「ううっ、千早さん。そんなに入らないよ」「美希。情けないことを言わないの。これぐらいは入れてもらわないと」 私と千早さんがいるのは、狭い個室だった。 完全に防音が施されていて、中の物音は一切外にとどかない。まともな照明なんてなくて、目に映るのは最低限の明かりだけ。「やー。強引なの、千早さん」「ほら、手伝ってあげるから」「もうだめー。ミキ、壊れちゃうーっ!!」 私の抵抗は、ぜんぜん無駄だった。 すぐに、取り押さえられてしまう。 そのまま千早さんが私の大事なものに手を伸ばして── ──ぴっ、と。 千早さんが、手元の端末(電子目次本)に指を這わせて、そのままを曲を予約していく。テレビ画面には、すでに三十曲先まで歌の予約が埋まっていた。 言うまでもなく、ぜんぶ歌う気らしい。すでに五時間経っているのに、千早さんの暴走はとどまるところを知らなかった。カラオケは好きだけど、歌うのは好きだけど、ミキ、さすがにこれはどうかと思うの。 テレビのモニターに、カラオケの『サウンドラブ』っていう会員制サービスが映っている。 千早さんから説明されたところでちょっと言うと、会員登録することでお気に入りの歌を二〇〇曲まで保存しておいて、すぐに呼び出せたり、フレンド登録するとそのヒトがいつなにを歌ったかとか、そのときの得点は何点だったか、とかを見ることができるって、そんなサービスみたい。 これに登録しておくと、歌った曲に順位がついて、それがあっという間に全国ランキングに残るんだって。千早さん、歌った曲歌った曲で、きっちり一位を獲得しているあたりがすごい。 はじめは百位とかでも、二、三度ぐらい歌ううちに、ガンガン順位をあげていって、簡単に一ケタをとってしまう。人気のある曲だと、五万人ぐらいライバルがいるはずなんだけど。 おにーさんが、如月千早が別格だといっていた意味が、やっと身に染みていた。夜明けから五時間。ぶっとおしで歌い続けて、千早さんは疲れるそぶりすら見せていない。その前はスポーツジムに行って、ああうん、もちろんそこまで10kmぐらい走って、それから腹筋と有酸素動をできるだけやってだよ。千早さん、腹筋割れてた。すごいを通り越している。それどころか、どんどん元気を増しているようにすら思える。テンションゲージはマックスを振り切って、フィーバー状態をずっと維持しているみたい。 ──千早さんを、少しだけ理解できたと思ったのは、まったくの勘違いだった。 如月千早という人間が、まったく理解できない。 今まで見てきた、アイドルの誰とも違う。 パフェを目の前にした子供みたい。 そう、いままで抱いていたイメージと、ぜんぜん違う。 子供みたいだった。歌に飛びつくというか、よだれを垂らしているみたいで、むしろ歌う前より肌がツヤツヤとしていた。 クールなイメージなんて、どこかに飛んでいって、ミキの目から見ても危なっかしいのかな。なんというか、おにーさんが、ことあるごとに複雑な顔で千早さんのことを語っていた理由が、ちょっとだけわかった気がする。「すごくいいわ。最高よ!! 誰かといっしょに歌うって、ひとりとはまた刺激があるわね。軽く流す意味で、さらにあと二十曲ほど行ってみましょうか」「千早さん。それ、本気で言ってるから、恐いって思うの」 のへー、っとソファーに寝そべりながら声を絞りあげる。 もう、カラオケの前のトレーニングを合わせると、すでに十時間を突破している。 あんまり考えたくないけど、プラス二十曲というのは、予約した三十曲とはまた別計算ってことだよね。 めまいがする。 気が遠くなってきた。 ちかちかと、瞼の裏で白い光が明滅していた。 あふぅ、ミキ、ここで死んじゃうのかも。「それはそれとして、美希。あなた、まったくの素人だっていっていたけど、どこかでレッスンでも受けていたの? あなたのそれは、きちんと訓練されたような動きよ。