「みんなー、あつまってー。スマイル体操、いっくよーっ」 やよいによく似合うポップでキュートな曲調がスタジオに流れると、小魚みたいに集まってきた子供たちがステージに輪をつくる。黄色で整えられたステージ衣装に袖を通して、高槻やよいは、番組マスコットである三匹のカエル着ぐるみを従えながら振り付けをこなしていた。 『ゲロゲロキッチン』は、ケーブルテレビで流れている息の長い教育番組である。 ケーブルテレビのタイムテーブル(番組表)を見せてもらったが、随分と面食らってしまった。話数が違うだけで、あとはすべて同じ番組構成。曜日ごとの変化などなにひとつない。放送開始から終わりまで、一週間すべて同じ時間、かつ順番で流れていく。 一週間を単位として、さらに話数までリセットされるようだった。 次の月に入るまで、四回繰り返す。 予算の都合なのか、それとも最初からこういうものなのか、ひと月で、同じ放送をヘビーローテーションしていた。続きものの話を見逃しても、さして痛手にならないのは短所なのか長所なのか。「ねえ、プロデューサー。こういうものなわけ?」「ああ、それはな」 閉じている、とでもいうのか、あまりにも使い回しが多すぎるせいで、新番組や新アニメというだけで売りになる。CMで新アニメが来た、という時のありがたみがぜんぜん違う、というのがプロデューサーの弁だった。「なんでそんなに詳しいのよ?」「大学時代に一人暮らししてたアパートで見れたんだ。風まかせ月○乱とか、アニメ版ワイルドアー○ズとかやってた。レンタルビデオ店の肥やしにすらならなさそうなアニメがたくさん流れてたり、すっかり忘れられた一発屋芸人が、地元のレジャーランドを紹介とかしてたな」「ああ、そう」 九月になった。 やよいの仕事は、トラブルもなく順風満帆だった。教育番組の歌のお姉さんという仕事は、ずいぶんと彼女の肌に合ったようだ。天使みたいな笑顔を振りまいて、これがやよいの天職かと思うほどだった。 頬杖をつきながら、やよいの様子を見る。収録を済ませて、あとは帰るだけだというのに、やよいは子供たちに囲まれてひどいことになっている。 「あ、伊織ちゃん。ちょっと待ってね」「やよいねーちゃんあそぼーよー」「あそぼー」「いっけー。俺のシューティングスターマグナムっ!!」「ああっ。もう、ケーブルとかあるんだから、スタジオでミニ四駆走らせないのーっ!!」 やよいの叫び声で、止まったのも一瞬だけ。ひとりが騒ぎ出せば連鎖的に騒ぎ出して、あとはもう悪戯する子に、泣き出す子、歌いだす子や踊りだす子と、いろいろだった。騒いでいるのは十人ぐらいだったのだが、それでもかなりうるさい。もちろん、今現在拡大傾向にある。「げふぅ」 あ、止めに入ったプロデューサーがノックアウトされた。 「ふ、ふふふ。俺は二度とこんな仕事はうけないこと今、ここに誓った」 うつぶせに倒れて、プロデューサーはそんなことをつぶやいている。みぞおちに、全体重を乗せた頭突きを食らって、プロデューサーは青白い顔をしてぷるぷると震えていた。しかし、この男、地面に這い蹲るのが随分と似合う。 「アンタね。小学生に負けるんじゃないわよ」「仕方ないだろう。避けて怪我させたりしたら、そっちが問題だ」「この言葉、ダンゴムシみたいな態勢じゃなかったら、もうちょっとマシに聞けると思うんだけど」 地面を這っているプロデューサーは、格好の生贄みたいだった。寝ているところに顔を油性マジックで塗りつぶされたり、棒でつつかれたりしている。正直、将来ああいう大人にだけはなりたくないという、素晴らしい反面教師だと思う。 ショッキングな彼(星井美希)。 3436枚。 リゾラ(私、水瀬伊織)。2897枚。 ゲンキトリッパー(高槻やよい)。1711枚。 そして私たちが出したCDの、初週の集計結果が出ていた。アイドルのCDなんて初動がすべてであるので、ここからは上乗せされて数百枚が限度だろう。 