「おいおい、聞いてないぞ。こんなの」 プロデューサーの、固い口調。 会場一杯に敷き詰められたような人たちの熱が、こちらまで伝わってくるようだった。 舞台には緞帳が降りている。 私がその隙間から客席を覗いてみると、三百人を下らないような人の群れが見えた。 この市民ホールなら、ちょうど席が埋まるぐらい。 私たちの対決のための、おそらくは観客なのだろう。 隣では、やよいが私の右手をがっちりと掴んでいた。捕まれた指から、かすかにやよいの動揺が伝わってくる。 無理もない。 私だって、頭のてっぺんから、背筋までに震えが来ている。ある一定数を超えた人の視線というのは、きっと暴力に近い。 それを克服するための── 経験も。 場数も。 ──きっと、今の私たちにはないものだ。「不安か?」「少しだけ、ね。まあ、将来の私の下僕たちが大挙してきてると考えればいいのよね」 反射的に、胸を張ってみる。 プロデューサーには、見抜かれているだろうけれど。三百人。Dランクか、Eランク程度の集客数ではある。うん、なんてことはない。どのみち、これを踏み越えなければ、アイドルになんてなれない。「なに、無理もない。 誰だって、本番は怖い。 克服するには、千早のように機械になるか。あずささんのように悟りを開くぐらいしかない」「で、なんなのこの客」 私は、客席を指さした。 適当に告知したわけでもないだろう。明らかに、外見がソレ系の野郎たちばっかりだった。「午前中に、ミラーズのサイン会があって、そのついでで集められたそうだ。 一応、抗議はしておいたがな。『アイドルは見られることが仕事だろう。なにか問題があるかい?』──と、言われてな。それを言われたら仕方ない。 たしかに、問題はないんだよ。 観客が勝敗を決めるわけじゃない。 一般審査員は、色眼鏡のないのを、ちゃんと十人用意するって言ってたしな」 それに── と、プロデューサーが付け足す。 「ここまでやる以上は、一般審査員は、文句がつけられないぐらい公平に選んでくるだろうから」「──ちょっとプロデューサー。 話が繋がってなくない? じゃあ、なんで西園寺社長は、そんな嫌がらせすんのよ。いくら観客がいたって、勝敗に影響ないんでしょ?」 私が口にしたのは、ごく当然の疑問だった。「いくつか理由はあるな。 たとえばだ。 こっちのアイドルは、所詮、ふたりとも経験ゼロの素人だ。 こういう不確定要素が入ると、アクシデントも起きやすくなる。あとは──」 少し、考えるように。 口を開く。「一般審査員は、ほんとに一般人だから。場の雰囲気に流されやすい。たとえ、お前らの方がよかったと思っても、ミラーズの方に歓声が集まっていたら、どうなると思う?」「あ、思わず、ミラーズの方に票入れちゃうかもです。たいした商品じゃないってわかってるのに、人だかりがあると、ついつい買ってしまう庶民の心理を知り抜いた、恐ろしい作戦ですー」 横で、やよいが戦慄していた。「ああ、そういうことだ。やよいは賢いなぁ」「えへへ」「やよい? それはきっと褒められてないわよ」「え?」 やよいが首を傾げた。 とりあえず、私の突っ込みはやよいに伝わってないらしい。「勝利するのは当然として、負ける乱数も完全に排除しにきてるな」「あうぅー。大変ですー」「まさに、絶体絶命だな。さて、どうしたものか」 無言。 空気がじわじわと重くなってくる。「プロデューサー。他人事みたいですよ?」「それで、どーするのよ。なにか良い材料とかないの?」「なに言ってる。 それこそ他人事みたいだな。 やれることはもうやっている。どっしりと構えていろ。仕掛けは、もう終わっている」「わかったわよもう」 私と、やよいだけが残される。 最後にスタッフとの打ち合わせがあるというプロデューサーを見送ると、視界に今日の対戦相手の姿が見えた。「──雪菜?」 眠そうな顔をした双子の片割れが、舞台から近づいてきていた。 すでに舞台用の衣装に着替えている。 芦川雪菜。 双子のやる気なさそうな方の対戦相手は、こちらに向き直るとぺこりと頭を下げた。「あ、伊織さん。本日はよろしくおねがいします」「ええ、そうね」 続けて、姿を見せたのは、もうひとり。 芦川高菜。「あ、伊織さん。おはようございます。 それと、身の程知らずのFランクアイドルも。 あなたがどうなろうと知ったことじゃないけど、伊織さんに恥だけはかかせないで」 卑屈な笑みだった。 私は、 怒鳴りたい衝動を抑え込むだけで、体中の力のほとんどを使い果たさなければならなかった。