萩原雪歩は、さよならと一言告げて、観客席へと戻ってしまった。 私は、気落ちする真に別れを告げて、ひとまず控え室まで戻る。 問題はそのあとだった。 二回戦。 第二試合の結果が、発表される。 Aランクアイドルを失格、とするのは興行的に許されることではなかったらしい。失格でもステージ放棄でもなく、トゥルーホワイトは、三回戦進出を辞退した、という公式発表がなされた。 それは、あれだけの滅茶苦茶なステージを演じてなお、160対40+20でトゥルーホワイトが集計結果で上回ってしまったことを意味する。前向きに考えるのなら、三回戦で菊地真の新曲をもう一度聞きたい、というファンの声なき声なのだろう。 ファンにとって、Aランクアイドルが、どれほどの存在なのか、間接的に証明したことにもなるし、一回戦でトゥルーホワイトと当たった小早川瑞樹が、どれだけ善戦したのか(トゥルーホワイト150対小早川瑞樹50)を示す結果でもあった。 ともあれ。 これにより、律子率いるナナクサが、私たちサザンクロスに続き、三回戦へとコマを進めた。 そして、残る席はふたつ。 次は、二回戦第三試合。 相打つのは、ハニーキャッツととらじまー。 このふたりに与えられる席は、ひとつだけ。 そして、おそらくは、見られるのだろう。 ──ここで。 一回戦のステージは、相手が弱すぎて、披露できなかったとして。 プロデューサーの夢が。 私たちの夢と、これまで積み上げてきたものすべてを押しのけて、彼がつかもうと思ったものが。 おそらく、私の才能のすべてと、積み重ねてきた努力をすべてを賭けて、届かなかった領域の、その一端が。 観客席の、手すりをつかむ。 証明が消えているために、私の姿も目立たないだろう。ふと、一房、頭から飛び出た触角みたいな髪の毛が、ふるふると震えていた。 視線を下に落とす。「あらー?」 向こうも、こちらに気づいたらしい。 そこで、見慣れた姿が目に飛び込んできたため、自分の目を擦ってしまった。「あらあら。千早ちゃん。ひさしぶりねー」 今日は、本当に珍しい人に、よく会う日だった。 三浦あずさ。 元、『ギガス』プロダクションの歌姫。私の目標としているアイドルマスターのタイトルホルダー。「そういえば、千早ちゃんに伝えたいことがあって」「なん、ですか?」「あなたがいま教えている星井美希ちゃんは、金田城一郎の担当アイドルよ」「え?」 さらり、と、このひとはいつも突然に私の心をざわつかせる。 そうだ。決まっている。 この人が目の前に現れた理由。 なにか、大事なことを伝えにきたに決まっている。「美希ちゃんに悪意もなかったと思うし、ごまかしたとしたら、それは貴方を思ってのことだったはずよ。口止めされていたし、伝えようか悩んだけど、後でこじれるのも嫌だし、ここで伝えておくわね」「そう、そうですか。美希が」 一瞬、立ちくらむ。 思考が、一瞬だけ真っ白になった。「ショックかしら?」「いえ。本当は、思い当たることがいくつかあります。ステージの上での癖も、知っている人のものでしたし」 言うまでもない。 目の前の、あずささんが動きを仕込んだのだろう。指導者の癖のようなものは、どうしてもアイドルに反映されるし、見る人が見れば気づくほどの大きなものになってあらわれる。「だったら、彼女に塩を送るのはやめるべきじゃない? 美希ちゃんの味方としては、ほんとはこんなこと言うべきじゃないけれど」「美希は、後輩です。彼が、プロデュースをしているのなら、なおさらです。いまさら、態度を変える理由がありません」「ううん。そういう意味ではなくてね」 あずささんは、目線を窄めて、言いにくそうに口を開いた。「後輩に気を遣われるあなたが、とても惨めだから」 はたして、私は、今、どういう表情をしているんだろう。人に褒められはすれ、教師や弁護士、公務員などと比較すると、とても誇れるような仕事ではない。 それでも、プライドはある。 彼女が、わざわざ私に会いに来た、ということからして、嫌がらせをしにきたわけでもないのだろう。