Eランクアイドルとしては、文句なし、といえるぐらいの成績らしい。 ドリームフェスタで、ベスト4、準決勝まで勝ち残ったことで知名度も上がり、私たちにもファンというものがつくようになった結果ということだ。 割り振られた三曲とも、歌詞にも曲にも妥協もなく、胸を張ってファンに届けられる質になっている。なにより、オリジナルで歌える、私たちだけの歌ができたのが大きい。 けれど、私たちは三人ともまだEランクアイドルのままだった。プラチナリーグでは、EからDへのランクアップが一番難しいといわれている。Dランクへの昇格点は、100000ポイントである。CD販売一枚で20ポイント入るために、つまりはCDが5000枚売れればランクアップする計算になる。 この時代に、幾多のライバルたちを抑えて、5000枚。 お世辞にも、低い壁とはいえない。 けれど、これを超えないと、なににもたどり着けない。プラチナリーグでは、Dランクアイドルからまともなアイドルとして扱われ、基本給が発生する。Cランクまで上がれば、小銭稼ぎとしては十分すぎるほどの名声が得られる。Cランクアイドルが、普通のアイドルたちに対する最終到達点と呼ばれる所以だった。「そこから上は、魔物の棲家みたいなものだ。基準にしないほうがいい」「とか言われても、私、Cランク程度で得られるものは全部持ってるんだけど」「厭味なのか自慢なのか自然体なのか、絶妙なところだなそれ」 そんなことを言われても困る。 私が欲しいのは光り輝く栄光だ。自分の力を誇示するのに、プラチナリーグほどうってつけの場所はない。私自身の全才能をステージの数分に注ぎ込んで、神経の切れそうな一瞬を演じる。多少の非日常に踏み込んだことがあるのなら、そんな幸福を、多かれ少なかれ理解できるだろう。「Aランクを狙えないなら、最初からやる意味なんてないと思ってるわよ」「ふむ。でもな、たとえばここに天才がいるとするとしよう」 プロデューサーが、美希の頭をふん掴んだ。 「あふぅ」 美希は悲鳴(?)を上げると、クレーンゲームのアームに持ち上げられたみたいに、宙に吊られていた。「AランクとかBランクとか言ってるが、事実上はBで打ち止めと考えておいたほうがいい。いくらこいつが天才でも、売れるキャパなんて本来の五、六倍が限度だ」「それで十分なんじゃないの?」「あふぅ。なんか楽しくなってきた」 美希はゆさゆさと揺れていた。いちいち胸まで揺れていて、とてもうっとおしい。「なお、あずささんの写真集は、48万ほど売れたな」「相変わらず常軌を逸してるわね。でも売れすぎてるけど、それ特例中の特例なんじゃ?」「そういう特例中の特例が、つまりはAランクアイドルなんだよ。他人の基準で勝負しているうちはまだまだってことだな。記録にこだわる必要はないが、オンリーワンを突き詰めるのがアイドルの宿命みたいなものだぞ」「ねえねえ、おにーさん。ひとつだけ、聞きたいことがあるんだけど」「ふむ?」 美希が吊られたまま、器用に顔の向きを変えた。「ふつーって、どーなるの? たしか、CD出せるのってDランクからだよね。CDを出さずに、どうやってDに上がるの?」「へえ」 思わず、私は感嘆の声を出してしまう。 美希にしては、中身が入ったような質問だった。「うむ。今のプラチナリーグの基準は四年前そのままで、当時と今の客の購買力の違いとかもあるし、基準を見直そうって話もでてきてるんだがな。たいていのEランクアイドルは、そこでプラチナリーグ専用の、音楽DLサイトである『HIEMS(ヒエムス)』が役に立つわけだ」「なにそれ?」「一曲、150円でどんな曲でも落とし放題だ。たいていのEランクアイドルは、これに一シーズンで5から6曲ぐらい集中投下して、ランクアップを狙う」「ふぅん」「ランクアップの集計期間は、シーズン中だからな。四ヶ月ある。逆に考えれば美希なんてCD一枚でノルマの七割をクリアしたんだ。