星井美希は、波にゆらゆらと流されていた。 たわわに生ったフルーツのようなバストが、海面から飛び出ている。 A級プロデューサー、金田城一郎直属のアイドル、それが、雑魚であるはずもない。如月千早ほどではないとしても、その素質は、容姿を見るだけで十分にうかがえる。 喉が渇いていた。 降り注ぐ熱に、体力を奪われている。彼女と私の対比は、まるでモーツァルトとサリエリそのままで、天才と凡人の差を、嫌というほどに見せつけられた。 もし── もし私に、美希の半分でも才能があったなら、私は今の立場に、もっと胸を張れていたのだろうか? 私は、結局なににもなれなかった。 『YUKINO』の名前は、所詮──彼女自身のものだ。 私の功績なんて、なにひとつない。「律子さん。ちょっといいかしら。水分補給は大切よ。ずっと気を張っているともたないわ」 蝋を吸ったような白い手から、水筒を差し出される。 それは、私の憧れだった人。 そして、私の目標だった人。 元、いや──現在の、至高のアイドル(アイドルマスター)。 三浦──あずささん。 伝えたいことは、話したいことは、たくさんあったはずなのだけれど。 なにひとつ形にならない。 こんな複雑な気持ちで、この人と向き合うことになるとは思わなかった。 誘われるまま、四人がけのテーブルに腰掛ける。 テーブルの椅子は、三つまで埋まっていた。 ──私と、あずささんと──そして、なぜだか同じテーブルに、『エッジ』の羽住社長がいた。 はて。 穿った見方をするわけではないが、首を傾げるような取り合わせだった。 このふたりに、接点などあっただろうか? たまたま一緒になった、と言われればそれまでだが。「……お気遣いありがとうございます。もしかして、お邪魔でしたか?」「んー」 あずささんは、しばらく頭上にハテナマークを浮かべていたが、「ああ、そんなのじゃなくてね」 得心がいったとばかりに、椅子に座り直した。「娘を預けている手前、挨拶をしておかなければと思ったの。それだけよ」「──むす、め、ですか?」 ──さらっと。 予期せぬところから、爆弾が降ってきた。 初耳も初耳。 聞く人が聞けば、大スキャンダルとして、二ヶ月はテレビの芸能ニュースを賑わせるだろう。 たしか、21歳で引退。それから2年だから、計算するとあずささんは23歳のはずだ。 ──預けている、その言葉をそのまま受け取るなら、『エッジ』プロダクションのアイドルとして、という意味だろう。 それ以外に、解釈のしようがない。 あれれ。 ええと。 ──どういうことなのだろう、これは? まさか、よちよち歩きの赤ん坊をアイドルプロダクションに預ける母親はいまい。 今、仮に5歳だとしても、18歳で産んだことに? そもそも父親は? って──引退の理由ってそれ?「いや、流石。三浦あずさの娘だ。一流ですよ」 私を置いてけぼりにしたままで、話は進む。 羽住社長が、息を吐く。 お世辞といった感じではない。 彼の口から続く感嘆は、繊細に書き込まれた人物画を見るようだった。それは、母の才と比べても、なんの遜色もないといった風に受け取れる。 ああ── そうか。 話を聞いていて、わかってしまった。 どうして、あずささんがトップシークレットであるはずの娘のことを、ここまで無防備に話せるのか。 ただ、単純にそれだけの才能があるのだ。 いつばれてもかまわない。 三浦あずさという名前に押し潰されないだけの力量を備えている。 「ええ──私も、最初は『ギガス』に入れようと思ったんですけどもね。娘がどうしてもヤキニクマンに会いに行くんだと聞かなくて。 ──今思えば、これでよかったのかしら?」 あずささんは、昔を思い返しているようだった。 三浦あずさの娘というブランドに負けず輝けるのなら、どこでデビューしても埋もれはしないだろう。 その──三浦あずさの娘という記号は、一生ついて廻る。 その神格化された名前を継ぐというのなら、三浦あずさの娘には、それに押し潰されることなく、自らの才能を誇示し続ける義務がある。 アイドルすべての頂点である、アイドルマスターという称号には、それだけの重みと輝きがある。 それは。 アイドルとしてもプロデューサーとしても、半端者な私とは、根底から違う。 どこにも逃げ場はない。 全方位に張り巡らされた茨の道は── ──いわば、宿命といっていい。 と── テーブルに影が、落ちた。 乱入する影がひとつ。「なんだ。律子。ここにいたのか。美希と美心が祝勝会をやるって、探してたぞ」 金田城一郎。 そうだった。 彼の言うとおり。私たち──『ハニーストロベリースターズ』はバレー大会で優勝を勝ち取った。決勝は敗者復活を含めた三チームにによって、三面コートを使うバトルロイヤルだった。最終的に失点は関係なく、多くポイントを取ったチームの勝ち。 故に── ──美希の独壇場だった。 混戦こそが、彼女の望むステージであるように。 状況認識。 空間把握能力、 そして──野生の勘のようなものがずば抜けているのだろう。 他のアイドルたちは、ほとんど見せ場もなく彼女を引き立てるだけに終わった。 美心のように、素直に喜ぶ気にはなれない。プライドなど、犬に喰わせてやればいい。 けれど。 私は、アイドルでさえない。 