光速のスパイクサーブが、砂を抉って地面に突き刺さる。 目で追うこともできない、堆積した砂をいくらかえぐり取ってなお、いささかその勢いをゆるめることがなかった。 ビーチバレーのボールは、普通のバレーボールで使うボールと少し堅さが違う。野球でいう、硬式と軟式ぐらいの違いだ。 しかし、今使っているボールはそれですらない。 スイカの模様がプリントされた、バスケットボールより二回りほど大きい、正真正銘のビニール製ビーチボールだった。 どれだけ力を込めても、空気抵抗で、その威力はほとんどもっていかれるはずだった。「ぜったいおかしいわ。あれ」 私は、呟いていた。 この世にあるスポーツ用ボールの中で、おそらくもっとも軽く、もっとも大きいのが、ビーチボールである。 それを──どれだけの力で打ち込めば、あんなテニスのスパイクサーブ並みのスピードで飛んでいくというのだろう? 物理法則とかニュートンの定理とかに全力で正面から喧嘩を売っている。 自らの放ったスパイクの行方を見届けて、右手を天に掲げているのは、どこからどう見ても菊池真以外ありえなかった。「律子さん。そういうこともありますよ」 ああ、お茶がおいしい──と、マイペースにゴザを広げている少女。 アイドルとしては、ずいぶんと地味な少女だった。 佐野美心。 『ワークス』のDランクアイドル。 チームメイトだった。このアイドルビーチボール大会限定の。「真くん。かっこいいの」 そして── 目を少女漫画のようにキラキラさせているのは、もうひとりのチームメイト。 星井美希。 さっきの、菊池真の隣を走っていた少女。 いくらか会話を交わしてみたが、なにやらつかみ所がない。 え、うーん、ミキ一週間前にアイドルになったばっかりだし、よくわかんない。え、真くん。かっこいいよね。ちょっとお話したいな、って言ったら──走りながらでもいい? って言われたの。 だから──いっしょに走ってたんだけど。 ──おそらくは。 菊池真は、それで美希を、振り切るつもりだったのだろう。 彼女は、同性には特別な人気があって、慕ってくるアイドルには事欠かないはずだ。 そして、そんな少女たちを、同じ方法ではぐらかしてきたはず。 誤算があったとすれば── 美希が、平気な顔で併走してきたこと。 結局、最後には真が折れた。諦めたのか、美希のなすがままになっていた。 私が物思いにふけっている間に、勝敗は、決してしまっていた。 三セットマッチで、九ポイント先取で一セット奪取。 ラストの真チームは、相手に一ポイントも与えない。ストレート勝利だった。 結局、菊池真のチームは、真ひとりで勝利したようなものだった。 チームメイトの高槻やよい(ハニーキャッツ)と、朝比奈りん(魔王エンジェル)は、見せ場のひとつもない。 ともあれ、 これで四強は出そろった。 私たち、『ハニーストロベリースターズ』 秋月律子(ブルーライン) 星井美希(ワークス) 佐野美心(ワークス)『ギャラクシーラグナロック少女隊』 水瀬伊織(ワークス) 源千佳子(ギガス)、 夕木瀬利香(ブルーライン)。『乙女式デストロイパンサーズ』 菊池真(エッジ)、 高槻やよい(ワークス)、 朝比奈りん(ブルーライン)。『湘南エンジェルライト』 鈴木空羽(ギガス)、 二条穂都子(ブルーライン)、 四方院ぐるみ(エッジ)。 次戦は、菊池真とだった。 『乙女式デストロイパンサーズ』は三人いるが、高槻やよいはとうてい動きについていけず、朝比奈りんは、他人に合わせようとする気持ちが最初からないようだった。 やる気がないのは、こちらにもひとりいるために、実質は二対一の構図。「勝機はあるわよ。私の言うとおりにすればね」「わかりました。指示をください」 美心とは、呼吸が合った。 相手の、弱いところを突く──ビーチボールにおける、もっとも有効な戦術。 やるからには、勝ちに行く。