以前はいくつもの好機が積み重なったおかげで勝てたが、本来ならば手錬のフレイムヘイズでも勝ち目の薄い相手だった。
そんな怪物を相手にただの一人で立ち向かう。苦境を通り越して、すでに笑い話にもならない状況である。
だが、悠二の表情に悲壮感はない。それは心に渦巻く怒り交じりの使命感のおかげでもあったが、その最たる理由は悠二の中に一つの勝算があったからだった。
フリアグネの目的、性格、能力を考え、組み立てた一つの作戦。確実なものではない、一つでも下手を打てばあっさりと悠二はその身を散らすだろう。
だが、やらねばならないことだった。
悠二はそっと胸に手を当てる。
目前にある扉、その向こうからひしひしと伝わる強烈な違和感。
戦いの時は、すぐそこだった。
◇◆◇◆◇
ぎしりと重苦しく軋む音とともに、暗闇の中にわずかな光が差し込んでくる。
その光景を、フリアグネは凶笑をひときわ強くして迎えた。
その笑みを隠し、扉を開けた主らしい少年、その "トーチ" に歩み寄る。肩に座っていたマリアンヌは、箱庭の中に隠してあった。
少年のほかに人影はない。
すでにフリアグネは十中八九この少年がその身のうちに "宝具" を宿した "トーチ" である "ミステス" だろうと当たりをつけていたが、念のためにと口を開く。
「やあ、少年。こんなところになんの用だい?」
微笑とともに問うフリアグネに、少年はどこか胡散臭いものを感じたのか、その表情をわずかに曇らせた。
そもそも、すでに廃墟と化したデパートの中で、浮浪者ならまだしも白スーツ姿の男性と出くわすこと自体が異常といえば異常なのだが、それが日常であったフリアグネはそのことに気付かなかった。
もしも気付いていたなら、その少年の表情に驚きの要素が少なすぎることに思い至り、多少は警戒を強く持てていたのかもしれない。
「えっと……大した理由じゃないんですけど、前からここのことが気になってて、中に何があるのかな、と思って来てみたんです」
だが、思い至っていたとしても、彼は歯牙にもかけなかったことだろう。
笑みを強く、強くし、歓喜の狂相を浮かべる。
「そうか。感謝するよ、少年」
フリアグネは二重の意味で述べ、躊躇なくその右腕を突き込んだ。
つまるところ、彼の弱点とはその豊富すぎる経験と力の強さからくる油断であり、彼の経験は自分にとってたかだか一体の "ミステス" など恐れるに足るものではないと声高に告げている。
だから、その結果は不可避のものだった。
ゴキリ、と。
フリアグネの身体の奥底で、何かがずれる音が響いた。
◇◆◇◆◇
「、ッガ」
目前の細面、秀麗な美男子の容貌が、苦痛以上の怖気によって歪められる。
悠二はその様と、全身に走った奇妙な感覚から、自分の考えていた通りのことが起こったと知った。
「オオオ」
砕け、折れたフリアグネの腕が、異様なまでの存在感を持って自分の中を漂う感覚。
一度目は散々に苦しめられたその感覚は、しかし二度目の今となってはどうということもない。
「オオオオオオオオ、?!」
腕を瞬時に取り込む。途端、内包していた莫大な量の "存在の力" が、悠二の身体に溶け込んだ。
全身を満たす全能感、圧倒的なまでの力強さを感じつつ、上着の内側から一本の金属片を掴み出す。
しゅ、と軽やかな音を立てて降り抜かれる、一本の包丁。
"存在の力" を流し込まれて切れ味と強度を名刀の領域にまで高められたそれは、逆袈裟の一閃を残し、フリアグネの残る一本の肘から先をあっさりと切り飛ばした。
薄白い炎が、フリアグネの両手の元あった場所から吹き洩れている。
「うぉぉぉぉぉぉっ!!」
悠二は降り抜く勢いのまま包丁を投げ捨てると、空の左手でフリアグネの顔を殴りつけた。
奇襲に次ぐ奇襲。反撃の手段と冷静さを失ったフリアグネは、その一撃をまともに受けて体勢を大きく崩す。
どさっ、と倒れこんだフリアグネへと、悠二は一足で飛び掛った。
両手を失った細い身体にのしかかり、押さえ込む。白いスーツは埃にまみれ、止まらぬ火花が地面を染め上げた。
悠二は右手で首を掴む、と、その時、互いの目がはた、と合った。
怒り、驚き、そして何よりも恐怖の感情。
フリアグネが浮かべるそれらが、単なる自身の消失に対するものではないことを、悠二は実感として知っていた。
共感が心に去来する。
去来して、しかし悠二は膨大な "存在の力" を右腕に込めた。
悠二の身体の下で細い輪郭が崩れ、崩れた身体が白い火の粉となって悠二を包むように中空へと散ってゆく。
フリアグネは、すでにその意思が消えたことを伺わせる焦点の定まらない瞳を空へと向けていた。
唇が、かすかに動く。
それはもはや音を形作ってはいなかったが、それを間近で見る悠二にはその音が見て取れた。
いや、目にしなくとも分かっただろう。
音のない声が、一つの名前を呼ぶ声が、火の粉とともに溶けていった。