ワークスプロダクションの歴史は浅い。 今でこそ、伊織の実家である水瀬財閥がスポンサーにつき、ギガス、エッジ、ブルーラインと並ぶ四大プロダクションのひとつに数えられるが、そこまでの道は決して平坦なものではなかった。 四つの事務所のうち、もっとも小規模ではじまり、四大プロダクションに名を連ねた順番も最後である。ワークスプロダクションが、どこにでもあるような弱小事務所だったころは、オフィスを借りることすら満足にできなかった。 結果──それでどうしたかというと、他のプロダクションや会社と入居料を折半し、オフィスを四等分して使っていた。 万事が万事その調子だったから、徐々に経営は傾いていき、名の売れてきたアイドルは余所の事務所に引き抜かれていき、最後にはアイドルはたったふたりしか残らなかった。 天海春香と、小早川瑞樹。 ふたりに、アイドルの素質だけは十分にあったのは、まだ救いだったろう。 しかし、その市場に商品を放り込むまえに、芳しくないワークスの財政に、トドメを刺すような出来事が起こる。 ワークスのプロデューサーを騙る男が、アイドル志望の女子高生に淫行を働くという事件が起こる。抱かれれば、アイドルとしてデビューさせてやるという口約束だったらしく、騙された女子高生の訴えと、ワークスからの被害届で、犯人はすぐにつかまった。 しかし──そこからが問題だった。 犯人は同じオフィスに入っている会社の社員であり、ワークス社員の机から、スカウトのために控えておいた名簿を盗み見て、獲物を物色していたらしい。なにせ、名簿には電話番号のみならず、顔写真までついている。ソレ系の人間から見れば、宝の山にすら見えただろう。 うかつすぎる。 ワキが甘いで済むような問題ではない。 その事実を週刊誌にスッパ抜かれ、操業停止こそ免れたものの、ワークスプロダクションの、もともとそれほど高くもない評判は、地の底に落ちた。広いようで狭い業界である。 再起不能。 事務所は、たちまちに倒産の危機を迎える。もはやどうにもならない。 しかし、当時の社長は、ここから逆転の一手に出る。 自らは身を引き、自らの後身に元アイドルを指名したのだった。社長が女性なら、淫行問題の風当たりは弱くなるし、事務所のイメージもこれ以上汚さなくて済む。 ここまで言えば、あとは言葉を重ねる必要もないと思うが、そこで白羽の矢を立てられた元アイドルというのが、西園寺美神である。彼女のビジュアルも相まって、ワークスプロダクションはギリギリで持ち直す。 今でも現役のアイドルとして、なんとか通用しそうな歳の彼女が、社長に収まった経緯は、まとめるとこんなところだった。 ──で。 彼女の社長就任は、倒壊するワークスプロダクションを支えるつっかえ棒ぐらいにはなった。 オブラートに包まずに言うと、あまり役には立たなかった。 しかし──天海春香。小早川瑞樹。それに水瀬グループの支援もあって、ワークスプロダクションはここから業績を伸ばしていく。 そして── 時間を現代に戻す。 今のワークスプロダクションは、その当時の勢力図を、そのまま維持している。社長の西園寺美神。副社長の藪下幸恵。そして、ワークスプロダクションのアイドルは、AからFまでのアイドルをすべて数えて、約五百人ほど。 そのうち、Dランク以上ともなると、二百人やそこらだろうか。 この二百のうちの約八割。 つまり──百六十人ほどが、ワークスの三大派閥のどれかに属している。 つまり、天海春香。 それに、小早川瑞樹。 そして、水瀬伊織。 三人の派閥。 このなかのどれか、──である。 内訳は、BランクアイドルとCランクアイドルを中心に、天海春香が三十人ほどを集め、小早川瑞樹がグラビアアイドルを中心に、四十人。Cランクアイドルの残りと、Dランクアイドルを中心に、水瀬伊織が九十人ほどを統括している。 そして、ワークスプロダクションにおける、最大の異質さは、この三大派閥にこそあった。ある一定以上のアイドルが集まれば、必然的に派閥が生まれる。 ワークスの場合、利害でもなんでもなく、三人ともが自らの誇る絶大なカリスマによって、所属するアイドルたちの信頼と畏敬を勝ち得ている。対抗意識はあっても、深刻な衝突まではない。 もとより、それぞれランクで派閥がだいたい決まっているので、仕事におけるトラブルも起こりにくい。 天海春香と小早川瑞樹は、一度どん底を経験している。自らのプライドにかまけて、プロダクションの利益を損なうような真似はしない。水瀬伊織も、当然そんな馬鹿ではない。 