「ちょっと、ボールを変更したいんですけど」 ビーチボールを使うのは、上級者と初心者の垣根を埋めるため、なのだろうが──どのみち、菊池真相手では、ハンデがハンデにならない。 ならば── 最初から、ビーチバレー用の、こちらも高速サーブが打てるような小型のボールを使った方がいい。『では、ビーチボール大会の組み合わせを発表するぞー。三人一組なんだが、これだと人数がひとり合わないので、律子、お前アイドル側に入れ』 先ほど言われた──寝耳に水だった言葉。 今さら、アイドルたちに混じって、なんの意味があるのかわからない。そう抗議した。意味がないから遊びなんだろうが、穴埋めだって言ったろ? そう言われてしまえば、返す言葉はなかった。 準決勝ともなれば、注目は最高潮に達する。踏み越えたアイドルたちの視線がレーザーのように突き刺さって、それがそのまま即席のコートを押し包む熱に変換される。 迷いはない。 高鳴る鼓動を、踏みつけるようにして押さえ込む。 試合が始まる。 ──ホイッスルが、鳴った。 こちらのアンダーサーブから、試合は始まった。放物線を描くソレは、トスなんてまどろっこしい手段をとらなかった。 真の腕が鞭のようにしなった。 ビュゥ、という大気を切り裂く音。 大気の壁を叩き伏せるような轟音と共に、美希が吹き飛んだ。 同時にボールが、山なりの軌道を描いて、砂のコートに突き刺さる。「え──?」 ──見えなかった。 菊池真が、フォロースルーを終えて、コートの上に着地するよりも、ボールが地面に突き刺さる方が早い。 コートの外で見るのと、中で見るのとでは大違いだった。ボールの軌跡を、目で追うことすらできない。 そして、それに──星井美希が反応したという事実。 彼女は、砂に埋もれた身体を引き出して、口に入った砂を吐き出していた。 あちらに、サーブ権が移る。 アンダーからのサーブである以上、最初の一撃だけは、真の強烈なサーブは封じられる。 こちらに来たボールを、美心が真上に跳ね上げた。 それを、私は相手コートへと叩き付けた。 狙いは高槻やよい。 真のフォローは、予想済み。 私は、三つ指でボールを押し出した。「え、ええっ?」 高槻やよいの、慌てた声。 ブレ球は、海岸線に吹く風の影響を受けて、予測不能な軌道を描く。屋外で行われるビーチボールだからこその駆け引き。風は海へと向かって吹いている。 その風に翻弄されるまま、ボールはやよいの両腕から逃げていった。 真も、砂に足を取られて、フォローが間に合わない。 ボールが、砂の上に落ちた。 これで、ポイントはイーブン。 その後は、消耗戦だった。 風が強くなってきたのが、私たちに有利に働いた。いくら真といえど、ろくなトスが上がらないようでは、あの光速スパイクも使えない。 ましてや、地面は固い床ではない。 砂の上では、真の機動力もそのほとんどを封殺できる。 けれど── 私たちにとって、天敵となるのが真上でギラついている太陽だった。 コートには、日光を遮るものなんて、ひとつもない。 三十度に迫ろうという温度の中で、真の光速スパイクを警戒し続けるのは、なにより精神力を削り落とされる作業だった。足の腿が重い。 精神力に比例して、体力も涸れていく。 たったの一セットが、異常なほどに長く感じる。 ──それが、私の挙動を狂わせた。 相手からのスパイクを、レシーブする。 真上に上げるつもりが、そのままボールは相手の陣地に戻っていく。 まるで無防備なボールは、菊池真への最高のトスとなった。 しまった、と感じたときには、すでに手遅れで。 真の右腕が、振り抜かれる。 まるで鞭のような、音の壁を打ち破る音。 激突音。 再び、美希が吹き飛ばされていた。 これで、三度。 これだけ続けば偶然なはずはない。 動体視力なのか。 それとも野生の勘がなにかなのか。 美希には、真のスパイクの軌道が見えている。 そして、それは回を増すごとに、精度を高めていた。美希が跳ね上げたボールは、未だコート内上空を滑空している。 