だれに習ったの?」「だれにって言われると、ミハエル先生かな? ミキ、すごくソンケーしてて、いつかあんな風になれたらなって思ってるの」 あずさから教わった、なんて言ったらマズいよね。やっぱり。 いいや。 細かいことは考えなくても。 ミハエル先生(近所の猫、2-2参照)を尊敬してるのはホントだし。あんな風に一日中ゴロゴロできる生活って、憧れだよね。「そう。ミハエル先生。外国人のトレーニングコーチなんて、いい環境で練習していたのね」 千早さんは千早さんで、ちゃんと納得してくれたようだった。 おでこちゃんがここにいたら、『話が噛み合わないにもほどがあるわね』とか頭を抱えるところなんじゃないかな。 「名残惜しいけれど、歌はここまでにしましょう。ドリームフェスタ本戦は、もう明日よ。これからは、本戦の対策を練りましょう。喉は酷使できないけれど、頭はいくらでも働かせられるわ」「といわれても、ミキ、ドリームフェスタってどういう大会なのか知らないよ?」「あなた、オーディションや大会に出たことはないのね?」「うん」「ドリームフェスタについて、聞いていることは?」「すごく大きな大会だってことぐらい、かな?」 千早さんは、顎に手を当てて、考え込んだみたいだった。 多分、言うべきことをきっちり整理したあとで、「ドリームフェスタの、出場可能ランクは、AからFまでの全ランク。異例の大会なのよ。プラチナリーグでは、同ランク以外の対戦は、まず実現しないんだけどね」「どういうこと?」「同じランク以外での対戦が許されるということはつまり、Fランクアイドルに参加資格が与えられている大会の中で、最大規模ということよ。年に一度しか開催されないこともあって、参加者も相当数に昇るわ。去年は、参加者が600を超えたんじゃなかったかしら」「そんなに、すごい大会なんだ?」「予選はAからCまで、三つのブロックに分かれて予選が行われるわ。あなたが出場したのは、Cブロックだったわね」「うん」「たしか、A、B、Cでそれぞれ課題が違うはずよ。まあ、終わったことはさて置いて本戦のことだけど──」「ミキは、参加できるのかな?」 私の質問に、千早さんは横に置いていたパンフを取り出した。それには、ドリームフェスタの参加要項が書かれているみたい。「──場合によってはね。本戦は、A、B、Cのトーナメント式よ。各ブロック上位20ユニットと、特別招待選手、その枠が4つ。だから、64ユニットが本戦に進める計算になるわ。ただし、当然だけど、エントリーはすでに終わっているわね」「じゃあ、無理なんじゃ」「でも、同じステージに立つだけなら、できるかもしれないわ。本戦は、フリー演技。出し物は自由。歌でも手品でも踊りのみでも漫才でも、アイドルという枠から外れていなければなんでもあり。演出とバックダンサーの規定もないから、助っ人という意味では、ステージに立つことはできる」「千早さん。それ、一緒に戦っているっていえるかな?」「それは、ユニットとして?」「──うん」「……これはあくまでも私の考えだけど──いえないと思うわ」「うん。そっか」 私は天井を見上げた。 水色を薄くのばした空なんか見えずに、暗い室内に、備え付けのミラーボールがわずかな光を乱反射している。 星には、手が届かない。 ミキは、同じところをぐるぐる廻ってばかりで、なにかを掴もうとさえしてこなかった。こんなのでぐじぐじ悩んでいるのも、きっと贅沢だ。 行動しなきゃ。 なんでもいい。なにかを掴まなきゃ。 「美希。あなたには、待っててくれる人がいるんでしょう?」「そうだね。でも、ミキはね。もう、ふたりには頼らない」「え?」 疑問符。 千早さんが、こちらの表情の変化を伺おうとしていた。 だから、私はそれに答えを示す。「プラチナリーグって、ひとりでも、出れるんだよね」「……ええ、それは問題ないけど。まさか。美希、あなた──?」 