この三大派閥は、ある意味、理想的ですらあった。「と、こんなわけだけど、アンタみたいな外様の入る余地はないんじゃないの?」「余地がないなら、こじあけて作るまでだ。大した問題じゃない」「大した自信ね」「うううっ、責任重大かもです」「なに言ってるのやよい。負けたところでこのプロデューサーひとりが、いつもどおり道を踏み外すだけよ」「伊織。そこでいつもどおりとか言うな。まだ会って一週間だろうが」「そうね。目の前の人間がどのくらい腐っているのか知るには、それなりに適当な時間じゃない」「まあ、そんなものかな」「ええと、プロデューサー。腐っているのは否定してほしかったような……」 俺と伊織とやよいは、レッスンスタジオの一階にいた。 すでに一日も無駄に出来ない。昨日、尾崎さんとの再会を祝った後、軽く寝たあとで、アルコールが抜けきらないままこっちに直行してきたのだが、なぜか太陽が真上にあった。不思議だなぁ。 ──笑い事じゃない。 絵理が移ったかもしれん。 ふたりは俺がいない間も、きちんと自己レッスンを続けていたらしく、額に珠のような汗が光っていた。 ふたりに、自販機で買っておいたジュースを渡す。 伊織はオレンジジュースを、やよいはコーラを取った。 天海春香は断りも入れず、俺の分の健康飲料を勝手に飲んでいた。「………………」「………………」「あ、春香さん」「こんにちはやよい。相変わらず元気いっぱいね。そっちのふたりは、アホ顔を並べてどうしたの?」「いきなりどこからか沸いてきて、最初に言うことがそれ?」「いいじゃないの。ごきげんようこんにちはなんて挨拶する間柄じゃないでしょう。私とあなたは」「いいからまず用件を言いなさいよ。わざわざ呼び出しておいて」 そうなのだった。 今日のところは、伊織やよいとミラーズの、対決の子細を決定するために呼び出された。「ええ、対戦相手はそのまま『ミラーズ』の雪菜高菜ペア。担当プロデューサーは、尾崎玲子。ここまでで、なにか質問は?」「これ、元々は西園寺美神と俺の勝負だったはずなんだけどなぁ。その西園寺社長は反対しなかったのか?」「お姉ちゃんが、反対? したわよ。それがどうしたの?」「──で、お前が勝ったのか?」「ええ、だって尾崎玲子ともう契約を結んじゃったもの。お姉ちゃん、違約金の額に泡を吹いていたわ。お姉ちゃんの薄給じゃあ払えるはずがないものね」「ええと、あの人、社長だよな」 尾崎さんはフリーのプロデューサーなので、彼女の給料は天海春香個人が出しているはずだった。普通の事務所で抱えるような派閥トラブルがない代わりに、周りの人間はこうやって被害を受けていくわけだ。「それじゃあ──細部を詰めましょうか」 揺るぎもせず、天海春香は言った。「ルールは、プラチナリーグ公式の投票制。 五試合やって、三試合を先取したほうが勝ち。それで決着が付かなかったら、延長戦になだれ込む。引き分けはなし。 審査員は、三浦あずさ、天海春香、あと一般審査員が十人。投票数で、三ポイント以上の差がつけばそっちのユニットに一勝が入る」「二ポイント以下なら、どーなるんですか?」 やよいの質問。 俺はルールをまとめたメモに視線を落とす。「引き分けだな。どっちにポイントは入らない。 ただ、柔道の有効と同じだ。『一本』には勝てないが、最終的に、どちらも三勝を挙げられなかった場合、最終的にポイントの多い方の勝ちとなる」「それ、泥仕合になりそうなルールね」「それが目的だからな。そこは、俺が押し通した」「それでいいわけ? 大物喰い(ジャイアントキリング)の鉄則は、短期決戦でしょ」 伊織の指摘は、鋭いところをついていた。 ジャイアントキリングは、元々サッカー用語であり、格下のチームが格上のチームを打ち破ることを指す。「別に、今回は格上が相手というわけでもない。なら、プロモーションの時間は多い方がいい。手持ちは、八曲だったか。俺のプランなら、なんとか間に合うだろう」『GO MY WAY』『私はアイドル』『ふたりのもじぴったん』『おはよう!! 朝ご飯』『i』『HERE WE GO』『ドューユーリメンバーミー』『メリー』 以上、八曲。 すべて、他のアイドルと歌手のカバー曲だが、未だプラチナリーグで一勝も挙げていない非公式ユニットが、これだけのレパートリーを持っているのは異常だった。 努力だけは、人並み以上にこなしているらしい。「それで伊織。報告だが、この条件を通す代わりに、あっちからの提案があった。あっちが勝ったら、美希だけでなく、伊織──おまえも欲しいってな」「ああ、やっぱり?」 