「あれれれれ。辛気くさい空気ね。君たちもうちょっとハジけられないの?」 なんとも切れの悪い結果に沈むなか、ひとりだけ脳天気な声が割り込んできた。「いや、あなたは勝ったからいいでしょうけどね。空気読んでくださいよ」「やーね。私と君の関係じゃない。身体を重ねたこともあるふたりに、そんな枕詞はいらないでしょ」 笑うのは、佐野美心。 ──ではない。 前屈みに身体をくねらせる藪下さんに、俺は右手で頭を掻いた。「ええと、おふたりはそういう関係なんですか?」「いや、なかった。なにもなかった。断じて、なにもなかった」「あー、この子が君の担当アイドルだね。うりうりうりうり」「ひ、ひぅっ」 藪下さんが、天下の往来で、やよいの胸を揉みしだいている。スーツ姿の背の高い女性だからこそ絵になることだが。俺がやったら犯罪だった。というか、この人のセクハラ癖は相変わらずか。「というわけで、──こういう人なんだ」 佐野美心の印象が薄い理由のひとつに、この人のキャラの濃さがあった。 藪下幸恵。 23歳。 俺と同格の、ワークスプロダクションの、総合総指揮者(エグゼティブプロデューサー)。 西園寺美神の右腕であり、その格としては、A級プロデューサーとなんの遜色もない。 俺がワークスプロダクションで、自由に動けるのも、この人がきちんと会社を動かしているからである。 それで、その担当アイドルの方は──「プロデューサー。なに遊んでるんですか」 和服だった。 正統派の和服美人といった感じである。 なるほど。鮮やかな和服と合わせれば、地味な立ち振る舞いにも、艶が見えてくる。 エース曲の、「女二人の港町」も、大多数のアイドルに興味のない人々を狙い打つのに、明らかに適していた。 あらかじめ調べた情報によると、彼女は老人ホームなどの慰問コンサートなどをメインに活動しているようだった。 なら。 商店街のアイドルである、高槻やよいの対極といえるのかもしれない。 やよいとは、全く客層が違う。 やよいの支持層は主婦やおじさんが多かったが、美心のそれはもっと上の老人たちが多い。 なにより、美心はこの課題を、心から楽しんでいるようだった。 嫌みでもなんでもなく、彼女にとっては、このクラスの仕事が、自分自身にとって、本当に輝ける場所なのだと確信しているように。「もうちょっとで考査なのね。私のプロデューサーとしてのランクがBかCかで、ボーナスが全然違ってくるのよ。この子もがんばり次第で、私の車のローン計画が大幅に変更されるわ。ああもう、美心ならプラチナムポイントを荒稼ぎできるのに」 あやまれ、私にあやまれ、と、藪下さんは美心の頭を振り回していた。「──まあ、あそこはほっておいて、美希。いつまでそうやってめげてるつもりだ?」 挫折。 とでもいうか。 伊織とやよいを使って、俺がやろうとしたことを、美心がやってくれた形になる。「あの、美希さん。美希さんさえよければ、私たちといっしょにドリームフェスタに出ませんか? 美希さんも、このままで終われないでしょうし」 やよいの言葉に、美希が、ぴくりと反応する。「………いいの?」「もちろんです。ね、伊織ちゃんもいいよね」「………………」 伊織は、腕組みしたまま、なにも答えない。「負け犬の目ね」 やがて、伊織が呟いたのは、そんな言葉だった。「え、えと、伊織ちゃん? 負けたのは仕方ないけど、今度は勝つためにユニットを組もうって言ってるんだけど……」 とりなそうとするやよいを、伊織は一蹴した。「やよいの言ってることはわかるわよ。それはいいことだと思うわよ。本当にそうなら、諸手をあげて歓迎するわ。別に、私は美希とユニットを組むのに文句があるわけじゃないし」「……伊織ちゃん?」「……おでこ、ちゃん?」「私が言いたいのは──」「私は、コイツが信頼できないのよっ!!」 伊織の覇気に、美希の背筋がびくっとなった。「私たちはね、そろそろ後戻りなんてできないところにいる。あとは、Aランクを目指すか、夢破れて散るかのどちらかよ。 戦って、夢が破れるならそれは仕方ない。 でも── どんな無様を晒そうが。 どんな絶望を抱え込んでも。 一歩、踏み出したのなら、『飽きた』とか、『もうやめる』なんて言葉は言わせない。 後ろなんて振り向かせない。わめこうが、泣こうが、地獄の先まで付き合って貰うわ」 伊織は、言いたいことを言い終えると、財布から電話番号の書かれた名刺を渡す。