やよいはこの『スマイル体操』もあわせて、あと二枚のCDリリースが決定してるし、まずこのシーズン中に三人ともDランクには送り込めるだろう」 順調すぎるな、とプロデューサーは笑っていた。 やよいが歌う番組主題歌でもある、この『スマイル体操』は、群を抜いて出来がよい。ってことは、むしろ尻に火がついているのは私自身だったりするのか。「え、もしかして。私が一番、マズい位置にいるとか?」「そうだが、別に気にすることもないぞ。こんなもん誤差だ誤差。お前の輝くべきステージは、また別に用意してやる。今はまだ足場固めの時期だからな。やよいを見習って、与えられた課題の中で、自分にとっての最善を尽くせばいい」 なかなか、重い言葉だ。この『スマイル体操』は、まさにやよいにしか歌えないだろう。やよいをそのままデコレーションしたような歌である。 まるで水を得た魚だった。その面では、うちの社長の見立ては正しかった、ということか。 物思いにふける私の首筋を、ぬるい風が撫でた。 身体が勝手に臨戦態勢に入るのがわかる。生温い圧意が、近づいてくるものの危険さを、肌に知らせてくれる。 足音。 コツコツと近づくそれが、死神のそれに思えた。 警戒する私とは裏腹に、やよいは、曇りのない笑顔で、それに声をかけた。「あ、春香さん」 役者の違い、とでもいうのか。 春香が一歩前に踏み出すと、やよいに纏わりついていた子供たちが、ザザザザザザアアアアアッッと波が引くようにいなくなった。 すさまじい光景だった。この女、本気でなにか憑いているんじゃないだろうか。視線を合わせるだけで、奈落の底に引きずり込まれるような感覚に、頭痛を押し殺す。全身に誰かの手を纏っているようなどす黒いオーラは、見るだけで神経が侵される。親を殺してでも逆らってはいけない人間だと、子供たちは本能的に理解したようだった。「第一回目の放送は見せてもらったわ。よかったわよ。私も昔を思い出して、この舞台で一緒に踊りたくなったぐらいよ」「それはちょっとおかしいわね。『ゲロゲロキッチン』の演目に、死霊の盆踊りはなかったはずだけど」 懐かしそうに目を細める春香に、私は半ば本気で疑問を投げた。「伊織ちゃん。それホントだよ。私見たもの」「見たって、なにを?」「古ぼけた昔のビデオテープで、春香さんが、『ゲロゲロキッチン』に出てたところ」「ああ、そういえば動画がひとつ残ってるぞ。見るか?」 プロデューサーから手渡された携帯音楽プレイヤーで、再生された動画に目を通す。古い動画だった。画面全体に入るノイズと画像の荒さに、これがVHSで撮られたものであることがわかる。 数年前の『ゲロゲロキッチン』だった。 歌と踊りの時間らしい。小学生ぐらいの女の子たちを集めて、何代か前の歌のお姉さんが、彼女たちに与えられた振り付けを統率している。 それは素人の小学生のもので、お世辞にもうまいとはいえない。 学芸会レベルであって、少しつつけばほころびが見える程度のものだった。動画のシークバー進めて、なお目立つシーンがあった。 こてっ、と、ひとりだけ、必ず一テンポ遅れている少女がいた。リボンがトレードマークの、限りなく地味そうな少女だった。春香を縮小して、かわいげを与えればこんな感じになるのかもしれない。外見は、限りなく春香っぽい。「え、っていうより、これ春香?」 完全に、地味かつトロくさそうで、アイドルの輝きなんて微塵も見えない。表現は悪いが、これではそこらへんで見かける石ころだ。最上級の黒曜石である天海春香に、こんな時期があっただなんて信じられない。「っていうか、それよりこの歌のお姉さんって、うちの社長じゃないっ!!」 いろいろなことが、この動画で繋がってしまっている。 この純朴そうでトロそうな田舎少女が、どんなイベントと改造手術を経て、こんなモンスターになったのかは気になったが、それより私の目を釘付けにしたのは、この番組の主役のほうだった。 