「トゥルーホワイトが、負けた」 一万と三〇〇〇人の、魂の叫びが、会場を席巻している。 A級アイドルが歌うに相応しい会場である代々木第一体育館そのものに、ヒビが入るのではと思わせるほど激しく、菊地真は会場に圧力をかけている。 二回戦第三試合。 トゥルーホワイトのステージ。 『自転車』という曲。新曲だった。 真の声質に、良く合っていた。独特の疾走感のある曲。真が、第二回戦というところで、新曲を出すことになった経緯は、あらかじめ美希から聞いていた。 前々から思っていたが、真はステージの、タテの使い方が上手い。ヨコに広げるだけでなく、ステージの縦横感を上手く利用しているから、そのステージそのものに引き込まれるような感覚を覚えるのだろう。 他のA級アイドルの歌は、やはり刺激になる。躍動感で、曲を装飾する、そういう概念は、私のステージにはないものだ。 そして。 ひとつ躓いて、そのステージは突然、終幕を迎えてしまう。 違和感。 不協和音。 それに連なる、ノイズ。 張り詰めた糸。 その糸が、突然、なんの前触れもなく断ち切られる。菊地真の動きが、突然に乱れた。 否、止まった。ステージから観客席のある一点を見つめたまま、バックに流れる曲ももう耳に入らないように、彼女は、ステージのうえで、ただ立ち尽くしていた。 呆然とした真が、マイクを落とす。 スイッチの入ったままのマイクが、地面にたたきつけられて、くぐもった音を出す。 真は止まっていた。 幽霊でも目撃したように、目を見開いている。 太陽を直接浴びているように明るいステージからはなれて、照明が落ちたアリーナ席。菊地真の視線を追っていくと、彼女はそこにいた。 闇の中で、存在感を失わない、雪のように白い肌。 微動だにせず、菊地真の視線を、正面から見つめ返している。「──萩原、雪歩」 自分の口から漏れた名前が、信じられない。そう、思う。 ──奇跡。 果たして、奇跡というものが存在するのなら。 菊地真にとって、たしかにそれは奇跡に値するものだった。 観客席が、パニックになっていた。菊地真が、ステージと観客席の境界を割る。 迷路のような殺到する人ごみにあおられ、興奮した観客に爪をたてられて、菊地真の左頬に、赤い筋が走る。乱入してきた警備員が、数人がかりで、彼女を観客席から引きはがす。まだ抵抗していた。警備員を殴り倒して、まだ進もうとする真の前に、一人の大男が立ちふさがった。 担当プロデューサーである羽住社長が、真の心臓に剄を打ち込んだ。 ハートブレイクショットなのか、金剛なのか。そこまで暴力的なものではなかったが、真を一時的に行動不能にするだけの効果はあったらしい。「皆様に、ご迷惑をおかけして、本当に、申し訳ありません」 頭を下げる。 興奮していた観客たちが、水を打ったように静かになった。羽住社長の、ツキノワグマみたいな巨体が、体を丸めている。最大規模のプロダクションひとつを取りまとめているだけあって、観客は、皆、その威圧感に圧倒されてしまう。 けれど、投げ出されたステージは、元には戻らない。ただ、ステージでは照らし出すもののないスポットライトが、さびしげに光を放熱していた。 幽霊でも、幻でもなかった。 観葉植物が並び、グッズを売る物販店や、むやみに値段の高いコーヒーショップがある、人のいない一階席北スタンド、裏側ののソファー。そこに座って、萩原雪歩は、限りなく高い天井を見つめていた。「お久しぶりです。萩原さん」 嵐の後の静寂、とはいえないだろう。なにせ、彼女はなにもしていない。近づく私に対して、たしかに私の全身を視界におさめて、それを予測していたようなそぶりもなく、ただ普通に、自然に、萩原さんは笑みを浮かべた、のだと思う。「お久しぶりです。如月千早さん」 透明感のある声だった。 それだけは、変わらない。 あれから、ずっと。 果たして、彼女は『こう』だっただろうか? ほんの一瞬で溶けて消えてしまう雪のような儚さをそのままに、最高級のビスクドールなど足もとにも及ばない肌のきめ細やかさが、独特の凄絶なまでの美貌をかたちづくっている。「お姫様、みたい」 王子様とお姫様のステージ。 全盛期のトゥルーホワイトは、本当にすごかった。本来ならば、Aランク一位の座は、彼女たちのものだったはずなのに。 菊地真のステージを、あれだけ派手にぶち壊しておいて、なんの負い目も感じてはいないようだった。たしかに、彼女は手を下していない。それでも、自らがトリガーになったという自覚がないはずはない。 