うっとおしくて仕方ない。 プロデューサーが、机に企画書を広げて、企画担当の人と細部を詰めている。ワークスプロダクションのテナントが入った事務所の一室には、会議室などという気の利いたものがあるはずもないので、とても狭苦しい。 実機は完成していて、あとはプレゼンにかかっている段階のようだった。どこの店に何機入るだとかの注文数の見積もりまでが出ていて、あとはCMや攻略情報などの具体的な広報を打つような段階になっている。 部外秘、と赤文字で刻印された企画書は、私が見てもまったくわからないようなものだった。おそらくは興味のある人間からしてみれば、宝の山に見えるんだろう。チラッと見た限り、賞球とか液晶大当たり確率だとか、ラウンドごとの最大出球だとかの数字が並んでいる。「やよい。伊織。ためしに遊んでていいぞ」 とはプロデューサーの弁だが。 私は壁に立てかけられたそれを見た。 思ったより大きく場所をとった。いつか美希と行ったゲーセンで触ったことぐらいはあるが、やはり見慣れないものは見慣れない。「あと、パチの実機は24Vだから、そのままコンセントに刺すとショートするぞ。トランスがついてるか確認してな」「はーいっ。うわああっっ」 やよいは、確実に近所からクレームがくるレベルの大音量に小動物みたいにおびえていた。ボリューム調節の場所を聞きだした後、やよいの小さな手がレバーを廻し、パチンコ球が弾き上げられる。クギの森を通って球が役物に導かれて、チェッカーに球が入ると液晶演出がはじまる。液晶画面に映し出されるSDサイズの三浦あずさが、たまに図柄を揃えてくれる。 目が痛くなるぐらい飾り立てられた台では、希望リーチ、愛リーチ、夢リーチ、光リーチと四種類に分岐し、あずさのPVやアニメなどが流れている。 収録される歌は実に九種類。 デビューまでのストーリをアニメに再現した、この『CR三浦あずさ』はこの夏、パチンコ業界に旋風を巻き起こすこと間違いなし、というのが謳い文句らしい。「伊織ちゃん。見てみて。大当たりだよ」 上部にとりつけてあるランプが点滅し、スピーカーからあずさの歌が流れている。『9:02pm』だった。派手な特殊演出とともに、ボーナスゲームに突入していた。中央のチェッカーに球が送り込まれるごとに、大量のパチンコ球が払い出される。「ううう、これが本来なら一玉四円。ら、来月の給食費が払えるかも」「やめなさい、やよい。こんなのばっかりしてると、この男みたいに、人間として終わるわよ」「俺みたいにか」「ええ、アンタみたいによ」 プロデューサーにはそう言ったとはいえ、たしかにこれは魔力がある。 周りのダメ人間たちを取り込もうとする底なし沼みたいなものだ。 大の大人が身を持ち崩すだけのものが詰まっていることは、重々に理解できた。娯楽としては、ひとつの完成系なのかもしれない。「豪華で多彩な演出で期待を持たせ、尻の毛まで抜き取っていく。くくくくく、かわいい顔をして、とんでもない悪女だよこいつはっ!!」「で、今さらながら訊くけど、なんであずさがパチンコ台になってるの?」「ブームだからな。俺も乗り気ではなかったんだが、思えばプラチナリーグでこういうのができるのは、あずささんしかいないんだよな。アニメ系作品なら、元を知らなくてもスペックさえ良好ならパチンカーは打ってくれるが、芸能人とか実際の人物をモデルにした台は、芸能人がせめて五年や十年は。生き残ってくれてないと。台の開発中に人気が急落したら、どうしようもないだろ。運がすべてのギャンブルで、誰が落ち目の芸能人の台を好き好んで打つと思う?」「ああ、あずさならすでに引退してるし関係ないわね。神格化されている伝説のアイドルマスターなら、主役を張るのに十分ってわけ」「うむ」「プロデューサー。私も売れたら、あずささんみたいになれるかな?」「ええと」 ダメだろうそれは。 やよいの無邪気さに水を差すのもあれだが、これはあずさだからギリギリ許されている気がする。