あれ、反応が違う。 勝手にそんなことを決めて、なに考えてんのよ、と罵声の速射砲を浴びるぐらいは覚悟していたのだが、伊織にとって、それは予想の範疇だったらしい。 「もしかして、ミラーズと伊織って、仲がいいのか?」「え、なにその質問。だって、その『ミラーズ』っておでこちゃんの取り巻きだったんでしょ?」 と、いつのまにか合流している美希からの質問。「C級アイドルはなぁ、売り出し駆けのD級アイドルの次に態度が悪いからな。変にプライドが高くなる時期なんだ。 ──ってわけで、権力を笠に着るようなお嬢様は、内心舌を出されてる、というのがイメージだったんだがな。実のところ、さっきミラーズの片方に会ったんだが、伊織さんのプロデューサーだからと、すごく丁寧に挨拶してくるんだ。本気で慕われてるみたいでな」「アンタ、そこはかとなく、すごい失礼なこと言ってるわよね」 そこに、怒気はない。 ──代わりにあったのは、困惑か。「なんか、ホントに慕われてるみたいなのよね。私」 伊織は、複雑そうな顔をした。 苦笑いだった。「なんかやったのか?」「別にたいしたことはやってないわよ。 あの子たちがEランクの時に、横暴なDランクアイドルにいじめられてたから、助けてあげたのよ。まあ、ついでに宝くじで当てた一億円で、気分転換にって、ショッピングに付き合わせたあたりかしら、あの子たちの態度が変わったのって」「………一、億?」「まあ、二時間で全部なくなっちゃったけど」 水瀬伊織の感覚は、庶民からかけ離れすぎていて、訳が分からない。こいつ、カリスマのみならず、常軌を逸した幸運まで備えているらしい。「いや、一億って、なにに使ったんだ?」「え、宝石よ。店で、ショーウィンドーを指さして、ここからここまで、一億円で買えるだけちょうだいって」「あ、あわわわわわ」 初耳だったのだろう。 やよいが、口からエクトプラズムを吐いている。「もったいなくないか。それ?」「どうして? 欲しいものを買ったんだから、もったいなくないでしょ? 高菜と雪菜も同じ質問をしてきたけど、わけがわかんないわね」「俺にはお前が訳わからねえよ」 スケールが違う。 まあ、さっぱりしている分、扱いやすいことは間違いない。 千早は、さんざんにめんどくさかった。機材の質ひとつにこだわって、あちこち駆けずり廻されるよりはよほどマシだ。「しかし、胃が痛くなるな。伊織をどうやって営業廻りに連れて行けばいいんだ? お偉いさんと引き合わせた瞬間、俺の首が飛ぶぞ」「あの、伊織ちゃん。そういうのカンペキですよ」「む?」「はいっ。はじめましてよろしくお願いします。新人アイドルの水瀬伊織ですっ。超世界的スーパーアイドルとしてがんばりまーす。応援よろしくおねがいしますねー、って──こんなのでいいの?」 猫撫で声で、彼女は優雅に一礼した。 伊織がパーティー会場で見せていたような、完璧な礼儀作法。「お、おでこちゃん。なんか気持ち悪いよそれ」「うっさいわね。じゃあアンタがやってみなさいよ」「うーん。あふぅ。星井美希だよ。アイドルって、なにするかわかんないけど、ミキ、きっとセクシー系のお芝居ならできると思うな」 棒読みで台詞を言うと、美希はこちらに、ずいっと胸の谷間を寄せてきた。暴力的なまでの胸の谷間が、目の前にアップになる。 ──やばい。この絵面はまずいっ。「ちょっと、それ反則でしょ!?」「え、どうして。おでこちゃんもやればいいのに。あ、おでこちゃんだと無理か」「い、いちいちむかつく反応するわね。アンタ」 美希と伊織がぎゃーぎゃーと言い合いをはじめた。 仲がいいなぁ相変わらず。「……プロデューサー」 一歩引いて、やよいがぽつりと呟いた。「負けたら、伊織ちゃんが遠くに行っちゃうんですよね」「そうだな。けど、俺は勝つぞ。勝てば問題はない」「うん。勝たなきゃ──うん」 凄絶なまでの決意。 それが、やよいの気の毒なほどにこわばった表情から、透けてみえた。「なにか、言ってあげなくていいの?」「ん、美希。喧嘩は終わったか。なにか、ね。──なにかってなにをだ。アイドルが、ステージに立つ以上、決意だけは、自分のなかから絞り出さないといけない。俺がやることは、もう終わっている。あとは、高槻やよい次第だ」「ミキは──」「ん?」「ミキにできることって、なにもないんだよね」 美希は、伊織とやよいの関係と通して、なにか別のものを見ているようだった。 どこか自分の立ち位置を迷うような寂しげな声が、彼女の口の端に、溶けていった。