特大の餌を垂らして大物のディストから手紙が来たのは良かった。 だがついでに釣れたのがダアト、ローレライ教団というのは勘弁してほしいところである。 つまりティアたちはやり過ぎたわけだ。 データバンクに収められたままというのは、それだけ難癖付けられそうだったということである。 教団の禁止事項すれすれのところを選んでいたのだが、評判も時に足枷になってしまう。 正体不明の教団とは無関係な天才博士など、ダアトから見れば危険極まりないだろう。 この対応も過剰な気もするが間違ってはいない。間違って欲しかったが。 外殻降下計画は取りようによっては預言に喧嘩を売っているとも解釈できる。 頭を下げれば協力してもらえるならいくらでも頭を下げるが、端から期待はしていない。 預言順守を謳う大詠師派は最も警戒しなければならない相手である。 計画とアウル博士の正体については明かすわけにも悟られるわけにもいかなかった。「私がダアトに行くわ」「ティア、何を仰っていますの?」 真っ先に名乗りをあげたティアに対してファリアは不思議そうに尋ねた。「私をアイン・S・アウルの弟子として送り出せばいいわ。博士は私たちが作り上げた幻想よ。実際には存在しない。 けれども誰かがその存在を立証しなければならない。そうでしょう?」「「「……」」」「博士は病気で魔界を出ることができない。だから代わりに弟子が出向くと言えばいいのよ」 いまダアトの疑いを固めてしまったら、全てが水の泡になってしまう。それだけは回避しなければならないと皆分かっていた。 ダアトから寄こされた召喚状には導師イオンのサインがあった。拒否することは疑いをさらに深めそのうち教団の兵が派遣されることになる。 だがのこのこと出て行っても、そこで待っているのは話し合いと言う名の吊し上げである。「俺が博士として出向けばそんなことをしなくてもいい」 バティスタがティアを制して前に進み出た。 確かにバティスタはアウルチームの責任者。科学者としての見識も深い。 この中で一番博士を装うとすれば彼が適任だろう。「ダメよ。新婚なのに妻を一人にする気なの? 第一、あなたはダアトにも知り合いが多いでしょう。弟子としても以前の実績がありすぎるわ」「なら私が参ります。10年以上この街から出ておりませんし、名も売れてません。 まだ幼いティアを差し出すなどできませんわ」 この似た者夫婦は…。ティアは苦笑しながらも嬉しく思った。 けれどもティアは意志を変えるつもりはなかった。この中で研究から離れても支障がないのがティアなのだ。 やっていることも皆の実験の手伝いだったり、スケジュール管理だったりと重要なものではない。 障気中和薬もファリアの助けがあったからこそ完成に漕ぎつけることができた。 研究者として新米の自分が抜けるのが一番ロスが少ない。 それに、此処での研究は自分しかできないことじゃない。私は研究者としては二流だ。 ダアトに行けばもっと他の手も見つかるかもしれない。「だから新婚は却下よ。これは私でないといけないの」「ティアである必要などありませんわ!」 私が名乗り出ると主張するティアにファリアの悲鳴のような声が上がる。「いや、ティアでなければならないよ。ユリアの子孫であるティアでなければな」 テオドーロの静かな声がファリアを止めた。 その言葉の意味をファリア以外の者はすぐに理解した。 呼び出された先に待っているのは弁の立つ詠師である。それに敵う術を皆は持ち合わせていなかった。 そして異端と認定されれば禁書指定となり本は回収され、本人は悪くて投獄、良くて監視といったところだ。 このユリアシティにもその疑いは向くだろう。 そうなれば計画は大幅に遅れてしまう。間に合わないかもしれない。 だが、ティアならその血が盾となってくれる。 聖女の子孫である彼女を捕えるなどできやしない。「私なら大丈夫よ。むしろ諸手を挙げて出迎えてくれるでしょう」「ですが…」「安心しなさい、ファリア。教団に所属すれば私も表立って守ることができる。ヴァンも力になるだろう」 テオドーロ言葉を聞きファリアは愛弟子と周囲の皆を見比べ、分かりましたわと小声で返事をした。 それ以外に取れる術はないことを彼女はようやく理解した。 ファリアの賛同を以てティアが博士の弟子として出向くことが決定した。 そしてティアは障気中和薬に関する論文を書き、ルーティシア・アウルの名で発表した。 ルーティシアはティアの響きが入るという理由で付けた。 本当はファリアと連名で出したかったのだが拒否されてしまった。 ティアが外殻に行くことを理解はしてもやはり思うところがあるようだった。 