「やよいのやる気は買いたいが、残念だが無理だ。タバコ業界ほどガチガチに規制されてはいないが、18歳未満のモデルはそれだけでNGだからな」「そっか。ううっ、ざんねんだなぁ」「っていうか、こんな仕事してるんじゃないわよ。ハニーキャッツとしての活動はどうなったのよ」「ちゃんと歌を作って渡して、レコーディングも済ませただろ。美希に『ショッキングな彼』、伊織の『リゾラ』、やよいの『ゲンキトリッパー』。もうCDもできて、倉庫に眠ってる段階だ。来月に同時発売して、本格的な活動はそこからだな。せめて、今期中にDランクアイドルぐらいには上がりたいところだ」「むう」「とゆーわけで、仕方なく俺は手慰みにこんな仕事をしてるわけだ。というか、『ギガス』を辞めるときにやりのこした仕事を片付けているだけなんだが。ひとつだけ、見落としていたらしい。それが、この『CR三浦あずさ』なわけだ」「ああそう」「ジョセフ社長(ギガスの社長)から電話がきてな。あのエセ英国紳士。自分の仕事は最後までやっておけ、とか言ってきた。この仕事、企画を立ち上げたのはかなり前で、台の開発から発売までタイムラグがありすぎて、すっかり忘れてた」「プロデューサー。アンタ、仕事はえり好みするタイプだと思ってたけど」 どれだけ多くの金を詰まれても、かたくなに自分の作品の版権を守り通した漫画家の話とか、聞いたことぐらいある。商品としてパッケージングされるなら、なんでもいいということなのか。「仕方ないだろ。流行に取り残されたプロデューサーに、存在意義なんてない。実際こんなオイシイ市場を逃すわけにはいかないからな。その題材に興味のない人間を全国区で取り込めて、さらに数時間座ったまま同じ場所に拘束できるんだぞ。液晶で往年のあずささんのライブ映像が流れまくって、大当たりするとエンドレスであずささんの歌が流れる。こんなおいしい宣伝の場なんて、どこにもないぞ」 うむ、業界の拡大に貢献する俺ってとてもえらいなぁ、すごくえらいなぁ、とプロデューサーは、コンビニでたまに募金していい気になっている小市民みたいに口を開いて笑っていた。「楽しそうなことをしているわね」「げ」 事務所の扉が開いた先に、『ワークス』プロダクションの、Aランクアイドル様がいた。 イメージカラーであるの黒のワンピースに身を包んで、天海春香は感情のない目でこっちを見降ろしている。本来ならあまり顔を合わせたくない。寝つきが悪くなりそうだというのがその理由だったが、今だけはありがたいものがあった。「ちょうどよかった。アレ、さっきから目ざわりなのよ。さっさとどけてくれない?」 アレを指差す。 うちの社長が、ドアの向こうに影絵を作っていた。 多分、三十分ぐらい前からずっと。 ちくちくと首筋に刺さる視線がうっとおしい。 夏場に部屋に蚊がまぎれこんだような不快感。さきほどから、うちのプロダクション社長である西園寺美神が、さっきからひたすらなにかを言いづらそうにして、こちらを見ていた。口をぱくぱくさせて目をおろおろとさせているあたり、ウザくて仕方ない。ただそんな所作は、私のかわいさには数段劣るにしても、事務所で預かっているアイドルたちよりはよほど魅力的だった。「春香とは別の意味でうっとおしいわよ。普通に通報されるレベルよ」 この社長、磨くところを磨けば、ちゃんと今でもアイドルとして通用しそうだった。それはいいのだが、普通は自分のプロダクションの社長がこんな醜態を晒していたら、すわ、倒産か、リストラかと、普通は戦々恐々とするしかないんじゃないだろうか? まあ、そうなったらこの社長より、私のおじいさま(この会社の大株主)のところに一番に情報が入るだろうから、そんなネガティブな話ではないはずである。「言いたくないけど、醜態よ。アレ」「いいじゃない。もう少し見ていたいのよ。ああ、うだうだしているお姉ちゃんはかわいい。