いくら菊池真の熱狂的なファンでも、萩原雪歩の名前を知っているものはそうはいない。真がFランクのころ。アイドルの駆け出しの駆け出しのときに、わずかにユニットを組んだ程度。 それでも。 彼女たちの絶頂期は、あの頃だったのだと今でも断言できる。そして、Aランクに上がった今も、アイドルとしての名声と立場を固めた今でも、菊池真は萩原雪歩のために、いつでも戻ってこれるように──今でも『トゥルーホワイト』のユニット名を掲げているはずだった。 私は、それを知っている。 知っているのだ。 たとえ、萩原雪歩がプラチナリーグから姿を消したとしても、真はずっと待ち続けているということを。「真。どういうことかしら? なんのことか、わからないけど」「律子。ボクの目が節穴だとでも思うのか? 『YUKINO』の歌を聴けばわかる」 真の手に、力がこもった。 テーブルがそのまま砕けるかと疑うほど。 そして、真の、鼓膜を突き破るような怒声。「あれは、雪歩の歌だ。ボクが、よりにもよって雪歩の声を間違えるわけないだろっ!!」「………………」「教えてくれ。律子。あれは、雪歩なんだろう?」「……たとえ、真の言うとおりだとして、私が、どうしてあなたにそれを教えなければならないの?」「りつこぉっ!!」「真。まずは、落ち着け。そんな剣幕で話しかけられたら、そもそも話し合いにもならん」「……師匠(せんせい)。ですが」 激昂する真を押しとどめたのは、私と同じテーブルについている羽住社長だった。こほん、と咳払いしたあとで、真の話を引き次ぐ。 「互いに敵同士という立場もあるだろう。しかし、秋月くん。かつて三人は同じプロダクションにいたと聞いている。せめて、あれが萩原くんかどうか、それだけでも教えてくれないだろうか?」「──お断りします。貴方たちも知っての通り、『YUKINO』の魅力はその秘匿性にあります。その正体が漏れただけで、『ブルーライン』プロダクションの興亡が決まりますから。 『彼女』について、なにひとつ語ることはありません。組織のトップとしての羽住社長なら、お分かりいただけますよね?」 ふむ。 と、羽住社長は考え込む。 私の礼のない物言いにも怒ることはなかった。そこは、年頃の娘を数多く預かっているからこそ。 羽住社長は、むしろ自分を大家族の家長として、自らを位置づけているようだった。 「──が、それじゃあまとまらないだろう」 割り込んできた金田プロデューサー。 こちらは、あまり礼儀を気にしていないようだった。成人式に出る前の年齢から、アイドルプロデュースに携わっている彼という前例があるからこそ、18歳という年齢で、私がアイドルのプロデューサーという役職につくことができた。 そういう意味では、私の人生を決めた人、ともいえる。 そのまま、ちょいちょいと横を指し示す。 星井美希のきつい視線が、まっすぐに私を射貫いていた。一級品の、曇りのない敵意。濡れた剃刀のようなそれは、美しいという形容詞以外が不要に思えるほどだった。「心配するな。俺は他人の喧嘩に割り込むのが大好きだ」「誰も、そんなこと聞いてないんだけど」 食えない男。思わず、素で返してしまう。「喧嘩もなにも、条件が折り合わない以上、喧嘩にすらなりそうもないでしょう」「そうだな。そっちの言い分はわかった。だから──ある程度、こちらの手の内を見せてやるよ。それで、対等だろう?」「私は──」「そっちに選択権をやろう。なに、正体を教えろっていうんじゃない。こっちが切ったカードに対して、自分でそれに見合うだけの対価を提供してくれればいい」「………………」 断れる、雰囲気じゃあない。「わかった。ボクは新曲を出す」「なっ!!」 ちょっと、待って。 菊池真の一言が、ざわ──と空気を硬化させた。 Aランクアイドルの、新曲。 そのワンフレーズだけで、数万人を訴求できる。それを──こんな場面で? 「たしかにその通りだと思う。まずは、言い寄った方がそれに見合うリスクを背負うのは当然だからね」 私の、その秘密なんかとまるで釣り合わない。 肉を斬らして──どころじゃない。 費用対効果を考えれば、暴挙以外の何者でもない。どれほど上手くいっても、得られるものはなにもない。骨を晒して、皮を削ぐ程度の効果しか得られないことは、真自身が一番よくわかっているだろう。 考えるまでもない。 ──本気なのだ。 間違いなく。「おお、大事になってきたな、 燃え上がれー、燃え上がれー、燃え上がれー、と金田プロデューサーは、諸手をあげて火種を煽っていた。「羽住社長は、なにか?」「やむを得まい。今回は真の好きにさせてみよう」 揺るぎもしていない。