「余計なことはしなくていいわ。 やよいとの関係は、私が決めるから」「でも、伊織さんほどの人が、どうしてFランクのこんな子なんかと………」「二度も言わせないで、やよいとユニットを組むって決めたのは、私よ。文句があるなら、私に言いなさいよ」 私の言葉に、高菜が気色ばむ。「私たちより、そのFランクアイドルの方が上だとでも……」「なに言ってるのよ? それを、これからはっきりさせるんでしょ」「……じゃあ、私たちが勝ったら、伊織さんは、こちらに来てくれますか?」 余裕を取り払った、真剣な顔だった。 まったく、人気者の宿命としても、こうまで執着されると、迂闊に断ることもできやしない。「それを含めて、今日のステージではっきりさせるわよ。私たちが負けたなら、そっちの条件を全部、呑むわ」「いいんですか? 私たち、本気でやりますよ?」「当たり前でしょ。 誰が手を抜けだなんて頼んだわけ? あとでゴネられてもかなわないしね。全力で来なさいよ」 それだけ言って、ようやく高菜は満足してくれたらしい。 やよいへの興味も失せて、あとはただ純粋に勝敗のみに拘ってくるようだった。「やよい。大丈夫?」 俯いたままのやよいの表情は、なにかを堪えているように見えた。「あんなの気にすることないわよ。なに言われても、ステージで結果を残せば、雑音なんて全部消えて無くなるから──」「──もう、いいの」「え──?」 わからなかった。 やよいが、 なにを、言っているのか。 なにを、言おうとしているのかが。「伊織ちゃん。 行きたいなら、雪菜さんと高菜さんのチームに行っていいよ」「なによ。──ソレ」 最初── なにを言われたのか、わからなかった。「だって、伊織ちゃんには、それが選べるんだから」 無理矢理に、絞り出したような笑顔だった。 「やよい。それ、どういう意味よ」 やよいはこちらを見ようともしない。 淡々と、噛んで言い含めるように、私に語るようだった。「伊織ちゃん。やさしいから、私に同情してくれたんだよね。でも、もう十分だから。私は、これ以上伊織ちゃんの重荷になりたくない……」「なによ、それ。 諦めるの? アイドルになるって夢も、今までやってきた努力も、全部放り投げて、私は『ここまで』頑張りましたって言うわけ?」 私は、まくしたてた。 もう止まらなかった。「──それで、誰が認めてくれるのよ。 ううん、やよい自身、それを認められるの? ねぇ、やよい。本気で言ってるの? 本気で、私が同情なんてつまらない感情で、やよいと組もうと考えたなんて思ってるの?」「いいよ。もう十分だから」 泣き笑いのような表情。 わかってしまった。 もう── 私の言葉は、やよいには届かないのだと。「もう、考えは変わらないのね」「うん──」「そう」「もう、いいの」 空気に、耐えられなかった。 結局、私のやったことは、ただの金持ちの、お嬢様の道楽で終わってしまったらしい。 なら── 仕方ない、か。「──だったら」 扉に手をかけた。「私には、もうなにも言うことはないわ」 ──分厚い扉が、私とやよいを隔絶する。 この扉のように、分厚く重い壁が、私とやよいの心を切り離していた。「やよい。まだ座り込んでるわけ? まずは着替えてきなさいよ」「あ、あれ? 伊織ちゃん。その格好は?」 やよいが、涙に濡れた瞳を擦りながら、目を瞬かせていた。 私といえば、コンサート用に着せられた衣装から、すでに私服に戻っている。「当たり前でしょ。あんなごてごてした衣装で、逃げ切れるわけないもの。 あの腹黒プロデューサーに見つかったら、またなにかの取引材料に利用されるに決まってるしね。新藤に言って、迎えは呼んであるから、どうやって警備員とプロデューサーの目を誤魔化して玄関まで逃げるかがポイントね」「あ、あの──伊織ちゃん。その言い方だと、伊織ちゃんも一緒に逃げるみたいに聞こえるんだけど……」「なに言ってるのよ。このまま、やよいひとりにできるわけないでしょ。 最後まで付き合うわよ。どうせ、アイドルを目指すのも、今日で最後だもの──」「え──?」「こういうところって、出入り口が限定されてるのよね。非常口とか使うと、やっぱり目立つかしら」「あの、伊織ちゃん。最後って、なに?」「あのね、やよい。 かわいくて、頭も良くて、パーフェクトなこの伊織ちゃんが、最高でカンペキなのは、人類発祥時からの普遍の定理じゃない。その私が、わざわざアイドルなんてやるはずもないし、やる必要もない。そうでしょ」「……ええと、そう、なのかな?」「だから、仕方ないじゃない。