さっきから頭をかきむしってるお姉ちゃんは無能かわいい」「相変わらず、病んでるわこの女」 春香がキラキラと眼を輝かせていた。 そこに存在するだけで、笑っていた子供がひきつけを起こし、泣いていた子供がさらに号泣するようなこの天海春香が、いやいやいやと年頃の少女みたいに恥じらうさまは、なんというか不穏なものがあった。天変地異の前触れ、とでもいうのか。最近地震多いし、冗談では済まなそうなのが怖い。「伊織。あなたにこの気持がわからないのが残念よ」「残念でけっこうよ。私には、ご主人様に尻尾を振る犬の気持ちなんてわかんないわよっ!!」「あのね。春香。いいのよ。あのね、実は、やよいさんに話があるの」 ガタンっ、と外して戻らなくなった安普請の扉に半身を隠して、西園寺社長は私たちの前に姿を見せた。 はぁ。 やよいに話があったのか。 高槻やよいと西園寺美神には、確執がある。少なくとも、私はそれをはっきりと覚えている。才能を摘んだとまではいかないが、やよいのきらめきを、社長は見逃した。元来、誰に責められること、ではないのかもしれない。それでも、社長はいまだになにか気にしているようだった。 手際良く自分のマネージャーを呼んで、社長の壊した扉を直させている春香を横目に、私はコーヒーメーカーで淹れたコーヒーを出してあげた。そこそこ名の通ったプロダクションのくせに、使用人のひとりもいないのは問題だと思うが、たいていのプロダクションはどうやらそういうものらしい。「ゲロゲロキッチンって知ってるかしら?」 そして、前置きにそれだけかけた西園寺社長が言ったのは、そんな台詞だった。「カエ吉くんとピョンコちゃんとゲロ平くんが、お歌を歌ったりダンスをしたりする番組、ですよね社長」「ええ、知っているのなら話は早いのだけれど」 やよいは、社長に含む気持ちは一切ないらしい。やよいが自分の気持ちに、暗い根を張っている子ではないということは、私が一番よく知っているが、あけすけな態度に、西園寺社長はまだ戸惑っている。「ケーブルテレビの一企画だろう。対象年齢は、二歳から楽しめる教育番組だったはず。かなり昔からやってるはずだよな」 プロデューサーが、補足を加える。 よく、この事務所でやよいの見ている番組が、そのようなものだった気がする。あまりに子供向けすぎて、最後までは見れなかったが。おはなのながーいぞーさん。おくびのながーいきりんさん、とかいう歌詞が最初から最後まで流れ続けるあんな番組、最後まで見るなんて無理だろう。「それで、ゲロゲロキッチンが、どうしたんですか?」「ええ、それが三匹のカエルのぬいぐるみと歌のおねえさんがいろいろなイベントや歌を歌ったりする番組なんだけど、その歌のお姉さんが結婚して実家に戻るとか言い出したらしく」「はー」「だから、その代わりに」 社長は、迷いつつも、まっすぐにやよいの瞳を見た。「あなたに、歌のおねえさんの仕事を任せたいと思って」「え」 一拍。 やよいが、絶句している。「ええええええっっっ!!」「おお、いい反応だ」「えっと、どうして私に?」「え、ええ。それがね。困ったことに私も途方に暮れてね。もともと、春香に来た仕事なんだけど」 事務所にいる皆が、一斉に天海春香を見た。それから、それぞれで視線を交し合う。そこにこめられた感情は、不安や懐疑的なもので概ね統一されている。誰しも、思うことは一緒らしい。「えっと、春香さんが、歌のおねえさんなんてやったら」 やよいの言葉は、そこで途切れた。この続きはあまりに失礼すぎて、口に出せなかったと判断する。まあ、考えるまでもない。 やよいに、そう判断されるほどに明白だということだ。 天海春香がブラウン管に映ろうものなら、子供が全員泣きわめき、視聴者すべてに一生消えないトラウマが刻み込まれることだろう。あ、余談ではあるが、正式に地デジ化したわけだし、ブラウン管に映るなんて表現はもう使えないことになるのか。 