風雨にしっかりと根を張る巨木のようだった。 ああ──そもそも、この人、こういうのは嫌いじゃないはずなのだ。「それで、真のほうはいいとして、美希をどうするの?」 なにを怒っているのか知らないが、真との交渉が纏まったからといって、美希が引くとは思えない。「それに関しては、そうだな。こんなのはどうだ?」 彼は、背もたれに押しつけた背中を起こした。 美希はアイドル。 私はプロデューサー。 勝負もなにも、前提が成り立っていない。 つまり──勝負など成り立つはずもない。「プラチナリーグの公式戦で勝敗を決めてみるか。俺は自分のチームを、そっちは『ブルーライン』のアイドルを使うのが妥当だろうな。普段は同ランク同士でしかマッチング出来ないが、近く、無差別級の大会(ドリームフェスタ)があったろ」「──ああ。たしかに」 ドリームフェスタ。 AランクからFランクまで、参加自由。 すべてのアイドルが同じ立場で、同じ課題に挑戦する。 プラチナリーグでは、同ランク同士以外で対戦が実現することはまずない。(なぜかというと、エンターテイメントは金がかかるから。見せるべき対戦は絞らないといけない) 普段見られないドリームマッチが見られるとして、コアな人気を誇っていた。そのドリームフェスタは、都合三回目を迎えるはずだった。第一回と第二回では、Aランクアイドルの参加はなかった(単独で客を呼べるAランクアイドルにとって、あまり旨みのあるイベントではない) よって、今回の菊池真の参戦は、かなりの起爆剤になるはずだった。「私は、『七草(ナナクサ)』を。あなたは、『星井美希』を使う、ということですね」「いや?」 あっさりと否定される。「同じようなことは、前回やったからもういいや」「………………」 腰砕けになった。 この人は。 もしかして、こんなことばっかりやっているのだろうか?「そもそも、賭けとか最近うるさくなってな、おおっぴらにやったらプロデューサーの資格が剥奪される。公式戦ではやれないから、予選でにしよう。プラチナムポイントが絡まないのなら、誰も文句は出せないはずだ。 勝負の方法は。 ──予選のトップ二十位までのランキング予想をする。二十位までに入るであろう、アイドルの名前を紙に書いて、終了後に開封する。それで単純に、予想が近いほうが勝ちってのは、どうだ?」「それは、運任せの要素が多すぎるのでは?」 意図がわからない。 「俺とお前なら、出場者リストを見れば、二十人中、十五人ぐらいまでは当てられるだろう。順位さえ、気にしなければな」「ええ──それはまあ」 順当に、実力の高いものが勝ち残る。 人気と実力は比例しないが、人気と順位は比例する。それを読み切ることは、そう難しくはない。「けど。最後は運だ。なら──互いの手駒を使って、運の要素を削ぎ落とせるとは思わないか?」「あ──」 そうか。 むしろ逆なのだ。 自分が担当しているアイドルの順位など予想できて当たり前。順位の予想なら、敵側が何位に食い込むかを想像出来なければならない。 それから── 話し合いで、細部を、詰めていく。 その場は、それでお開きになった。「やよい。伊織。今までの話は聞いてたな」「──ええ」「──はい」 俺は隣のテーブルで、かき氷と格闘している二人に話しかけた。この状況にまったく動じていない、 またいつものことか、ぐらいだった。随分と肝が据わってきていた。最初は、拾いものぐらいにしか考えていなかったんだがなぁ。「それで、ドリームフェスタの予選だが、今年は────ってな具合になるはずだ。ふたりとも、やれるな?」 困惑。 今の二人の感情は、それ以外なかった。 かき氷のかき込む手を止めて、二人の時間が止まっていた。ぱちくりと瞬きを数度。その後で、やよいと伊織は、互いに顔を見合わせた。「どうした。なにか問題でもあるか?」 俺の言葉に、やよいは、遠慮がちに聞き返す。「えと、でも──それでいいんですか?」「そうね。おかしいわよ」 やよいと伊織がこちらに食いかかってくる。 意図が掴めない。 特に、お前らに不都合はひとつもないように組み立てたはずだが、なにか問題でもあるのか、と。 問題はない。 でも、と── その質問に。「「それだと──」」 ふたりの声が、重ねられた。「私が、勝っちゃうじゃないですか」「私の、独壇場じゃない」 こいつら、こんなにあつかましかったか? そんな疑問を殺して、俺は続けた。「それだけ言えるなら、大丈夫だな。舞台は整えた。あとは、任せたぞ」 俺は、そのあとで、なんでもないことのように、続けた。「──星井美希を、叩き潰せ」