同じ土俵に上がる資格すらないのだ。「あずささんに、聞きたいことがあったんです。──美希についての、アイドルとしての評価を」 その質問は、おおよそ興味のほうが強かった。 あれだけの素材が、未だ無名でいるのは奇跡に近い。 誰だって、そう言うだろう。それで私が癒されるわけでもない。 けれど、知りたかった。 この人の見ているものと、私の見ているものは、どれだけの違いがあるのだろう。 「ええと、アイドルとしては、満点かしら? 美希ちゃんには、なにも足すものもなければ、差し引くものもないわね。本人にやる気さえあるなら、あと三年以内にAランクに上がれるわ」 ──断言した。 それは、私の美希への評価と、ほぼ変わらない。 三年もかかるはずがないけれど。「三年というのは?」「千早ちゃんとファン層が被るんじゃないかしら。だから──千早ちゃんがAランクにいる間は、上に上がれないでしょうね」 しかも、的確だった。 よく見ている。「──でも、この評価を正面から裏切ってくれそう、っていうのが、美希ちゃんの一番の強みかしら。 一瞬すら目を離せそうにない危うさとも違う、『意外性』っていう彼女だけの魅力。レッスンで培われるものじゃない、ある一瞬でサナギからチョウが羽化するような、爆発力。 見ててうずうずするわよね。ついつい、気がつくと身をのりだしたくなるような魅力があるわ」「本人はアイドルを嫌がってるけど、な」 頬杖をついているのは、金田プロデューサーだった。「そんな、あれだけの才能があってっ!!」 思わず、私は声をあらげてしまう。 身をのりだしてしまった。「アイドルにならない──ってのは、ひとつの選択だ。部外者が口を挟む権利はない」「でも──」 食い下がる。 ──プロデューサーなら、当然の反応。「律子。プロデューサーは、当たりつきの引換券でも、願いを叶える魔法の杖でもない。 最初からないものをあるように見せかけることはできても、ないものを、どこかから持ってくることなんてできない」 それは、わかっている。 やる気。 それは、才能なんかよりよほど尊いものだ。 プロデューサーを一年以上やっていれば、一流になれただろうアイドルたちが、消えていくのを何人も見てきた。それも、遅刻、本人のわがままといった、信じられないぐらいくだらない理由で。 一番多いのが、思っていたほど華やかな世界ではなかったという理由。二番目が給与面での不満。三番目が喫煙による処分。「いや、あいつなんでも上手くこなすしな。この間、スタイリストの真似事させてみたら、ほぼ完璧だったし。きっとプロデューサー業でも上手くやるだろう、絵理も自分のことでいろいろ忙しいようだし、俺の右腕として育ててもそれはそれで問題ないかなと。 ……なあ律子。俺は間違ってるかな?」「間違ってはいないです。だけど──」「才能ってのは、コンプレックスの裏返しだと思うんだ」 金田プロデューサーが、出されてお冷やを飲み干した。 メニューをぱらぱらめくって、海の家のぼったくり価格に仰天している。「スポーツを上手くなりたいのは、モテたいからだし、芸術を志すのは、それがそいつのコミュニケーションツールだからだ。だから──頑張るという気持ちも出てくるんだけど──美希の場合はな、本人の造形が完璧すぎて──なぁ。 あずささんだって、自分にとっての運命の人を探すっていう目的があったわけだし」 目配せ。 釣られて、あずささんの方を見た。 トマトのように赤面して、うーうーと唸りながら頭を抱えていた。 ──ええと、あれだろうか。 大人になって、自分が中学生のころに書いた妄想ノートを見つけてしまったような感じだろうか?「まあ、美希がアイドルを目指すのなら、それはそれで一番いいことだと思う。なにげにあれだけの才能を埋もれされるのはもったいない。 けれど──、俺の合宿での目的は、どうしても見極めておきたいアイドルがひとりいるからだ。こういう場でないと尻尾を出さないだろうから、な。 願わくば、美希のライバルにでもなってくれれば、美希だってもやる気だすかな、と思わないでもないが」 な──。 わからない。 無名か有名か。 実か虚か。 本物か偽物か。 星井美希と、同等の才能。 そんなものが、この中に? どういうことかと私が聞き返すより、 それは早かった。 遠くからでも映える表情が、怒りに染まっていた。それが、真っ直ぐに私を射貫いている。 知らない。 ──こんな娘は知らない。 見たことが、ない。 あるはずがなかった。 多分、千年に一度のレアケースみたいなものだろう。 いつも、ほやんと半目でやる気なさげにしている彼女しか知らない私には、この──星井美希の変化は驚きだった。「律子。 美希と──勝負してほしいの」 今までの、限りなく精度の高いであろう美希評価をすべて裏切って、話題になっていた星井美希は、私に向かって、人差し指を突きつけてきた。 そして── 次の瞬間には、 一拍遅れてきた菊池真に、頭を押さえつけられていた。 ただし暴走を止めたわけではない。余計な口出しを断った、と考えたほうがよさそうだった。 菊池真の。 今の美希と同じ種類の瞳は、私に対して明らかに敵意をたたえている。「律子。話がある。 『YUKINO』の、いや──雪歩のことについてだ」