無謀──そんなことは、自分でもわかっている。 これは試練だ。 与えられているものを、ただ受け取っているだけだと、いつまでもなにも変わらない。そういうこと、なんだと思う。 「だったら、ミキひとりで証明しなきゃ。おでこちゃんとやよいの隣にいてもいいんだって、まずはそれを認めさせなきゃ。このままじゃ、ミキ。一歩も進めないと思う」 千早さんは、なにも言わずに私の言葉の続きを待っている。「ミキは、もう逃げない。途中で投げ出したりしない。最後までやる。ホントのアイドル、目指してみる。でも──今のままじゃだめ。ふたりに甘えたままじゃだめ。ひとりで優勝する。やれるところまでやってみる。それをやらないと、いまのままじゃあ、きっとふたりに並べないから」「そう。詳しい事情はわからないけれど、それだけ決心が固いのなら、止めても無駄でしょうね。それで、どうするの? 予選はもう終わっている。推薦枠も、おそらく残っていないでしょう」「むー」 私は、チャッと、内ポケットから、携帯電話を取り出した。 「ねえ、千早さん。その推薦枠って、どうやればもらえるの?」「……推薦枠っていうのは、つまり有名なアイドルを呼ぶためのものだから、四大プロダクションにひとつずつ枠が与えられているはずよ。あなたのところだと、『ワークス』の誰かに頼み込めば、もらえる、のかしら。よくわからないけれど──」「わかった」 前にもらった西園寺社長の名刺(金ピカのやつ)を取り出す。名刺に走り書きされた携帯の電話番号をダイヤルする。とりあえず、ダメだったら、ダメだった時のこと。「あ、もしもし──社長さんなの? ミキだよ。元気にしてた」「…………ああ、星井さん。どうしたの。アイドル、やる気になったとか?」 事情を話す。 西園寺社長は、その間、一言も喋らないで、聞いてくれていた。「そうね。そっちに、幸恵を向かわせるわ。詳しくは、彼女と相談してくれる?」「幸恵さんって、副社長の女の人だよね。そのひとに頼めばいいの?」「いいえ。推薦枠の持ち主は、幸恵がプロデュースしているから」「それって──」「そういうこと。推薦枠の持ち主は、彼女がプロデュースしている──」「いいですよ。どうせ使いませんし」「ホント? 美心。ありがとなの?」 快諾。 Cブロックの予選を、圧倒的な大差をつけて勝ち進んだ少女は、あっさりとそんなことを言っていた。 思った以上にカルい。 なにか、裏があるのかな、と勘ぐりたくなるぐらい。「っていうか、美心は、推薦枠があるのに、予選にでてたの?」「ええ、ああいう大勢の目の前で歌う機会なんて、そうありませんから。むしろ、予選だけで、本戦は辞退しようかと思ったぐらいです」 さらっと──美心は、そんなことを言った。 ううん、と。 この子、すごいこと言ってるのかな、もしかして。 おでこちゃんじゃなくても、地味という印象を持つんだろう。とりたてて光り輝くようなところがあるわけじゃあない。真面目そうな、ただそれだけの少女に見えるけど、いまいち彼女のことがわからない。 「美心ー。あなたどうして、そう後ろ向きに前向きなのー」 後ろでスーツ姿の女の人が、だくだくと滝のような涙を流していた。 藪下幸恵さん。23歳らしい。おにーさんと同じ役職で、『ワークス』の副社長も兼ねている。「──ただ、星井さん。推薦枠を譲り渡す条件というわけではないけど、あなたにひとつお願いをしていいかしら」「なに──?」 藪下さんの真剣な目を正面から覗き込む。 彼女の言いそうなことは想像がついた。案の定といえばいいのか、口に出された頼みは、想像したことと、ほぼ同じ。 どのみち、推薦枠だけでは足りない。 おでこちゃんに、やよいと戦うには、ミキを輝かせてくれる、一流のプロデューサーが必要なんだ。 ──こういうのを、わたりにふねっていうんだよね、きっと。「──美心と、ユニットを組んでくれないかしら?」