「覚悟が決まったら、連絡しなさい。 本戦までは、三日あるから、ぎりぎりまで待つわ。最後の一秒まで待ってる。アンタとは反りが合わないけど、不思議と、三人でなら今まで見たことのない景色が見れる気がするからね。 プロデューサー。なにか付け足すこととかある?」「いや、俺の台詞を取るな、というぐらいか。とりあえずは。ああ、言い忘れてた。 今日は、ここで現地解散だ。家は近いしな」 最後に、やよいがうつむく美希の両手を掴む。「あの、美希さん。なんていうか、上手くいえないですけど──三人で歌って踊れたら、そして──それでファンのみんなを笑顔にできたら、それってすごく楽しいと思います。 ──だから。 ええと、自分の気持ちを、誤魔化さないでください」 がんばる。 がんばるって、どうするんだろう?『がんばらなくていいんだよ』『美希はかわいいんだから』『美希ちゃん。そんなことは僕がやるよ』『また美希ちゃんが一番だって。仕方ないわよ。あの子、トクベツだもん』 歩く。 竹取川にかかる環状大橋を横目に、ひとりっきりで、帰り道を歩いていた。 胸の奥に、こみあげてくるものがあった。 吐き出さなければ、どうにかなりそうだった。 うん。 ミキなら、こんな時にやることはひとつ。 そうだっけ。 なら、叫んじゃえ──「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!」 撃ちこまれた呪いの言葉をすべて押し流す。 川縁の水たまりに、波紋がわきたつ。 おでこちゃんの言ったとおりに、覚悟を決める。不満なんてない。いままで14年生きてきて、不満なんてなかった。 家族もみんな仲良しで、ミキの言うことはなんでも聞いてくれて、友達だっていっぱいいて、きっと足りないものはなにもない。 なのに。 どうして、 私はいつまでも、自分を好きになれないんだろう? そして、考える。 このままでいい? このままやよいと伊織の好意に甘えて、それだけでいいの? このまま、負け犬のままで、ミキ自身、胸を張れる? プロデューサーに。 律子に。 真くんに。 まっすぐに向き合える? 胸がドキドキしていた。心臓が早鐘を打っている。はじめて学校をサボった日の気持ちは、きっとこういうものなんだろう。 ゆっくりと成長していこう。歩くような速さでいい。学んで、遊んで、悩んで、それから。「どうしよう──?」 決まってる。 特訓だ。 じゃあ、誰に頼むのか。 心当たりのある知り合いなんて、ほとんどいない。 あずさは、当然おでこちゃんと、伊織のコーチがあるだろうし。 うーん、と悩む。 そして、しばらくあとに携帯を取り出して、心当たりがあるメモリーに、電話をかける。「あ、安原さん? ミキだよ。コーチを紹介してほしいの」『いきなりご挨拶だね。さっき、負けたのが、そんなのこたえたのかい?」「あ、商店街にいたんだ?」「まあね。ちょっと待ってくれる? ちょうどいいのがいるから、すぐに行くよ。場所は?」 安原蛍。 無駄に色っぽいギガスプロダクションの常駐医兼、臨時の引率責任者は、そう言った。 そして──「安原さん。この子、知り合いですか?」「そうだよ。アンタ、後輩を育てたいのに、誰も大成しないって嘆いてたじゃないか。 潰れても構わないから、ちょっと揉んでやってくれないか? まあ、別のプロダクションだけどね」「それは、構いませんが」 スポーツカーから降りてきたのは、キレイな女の人だった。 感情を封じ込めるようにサングラスをかけて、凛とした雰囲気を漂わせている。 ぶるっ、って体の芯がふるえる感じがした。向き合っているだけで、針で刺されたようなちくちくとした感覚がある。 こんなのは、前にもあった。 天海春香と、対面したときのような。 全身すべてがひとつの方向性に絞り上げられたような、人から注目を集めることを宿命付けられた人。 私は、手を差し出した。 「よろしくお願いします。ミキは、星井美希。アイドルを目指してるの」「そう」 落ち着いた声だった。 差し出した手を握って。その女の人は私よりほんのすこしだけ背が高い。風がその女の人から私の方に吹き抜けている。オレンジの夕焼けが逆光になって、いまいる世界を茜色に染め抜いていた。「星井、美希。美希ね。 はじめまして。──私は如月千早。すべての頂点(アイドルマスター)を目指しているわ」