「そう、見えますか?」 空回り。 自分の中の車輪が、空転しているという感覚は、ある。「彼は、近いうちに、全盛期の如月千早以上のアイドルを、造り上げるはず。敵に塩を送っている間なんて、千早ちゃんにはないんじゃないかしら?」「いえ、多分、きっと美希のプロデュースを引き受けたのは、私自身のためです。いまの私自身に、自信がないから、せめて、私にできることをしようとおもったんです。足掻いている美希の背中を押してあげれば、私自身が、なにか掴めるかもしれないって」「それは、なんというか、とても後ろ向きな考えね。美希なんて軟体生物、蹴り倒しておけばへこんでも翌日には元に戻ってるってのに、とか伊織ちゃんなら言いそうだもの」「は、はぁ」 いまいちわからないが、私のやっていることは、やっぱり空回りらしい。「そんなことは、あなたの仕事ではないわね。そんなことは、引退した私のような人間の仕事よ。引退したロートルが、暇つぶしにやるようなことが、果たして今、千早ちゃんがやることかしら?」「そう、ですね。これは、逃げなのかもしれません」 でも。 なら、どうすればいい? さっき、あずささんの会話の中で、全盛期の私なら、という単語があった。彼女がそんな失言をするはずがない。意識的に会話のなかに滑り込ませたことは明らかだった。 全盛期というものが、プロデューサーがいたころの私だとするなら、『今』の私に、いったいなにが足りないのだろう?「わかりません。プロデューサーがいなくなって。ひとりでやっていくって決めて。それでも、失ったものが、なんなのか。私にはわからないんです」「千早ちゃん。それは」 あずささんの言葉が、そこで断ち切られる。 ハニーキャッツの、ステージがはじまった。観客は、まだざわめいている。A級アイドルの直後、という順番は、ほぼ最悪といっていい。 ひどいステージだった。 音をはずしている。歌の始まりから終わりまで、小さなミスと大きなミスは数え切れないほど。 それでも、怒濤のような音楽が、畳みかけられるように続いていく。高槻やよいがふわふわと歩いて、水瀬伊織がきらきらと繋いでいく。──歌。歌、なのだろうか、これは。 きらめくようなステージだった。 会場の熱気を誰よりも強く振りまいている。高槻やよいと水瀬伊織のふたりは、これまで登場した誰よりも楽しそうに、誰よりも熱く、元気そうに飛び跳ねている。『Do-dai』 普通の女の子が、普通に恋をする話。 殴りつけられるようなインパクトはないが、楽しさが、徐々にしみこんでいくようだった。 そして、直後のとらじまーのステージとあわせて、圧倒的な知覚情報に翻弄される一〇分が終わる。「なによぅあれはー。あんなの聞いてないのにー」 不覚にも、気づかなかった。 近くで、今のサザンクロスのプロデューサーである藪下さんが、手すりに垂れ下がって駄々をこねている。 ステージの結果は、ハニーキャッツ170+20対とらじまー30と、ハニーキャッツの圧勝で終わった。「なんなのよーあれはー。なんであーゆーステージを成立させちゃうのよ計算外よ計算外。誰が責任とりなさいよ」 藪下さんが、くきゃーと吼えていて、とてもうるさい。「あの、藪下さん?」「如月さん、なによあれ。なんでああなるの?」「はい。まったくわかりません。一見、際立ったところなんてないんですが、ステージ後に全体を思い返すと、いやに印象的で」 目立った差はない。 技術などは、圧倒的にとらじまーが上だった。「なによ。如月さん。そんなこともわからないの?」「ええと」 どうやら、藪下さんは理由がわかったうえでのた打ち回っていたらしい。 どっと、肩から力が抜けてしまう。この人と話すのは、どうしてこんなに疲れるんだろう。「まったく、ずっと疑問だったのよ。『あの』水瀬伊織が、あえて高槻やよいをパートナーに選んだのか。情で動かされるタイプじゃあなかったようにおもったし、それでも情をとって、足を引っ張られる結果になるなら、そこを突破口にしなければいけないとおもってたのにー。