やよいが諦めたんなら、私もアイドルを続ける理由もないし」「伊織ちゃん。それ──」 やよいの抗議を、私は言葉で終わらせた。「私は──他の誰でもない、高槻やよいを選んだの。 それを決めたことに、後悔はないもの。 ううん。間違っていないって、全部終わっちゃった今でも、そう思ってるから」「そんな、私、伊織ちゃんになにもしてあげられてないのに」「──ねぇ、やよい。 この間、プロデューサーに聞いた話なんだけど。 偶像(アイドル)ってね。 目指すために、ひとつだけ条件があるんだって言ってた」「え?」「それはね。 ──誰かに、憧れることができること。 例えば、それはテレビの向こうで歌うアイドルだったり。 こうなりたいって願う、未来の自分だったりするんだって。 天海春香は、西園寺美神に憧れた。 如月千早は、きっと三浦あずさに憧れた。 それと同じように──水瀬伊織は、高槻やよいに憧れたんだから」「………………」「だから──私にとって、一番大切なものがやよいだった。それだけのことよ。 私が憧れたやよいは、そんなに弱くないって信じてる。 だから、私たちの夢がここで終わってしまっても、自分を嫌いにだけはならないで。 ──私は、やよいの笑顔が大好きよ。 だから、やよいには──ずっと笑っていてほしいの」「……伊織ちゃん。やめてよ」 やよいは、ようやく、口を開く。「私、そんなに強くない──。 こんな状況で、脳天気にヘラヘラ笑えるほど、強くなんて──ないから」 やよいは、笑いかけてはくれなかった。「うん。まあ、そうよね」 私は、一息ついて続ける。「いつも笑ってるなんて、できるわけないわよね。それが、やよいの、ほんの一部分だってこともわかってる。 でもね。 私は──そんなやよいに憧れたの。 たった数人の前で歌ったような、ほんの小さな小さなステージとも呼べないようなものだったけれど、いつか、私もあんな風に歌えたらなって。 ──やよいは、私に、一緒に歌おうって、そう言ってくれたわよね。 だから、私は何度だって言うわよ。 どんな絶体絶命な状況でも、私の可愛さと、やよいの笑顔があれば、私たちは無敵でしょ。 知ってると思うけど、私は嘘なんてつかないわ。 やよいと組めば、Aランクだって楽勝って信じてる」 ──本心だった。 なにひとつ偽りはない、私だけの真実だった。 だから── それは私だけが知っていればいいことだと思う。私のエゴで、やよいの気持ちを犠牲にする必要はないはずだ。「やだよ。………できないよ」 震えていた。 身体を抱くようにして、やよいが座り込む。「やよい。私は、やよいになにかを強制しようなんて」 ──違う。 触れる温度。 やよいの手が、天に向かうように、私の左腕に伸びていた。「──五分だけ……時間をちょうだい……」 聞き取れないぐらいの音量で、やよいが囁いた。「ダメだよ」 逃げようとしているわけ、ではない。 それは、なにかを決意したような、硬質な声。「ダメだよっ!! やっぱり、このまま終わりたくなんかないよっ!! 伊織ちゃんと、ずっと一緒にいたいよっ!!」 みっともなくて、 泣きはらした目で、 ぼろぼろになって、──高槻やよいは私の胸に顔を埋めて泣いていた。「──やよい」「伊織ちゃん。こんな私でも、いいかな? 今も恐いけど、逃げ出したいけど、伊織ちゃんに寄りかかっても、いいかなぁ?」「当然でしょ。 やよい以外に、私の隣を任せるつもりなんてないわよ。覚悟しなさい。今さら嫌だって言っても、もう離してなんてあげないんだから」「──うん」 一瞬の永遠。 ──こんな時間は、いつまでも続くと信じたかった。 逃げたい気持ちは、私だってある。 今日の試合の結果で、こんな時間も断ち切られる。 賭けの内容は、私のミラーズへの移籍。 正直に言えば、高菜と雪菜と組むユニットでも、そこそこのランクまで行けると思う。きっと、Bランクだって手の届くところにあるはずだ。 でも、おあいにくさまで。 私の辞書に、『そこそこ』とか『それなり』なんて単語は載ってるはずがない。 目指すべきは、頂点だけ。 そう。 私が私であるために。「ん?」 携帯が鳴っていた。 プロデューサーからだろう。「もしもし。ああ、ステージがはじまる? ──わかったわ。余計なお世話よ。アンタはステージのことだけ考えてなさい」 想像通りのことをいうプロデューサーを、軽くあしらっておく。「じゃあ、行くわよやよい。 観客が、私たちのステージを待ちこがれてるわ」 やよいの手をとる。 繋いだ手が確かなら── ──私たちは、どこまでだって行ける。