もし、伊織のケアを優先していたら、この悲劇は防げただろうか? そんなことを考える。俺はトゥルーホワイトを復活させ、さらにやよいの力に頼りまくったうえで、『ハニーキャッツ』をAランクにまで押し上げた。 だが、それは正しかったのか。 あのときの優先順位を繰り下げてでも、やるべきことが残っていたんじゃないか? そんな後悔はすべてが終わってしまってからのものだった。 いや、違う。あそこではどうやっても、やよいを優先せざるを得ない。あれだけの輝きを見せるアイドルを目にして、他のものに目を移せるはずがなかった。そのほかの選択肢なんて、選べるはずがない。プロデューサーとしての能力の限界と言われればそれまでだが、できないものはできない。「――終わったな。帰る準備をしておけ」 控え室では、重苦しい雰囲気が漂っている。 こんな雰囲気にいつまでも浸っているわけにもいかない。 使い物にならなくなったやよいと伊織を控え室に隔離して、美希と真と雪歩で、残りの収録時間を乗り切った。 来週使うはずだった『高槻やよいのやよい式WEBテレビ』名場面集を放出して、主役と伊織が出ていないのを、なんとか誤魔化せたかと思う。 やよいは、うなだれて動こうともしない伊織を、じっと見つめていた。なにかを語りかけようとして、そのまま口をつぐんでしまう。そんな光景を何十回繰り返しただろうか。 先ほどのことだ。 時間は、一時間ほど前まで巻き戻る。「本日のメインである『高槻やよいVSトゥルーホワイト』は終わったが、番組的にはあとワンコーナー残っている。伊織は休ませても構わないが、少なくともやよいと美希だけは出ている必要がある」「え、でも――」 やよいは、伊織の方に、視線を動かした。 一度目を離したら、二度と取り返しのつかないことになる。そういう予感があるのだろう。気のせいとも、気の回しすぎともいえない。長らくつきあったユニットの片割れのそういう予感は、だいたい的中する。「それでも、出るんだ。お前がファンの前で、いつもどおりに振舞えなければ、伊織が帰ってくる居場所が、本当になくなるぞ」「プロデューサー」 やよいが、こちらを見た。 ゾクッ――、と背筋が凍りつく。暗い奈落を覗き込んだような気がした。やよいの瞳に呑まれた俺に、やよいの視線が追いかけてくる。 そのあとに生じた数秒は、彼女が覚悟を決めるための時間だったのだろう。結局のところ、彼女はその結論を躊躇わなかった。「プロデューサー。今まで、お世話になりました」 ぺこりと、頭を下げる。 やよいは、迷わなかった。 やよいは伊織のために、今まで積み上げてきたものをすべて投げ捨てるのに、ただの一秒たりとも迷わなかった。 あ。 詰んだ。完全に終わった。俺は眼の前が真っ暗になった。口をパクパクとさせるだけで、どう返していいかわからない。「別にいいんじゃないの。やよいはここにいても。ミキのコーナーだし、真くんと雪歩がいてくれるから、なんとかなると思うよ」「美希さん」 まったくテンションの変わらない美希の態度が、今は頼もしい。そんなことを、感じる余裕さえない。「おにーさん、それでいいよね」「あ、ああ。そうだな、頼んだ」「うん。じゃあ行ってくるね。帰っちゃダメだよ」 いまさらに、止まっていた心臓が鼓動を刻み始める。美希が話しかけてくるのが、あと一拍でも遅ければ、すべて終わっていた。弱音のひとつも吐きたいのはこちらのほうだった。もうやだこんな神経が鉛筆削りで削られるような職場。 ――というのが、先ほどあった一部始終である。 美希が帰ってきたのは、それから一時間にも足らないうちだった。楽屋に据え付けられたモニターで様子を見ていたが、真と雪歩を生贄に、美希画伯のコーナーは今日も大盛況だった。やよいは、体調不良ということで客には言い訳してあった。 今日ばかりはトゥルーホワイトの存在感に、押し潰された感じがある。観客も不満を感じるほどではないはずだった。「まだ、こんな空気が続いてるの?」 帰ってきた美希は、開口一番そう言った。 ステージの熱がまだ体に残っているのか、こころなしかいつもよりフワフワしているように見える。 「…………」「…………」 当然ながら、やよいも伊織も、美希に対して視線さえ寄越さない。 やよいは消極的に、伊織は徹底的に、美希の囁く声を雑音としてシャットアウトしている。 というかこれは完璧にまずいだろう。 代わりに仕事をやり遂げた相手に対してお疲れ様のひとつも言えないとか、主観的に見ても客観的に見ても、ユニットとして末期としかいいようがない。 「空気悪いよ。ふたりとも仲良くしようよ」 滞留していた場の空気が動いた。 美希が発した正論は、場の空気をさらに悪化させた。 ああ、なんだろう。美希はすでに場をこじらせる以外の、何の役にも立っていない。それでも、変化はあった。 伊織は完全に黙殺を続けているが、やよいは表情に表れている。素直な性格がそのまま出ている。やよいは自分が思うほどに感情を殺せない。さすがにムッとしたようすが、表情にあらわれている。 「ねえねえ、やよい。なにか言ってよ」 耳元で囁くように言う。あれ、まさか。俺はふと気づく。 まさか、美希のやつ、やよいを挑発しているとかないよな――?「美希さんには、関係な――」「――やよい」 底冷えする声だった。 「今、なにを言おうとしたの?」 場の温度を下げる美希の言霊にようやく、やよいが美希の方向を見た。遅ればせながら、俺も気づいてしまった。星井美希がブチギレているようにしか見えないのは、どうやら気のせいではないらしい。 おい。もしかしてここからさらにこじれたりするのか。 『ハニーキャッツ』の中での美希の立ち位置は正直、担当プロデューサーである俺もよくわかっていない。だから、これから美希が言い出すことなんて、まったく予想がつかない。 「おにーさん。やよい。おでこちゃんのことは、ミキに任せてくれないかな?」 予想外だった。 まるでわけのわからない、不意打ちのような申し出。 思わず、やよいと顔を見合わせてしまった。今の俺の感情をどう表現すればいいのか。おそらくは、途方にくれたというのが一番近いのだろう。 ああ、やばい。なにを言い出すつもりか、まったく予測がつかない。 やよいと伊織をこのままにしておくのと、どっちがリスクが高いのか。だが、そうだ。美希もユニットの一員である。選択の余地など最初からない。 ――断れない。 美希が主張しているのは、彼女が行使すべき正当な権利である。 「時間は、どれぐらいかかる?」「五分もあれば、十分だとおもうよ」「やよい。話は聞いてたよな。そういうわけで、席を外すぞ」 うなだれる伊織から目を切れないやよいの腰を強引に引っこ抜いて、俺はそのまま小脇に抱え込んだ。 「ぷ、プロデューサー離してください。ひとりで歩けますー。ひとりで歩けますからーっ!!」 足を宙に浮かせたまま、やよいは手足をばたばたさせている。 廊下を出て、わざとらしくも大きな音を立ててドアを閉める。そのあとで、やよいの口を塞ぎつつも、ドアの隙間から耳をすませた。(あの、プロデューサー? これは?)(黙っていろ。今更盗み聞きは悪いことだなんて言うなよ。お前にも、聞く権利はある) このユニットが、どうやって壊れて、どうやって終わっていくのか、その崩壊を食い止められないとしても、高槻やよいにはそのすべてを見届ける義務があった。