美心が、それを相手コートに押し込んだ。 審判の笛が鳴った。 第一セット、先取。 真が、スパイクの体勢に入った。 その瞬間だけ、周りの空気が張り詰める。 なにかを期待するものへと。 わかる。 この試合が終わって、観客は真と美希以外、おそらくなにも覚えていないだろう。 たしかに、私の取った作戦は、地味だった。相手のミスを誘い、こちらからの積極的な攻撃は一切ない。淡々と、ノルマを達成するようなものだった。 やっている本人にとっては、辛いことこの上ないのだが、観客たちにとっては退屈極まりないはず。 だから、観客は真と美希の対決に夢を見る。 けれど。 美希のそれは、それだけでは説明がつかない。 試合を組み立てる、奇策を練る、ポイントを奪う、私のやったことをすべて些事と──大したことのないものだと、脇に追いやってしまう。 格が違う。 レベルが違う。 存在感が違う。 人の目を惹き付けるアイドルをすら魅了するなにかが、彼女にはあった。 天を切り裂くような真のスパイクを、美希は完全に殺しきった。ふわり──そう鳥肌が立つぐらいのトスアップ。 一瞬、時間が止まったように思えた。 ボールが、ひとりでに動き出したようだった。誰もが視線をボールに釘付けにされたまま、ほとんど動けないでいる。 凍り付いた時間の中で、強烈な意志を持ったように、ボールだけがゆるやかな弧を描いた。 わかる。 星井美希が、なにを求めているのかがわかる。 走り込んで欲しい場所が、相手の隙をついて、そこに走り込めば──十割の確率で、相手コートにスパイクを叩き込める。 ただ── それがわかっていて、なお──私は動けなかった。 ぽす、と。 拍子抜けするような乾いた音を立てて、ボールが自分側のコートに落ちた。 その挙動に。 その意識に。 その視線に。 ──私は、見惚れていたから。 一瞬だけ。 私は、抱いてしまった。 ──憧れた。 ただ純粋に憧れた、あの時の気持ちを。 三浦あずさに感じたのと、同じ感情を、星井美希に抱いてしまった。 あんな風になりたい。 いつか、あんなステージを演じてみたい。 私が憧れ続けて──ついに届くことのなかった領域に、彼女はいる。 バレーと歌は違う。 なにも知らない人間は、そう言うだろう。 ただ──忘れられるものではない。人の手の届かないような感覚。本能的に、人の魂を惹き付けるようなそれ。 本物としての定義。 アイドルを夢見る少女たちと違う。現役のアイドルたちをして、彼女のようになりたいと思わせること。 だから、私はただ憧れていればいい。 それ以外の感情の、入る余地はない──はずだ。 私が欲しかったものを、最初から全部持っていて。 私が見せつけられた現実と、考えられる限りで彼女は一番遠いところにいる。 ただ、それだけの話。 彼女は──注目される視線にも、吹き付けられる揶揄にも、憧れの視線も、疑わしさも、そのすべてが──まるで日常の風景だというように、 ──なにひとつ揺らいでいない。 私は、その鈍感さが羨ましかった。 私が十年かけてできないことを、一日かけずやってしまう。彼女にとって努力とは、なにかを手に入れる過程ですら、ないのかもしれない。 その存在だけで、美希は完成している。 彼女は、なにも悪くはない。私が、「私」を重ねてしまうのは──私自身のエゴでしかない。 けれど──魂の底から滲み出てくるような暗いものは、もうどうしようもなかった。 プロデューサーという仕事をしている以上、私はアイドルを挫折していく少女たちを、数多く見てきた。『あの子が、私の才能を奪っていくのよ。あの女の隣にいるとおかしくなるの。あの女をどうにかしてよっ!!』 こんな台詞を、叩き付けられたことがあった。 被害妄想。 どう考えてもそうだ。 なにひとつ、相手に落ち度はない。 常識以前。 どうやっても、天地をさかさまにしても、ひっくり返らない。 でも── 本当にそうなら。 そうだと、したら── ──私は、誰を呪えばいいのだろう?