今も十分アイドルで通用しそうだが、まだスーツより学生服に袖を通していたころの西園寺美神は、この私から見ても凛々しいものがある。 若い。年齢は私のふたつかみっつぐらい上だろう。歳に似合わないぐらいに、自信に満ち溢れている。まばゆいダイヤモンドの輝きで、目がくらみそうだ。へろへろおろおろぺこぺこな、西園寺社長と同一人物だとは思えない。プラチナリーグが、まだなかった時代である。それほど有名ではなかったのだろうが、アイドルとしての格は、小早川瑞樹ぐらいはあるだろう。「一級品だな。流石は『765プロダクション』のアイドルだ。高木順一郎が育て上げた最高傑作のひとつだぞ」「いまさら、知らないプロダクションの名前を出されても困るんだけど」「まあそうか。そこそこ大事な話ではあるが、また次の機会でいいや」 しかし、この動画。 本人とかは別に隠していないのかもしれないが、見ているほうがいたたまれない気分に陥ってしまう。 なんだろう、これは。本人がどう思おうと、この動画は、なかったことにしたいことというか、黒歴史とか、そういったものなんじゃないだろうか? あの社長、確実にどこかで人生を踏み外したように見える。このままアイドルやってれば、それなりに幸せだっただろうに。 それでも。それでも、だ。春香の気持ちが、少しだけ理解できた。 春香が、自分の個を捨てて、守ろうとしたもの。 そして、春香が、社長以外の誰も、自らのプロデューサーとして認めることがない理由。 やよいが、『ゲロゲロキッチン』の出演権を、春香に譲ろうとした理由。まだ輪郭だけだけれど、春香が目指すものの、その表層ぐらいにまでは触れることができたのだと思う。「大丈夫です。春香さんの分の想いも、私が受け継ぎますから」「やよい。まだわかってないのね。私の分なんて、最初からないのよ。私は、誰かに夢を与えるために、アイドルを目指したわけじゃないもの」「でも、春香さんは、ここに立つことが、夢だったんじゃ」「いいえ。私にとっての『ゲロゲロキッチン』は、夢とはちょっと違うわね。私は、選択をやり直せたとしても、今の、この道以外は選べないでしょうし」 春香の真意が掴めない。 やよいの困惑する顔に、春香は透明な笑みを浮かべた。「重いつづらと軽いつづらを前にして、私は重いつづらを選んだのよ。だからね、私の夢は、ステージの上で、『すべて』叶ったの。これ以上は贅沢でしょう。私にとっての『ゲロゲロキッチン』はね」 そして春香は、自らの思いを断定した。「ただの取り零しよ」「そう、ですか」 やよいは、一度も春香から目を逸らさなかった。こうなったときのやよいの頑固さを、私は身をもってよく知っている。ぶしつけな善意が天海春香への侮辱となることを学んで、それでもやよいは、引く気はないようだった。「でも、私がこの仕事を務め上げたら、きっと春香さんは喜んでくれますよね? 後輩じゃなくても、ひとりの友達としてでも」「もちろん、祝福させてもらうわ」 あまり、子供たちを怖がらせるのも問題があるわね、と言い残して、春香は去っていった。思い当たることがあった。じいやから聞いた寝物語。花咲かじいさんや、鶴の恩返しなどと並ぶ、日本の民話。 「舌切り雀なんて、ずいぶんと洒落た例えね。思わず、身震いしたわよ。重いつづらと軽いつづらか。やよい。軽いつづらにはなにが入っていたかしら?」「軽いほうなら、おなかいっぱいの白米とか、金銀財宝パールとかじゃなかったかな? ええと、でもよく覚えてないけど、重いつづらって、たしかあまりいいものが入ってなかったような」「ええ。重いつづらに入っていたものは」 私は、そこから考えられる、春香のアイドルの道程に、想いを馳せた。 私たちがこれから通る、Aランクアイドルまでの道のりは、春香が辿ったそれと、そう変わりはないだろうから。「妖怪とか虫とか蛙とか、蜂や蚯蚓や蛇やら、だいたいそんなものだったはずよ」