あー」 藪下さんは、自分の髪をわしゃわしゃとかきむしっていた。「なるほどね。たしかにこんなステージ。演じられるのは彼女だけね」「あの、彼女というのは」「高槻やよいのことよ。決まってるでしょう」「やよいちゃんは、特別な才能はほとんどないけど、ひとに愛される才能に特化してるものね」 あずささんが、話を繋いでくれる。初対面のはずのふたりが、儀式的に挨拶をかわすのを、私はなにをするでもなく見ていた。 人に愛される才能。 そんなものが、果たして存在するのか。 いや、違う。たしかに、目の前のアイドルマスターを冠する女性は、たしかにその才能を、存分に見せ付けていたようにおもう。「あれは、すごいアイドルね。みーたん(西園寺美神、ワークスプロダクション社長)ももったいないことしてるわね。あれを冷遇するって、どういう判断なのよ一体」「そうですよね。あんなステージ、全盛期の如月千早でも不可能だとおもいますし」「な」 困ったように、あずささんが眉を寄せている。 あてつけるような言葉だった。技術的に、なんら問題はない。あずささんがあえて、私の前でこんなことを言うとすれば、あのステージに、私の求めていた答えがある、ということだろうか?「それは、どういうことです?」「まず、会場はね。殺気立ってさえいた。原因は、Aランクアイドルの菊地真の騒動。引き起こされたアクシデント、菊地真の進出辞退という、納得のいかない裁定。けが人も出ていた。そんな殺気立ったステージで、千早ちゃんはどうするかしら?」「完璧な歌を歌います」 私の答えは、いつも変わらない。 ベストなパフォーマンスをすれば、観客は必ずわかってくれる。「ん-。そうよね。普通はそうなるわ。水の流れのように、会場の悪意は弱いほうへと流れていくから。そして、悪意の矛先をバトンリレーするみたいな感じかしら。悪意はやりすごせても、なくなりはしないから、アイドルたちで会場の悪意をレシーブし続けるみたいな」「悪意の、押し付け合いってことですね」「いままでの彼なら、如月千早と金田城一郎なら、そういうステージをしていた。でしょう?」「はい」 プロデューサーなら、嬉々としてやりそうだ。 技量次第で、回避可能なロシアンルーレットのようだった。目を閉じて、藪下さんが、あずささんの言葉を引き継ぐ。「でも、その悪意。高槻やよいが全部、ステージで吸収して全然別のものに変えてしまった。今のプラチナリーグで、そんな芸当が可能なアイドルは、Aランクにだって、ひとりもいない。いるとしたら、かつてのアイドルマスターぐらいね」 たったひとり。 私の目標とする、アイドルマスターの称号を受け継ぐ、ただひとりの女性。 なにを思っているのかわからない。そう、そうだ。いまさらながらに気づいた。 私は、さきほどのステージに、かつての三浦あずさの片鱗のようなものを感じたのだ。「彼女は、それほどなんですか?」「やよいちゃんはね。なんていうか、プロデューサーさんが、三十人ぐらいを集めて三時間ぶっつづけでレッスンをしたあとで、この三時間、一瞬たりとも、気を抜かずに胸を張って、指先まで神経を使って、踊れたやつはいるか? っていうと、やよいちゃんだけが普通にはいっ、って元気よく答えるのよね」 どこが、才能がない、だ。 そういうのを、本物の化け物というのではないのか? 二回戦第四試合も終わり。三回戦の抽選へと移る。 舞台のうえで、星井美希と水瀬伊織が、すでに火花を散らしている。まぶしさに、目がくらみそうだった。準決勝、セミファイナルの組み合わせは、あらかじめそう設定されていたように、すんなりと決まった。 準決勝第一試合。 ハニーキャッツ<Fランク> VS サザンクロス<Eランク>。 準決勝第二試合。 ナナクサ<Bランク> VS クララララス<Dランク> この準決勝まで勝ち上がってきた四ユニットのうち、それぞれ対戦する二ユニットの、どちらかがここで消えることになる。