私が知っているころの彼女ならば、ふるえて、泣き出してしまっているだろう。彼女が、プラチナリーグに籍を置いていたのは、ほんの二ヶ月足らず。 なにが、あったのか。 それから先のことを、私は知らない。 萩原雪歩。菊地真。秋月律子。この三人は、ブルーラインプロダクションの、同期だったと聞いている。 萩原雪歩がいなくなったあと、菊地真はブルーラインプロダクションを辞め、一度は演劇や舞台に身を投じようとしたらしい。 そこから、彼女を拾い上げたのが、エッジプロダクションの羽住社長。菊地真のファンならば、誰でも知っているぐらいの、有名な話。 逆に言うならば、これ以上のことは、誰の口からも語られていない。「真に、会いに来たの? 入れないというのなら、手を貸すわ。更衣室まで、連れて行ってあげることもできる」「いいえ。パスは持っているんですよ。律子さんからいただきました」 ──秋月律子。 彼女の差し金らしい。半分ぐらい、予測できていたことではあった。菊地真が崩れて、一番都合のいいのは、ナナクサのプロデューサーである彼女である。 ただ。 秋月律子は。 ここまで手段を選ばない子だっただろうか? 合理的な娘ではあったが、菊池真と萩原雪歩に対して、なにかそれ以外の感情があるのではと思ってしまう。そう対戦相手としての敵意ではなく、たとえるならば黒く粘つく呪いのような。「真ちゃん。久しぶり」「雪歩?」 菊地真が、絶句していた。 幻ではなく、本物の彼女がそこにいた。「雪歩。うん。よく戻ってきてくれた」 警備員にパスを見せて、控え室に入ってすぐに、萩原雪歩は菊地真に抱きしめられていた。 くしゃくしゃに表情を歪める真に対して、萩原さんの反応は薄い。抱きしめられるのを拒絶するまではいかないが、なにか、彼女の瞳には光がない。 ──胸が痛い。 動悸が強まっていく。 なぜか、今の萩原さんに、私に別れを告げたプロデューサーの姿が重なる。不吉だった。知らず、声を荒げたくなる。ううん、そんなことをしても、待ち受ける結末が、変わるわけでもないのに。「大丈夫。戻ってくれば、すぐにそのまま始められるようになってる。師匠も認めてくれているし、雪歩がいれば、ボクは誰にも負ける気はしない。ボクは、ずっと、雪歩の帰りを待っていた」 真は、無垢な笑みを貼り付けながら、そういった。その表情の下に、どれだけの渦巻く感情を溜め込んでいるのか、私には想像することしかできない。 今までなにをしていたのか。あのとき、どうしてなにも言わずに消えてしまったのか。ううん、そんなことはいい。できるなら、もう一度、いっしょにユニットを組みたい。でも、断られたら? 断られたら? 断られたら? ──もし、断られたら? 見ると、菊地真の体は小刻みに震えていた。つっかえず、言えたのは、あらかじめ、その台詞を用意していたからなのだろう。こういう場面を想定して、ずっと心のなかで繰り返し続けてきたことは、彼女の様子を見ればわかる。 ──だから。「あはは。真ちゃん。なに、それ?」 萩原さんのその返答も、半ば予測できていたもののはずだった。 その問いは、これ以上なく深く、菊地真の心臓を抉った。 その言葉に、悪意があったかはわからない。しかし、人を傷つける言葉があるとして、今の台詞はそのなかでも、最上位に近い。「あのね。真ちゃん」 穏やかな声だった。 やさしげな声にすら聞こえる。まるで、たった今、修羅場を演じているとはとても思えない。「私、真ちゃんに隠していることがあるの」「う、うん」「そして、それは真ちゃんには言えないし、私ひとりが抱え込んで、付き合っていくしかないの」「雪歩。それ、ボクにできることは?」「なにもないかな。だから、ごめんなさい。あのとき、逃げ出してごめんなさい。こんな私を、もう一度、誘ってくれて、涙が出そうなほどうれしいです。きっと、私は真ちゃんと同じで、真ちゃんがずっと考えてきたように、この言葉を伝えなきゃいけなかった」 わずかに、萩原さんの声に、感情の色が混じる。「でも、私は逃げ出したの。私が弱かったの。私がね、──全部、悪いの。結局、いままでかかっちゃった。 だから、ごめんなさい。私はもう、真ちゃんと同じステージには立てません」 萩原さんには、強い決意の表情があった。「ごめんね。真ちゃん。──でも、それでもほんのひとときでも、真ちゃんと同じ夢を見られて、しあわせでした」 だから、と。 蒼白になっている真に、萩原さんは最後の別れを告げた。「ふたりのトゥルーホワイトは、これで本当に終わり。だから、私のことは、はやく忘れたほうがいいよ」