そもそも、春香に普通の歌なんて歌えるのか。Aランクアイドルという肩書きと、本人の能力の特異性。そこらへんに幻惑されがちなのだが、この天海春香というアイドルは、異常なまでのカリスマに拠って立っているだけで、アイドルとしての基本スペックはそこらへんのC級アイドルと大差ない。歌と踊りだけなら、私より確実に一ランクは下だと断言できる。「で、春香。アンタの意見はどうなの?」「私の柄じゃあないわ。知ったことじゃあない。私にとっては、瑞樹がやってもやよいがやっても同じことよ」「たしかに、瑞樹には無理よね」 天海春香がダメとなると、そこは二番手の小早川瑞樹になるのだろうが、瑞樹にこんな仕事を任せるのは問題がある。あれはアイドルとしては、星井美希と似たようなタイプだ。なにより、自尊心だけを杖にして立っている人間に、全体のまとめと調整なんてできると思えない。小さな体を伸ばして、むきー、と切れる彼女が目に浮かぶようだった。「嘘ですよね」「え?」 否定。やよいが放ったのは、否定の言葉だった。 なにに対してなのか。そこにいた誰もが、やよいの真意をつかみきれずにいた。ただ、私の視界の端で、天海春香がわずかに臍を噛んだのだが見えた。「春香さん、嘘ついてます。これは、春香さんがやるべき仕事のはずです。だって、私のゲロゲロキッチンを勧めてくれたのは、春香さんじゃないですか」「ええ、そんなことはあったけど。それは私と関係あるのかしら。これはやよいに来た仕事でしょう。やよいに哀れまれる筋合いは、ひとつもないのよ」「だって、春香さんの夢はきっと――」 やよいの声音は、切迫していた。 おそらくは、彼女にとって譲れないものなのだろう。なにか春香とその番組には、因縁やそれに連なるようなものが隠されているのかもしれなかった。ただ、世間の定理はやよいの理で動いてはいない。そんな拙いような理屈が通るのなら、世界はとても単純なのだろうと思う。「やよい、それは――」「関係ない。天海春香にどんな事情があっても、お前が介入するような話じゃない。これはお前に来た仕事だ」「プロデューサー?」 やよいの掠れた声が、咽喉を鳴らした。「ところで、天海春香?」「ええ、気安く名前を呼ばないで」「そこは勘弁してくれ。さてさて、このたび、春香さんはとあるオーディションに出ることになりました。でも、同じプロダクションの、そのオーディションに参加するアイドルが、今回は絶対に受からなければならないという。理由を聞いてみると、これに受からないと親の死に目に会えないらしい。さて、お前はそのアイドルになにをする?」「質問の意味がわからないわ。そんなの、普通に叩き潰す以外になにができるの? 他人に気をつかって、自分の居場所を放棄するような無様な真似、私がするとでも?」 打てば響くような返しだった。 やよいが息を呑むのがわかった。春香の性格からして、やよいに気をつかって、自分の答えを変えることなんて絶対にない。「この答えを聞いて、答えを変えないのなら、俺はもうなにも言わない。やよい。仕事のオファーは来た。だから俺の仕事はここまでなんだ」「は、い」「選択を他人に委ねるな。自分で考えて、自分の中の熱意と誇りを天秤にかけて、自分で決めればいい。気に入らないなら断ればいい。その選択に嘘がないのなら、俺はお前の選択を尊重する。俺の言っていることは、わかるな?」「はい。すみません、プロデューサー。やります。やらせてください」 やよいの、前に進む力強い言葉に、ようやく。 黒衣の少女は、重い肩の荷をようやく下ろしたように見えた。 天海春香の表情が、ほんのわずかに和らいだのは、きっと見間違いではあるまい。彼女の背負ったものはなんなのかわからないが、どうやら春香はきっと、やよいのこの言葉が聞きたかったのだろう。 どうもしんみりしてしまう。事務所には静寂が戻って、あとはソファーで涎を垂らす美希の寝息だけが、穏やかに聞こえていた。