なんとか宥めすかしてようやく彼女の機嫌が直ったころには、準備が整っていた。 ユリアロードの譜陣の前で皆が見送りに来てくれている。 6年前、兄を見送ったときを思い出す。 あれから随分と時が経ち、そして自分も変わった。 ユリアシティの地下に眠っていたモノを起こしたことでこの人たちと出会えた。「ティア、外には気をつけるのよ」「魔物に出会わないようにな」「いじめられたらこの瓶を投げつけるんですよ」「手紙を書くからね」「青い海と空は一見の価値があるぞ」「お守りだ」「外では譜術が使い放題だよ!」「風邪をひかないように」 皆口々に、話しかけてくる。笑おうと思っているのに涙があふれてきてしまう。 そんなティアをファリアが抱きしめた。「いってらっしゃい、ティア。あなたの帰る場所は此処よ」「その通りだ。ダアトで外を見てくるといい」 その言葉に強く頷き、ティアはハンカチで涙を拭いて笑う。 そして譜陣の中に踏み入れテオドーロの隣に立ったティアに皆が手を振る。 さあ、行こうかとテオドーロが告げると譜陣が青く光り輝く。「「「いってらっしゃい」」」 その声に振り返りティアは大きく手を振った。「いってきます!」 兄と共にいずれ此処に帰ってくる。 見捨てられた大地。忘れ去られた街。 それでも私の故郷だ。 此処に帰ってくるためにも私は前に進む。 例えその先が茨に閉ざされており、血が流れるとしても―――。 ND2012 ダアト・ローレライ教団本部 呼びだされた先には大詠師と数名の詠師、それに研究者らしき人物がいた。 テオドーロはユリアシティの関係者だからと臨席も許可されなかった。 研究者の質問にティアは淡々と答え、教団の教えを否定するつもりはないと説明する。「では、なぜアウル博士本人が此処にいないのか!? 教団に対して思うところがあるからではないか!」 唾を飛ばさんばかりの勢いでバーンハルト詠師はティアに問う。「ご存じのとおり私の師、アウル博士はユリアシティの生まれです。師は生まれつき肺を始めとする器官が弱く年の半分はベッドから離れられません。 もしも博士をこのユリアシティよりも高度が高い外殻大地に連れてくれば、すぐに体調を崩し死んでしまうでしょう」 ティアは冷静に用意していた答えを口にした。 魔界と外殻大地には数千メートルの高度の差があり、訓練をしなければ高山病にかかってしまう。 これは自明の理である。だからこそティアが論文を発表する時間も稼ぐことができた。 それからもバーンハルト詠師の詰問は続く。 果ては教団の教義やユリアの教えに関しての問いが飛び出し険悪な雰囲気になってきた。 その意地の悪い言葉に対してもティアは満点の返答をする。 そもそもそのような基本的なことはユリアの子孫であるティアには必須の知識である。 魔界で詠師も務めるテオドーロに散々叩きこまれた。 そうして彼の顔が怒りで赤くなり、他の詠師が白けた様子を隠さなくなったころ後ろの扉が騒がしくなった。 審問中はよほどのことがない限り妨害が入るはずがないのだがどうしたのだろうか。 そうティアが疑問に思っていると覚えのある声が聞こえてきた。「私の妹を召喚してどうするつもりですかな」 その言葉に一気に室内はざわついた。 ヴァン・グランツの妹と言うことはユリアの子孫ということを意味する。 聖女の子孫を異端と疑うのは詠師の常識から考えればありえないことだ。 欠伸を繰り返していた詠師が人のよさそうな顔をしてティアに尋ねる。「ルーティシア・アウルと言ったね。君はグランツ響将の妹なのかい?」「はい」「しかし君はアウルと名乗っていたね?」「弟子として認められたときこの姓をもらいました。 この場に私は博士の弟子として召喚されたのですから、アウルと名乗るのが適当だと判断しました」「ふうん。でも、なぜそのことを今まで話さなかったんだい?」 とても面白そうに彼はティアに聞く。 さっきまで声を張り上げていたバーンハルト詠師は黙ったままだ。 その様子を見て彼は喜色を隠さなかった。大詠師モースの腰巾着をやりこめることができる絶好の機会である。「私は祖父のグランツ詠師から聞いていると思っていましたので」「おやおや、私は彼女がユリアの血筋だなんてことはさっきまで知りませんでしたよ」「わしも初耳ですな。グランツ詠師の同席を拒否したのはどなたでしたかなあ」「ああ、それなら確かバーンハルト詠師でしたね」「私もっ、その子供がユリアの子孫だなんて知らなかったっ」「しかしねえ、此処にグランツ詠師はいらっしゃらないんだよ」「バーンハルト詠師は聖女を貶めたかったのかのう?」「私はユリアを汚すつもりなどないっ」「だが、君は彼女を召喚し先ほどまで執拗に粗を探しておったのう。まあ、もとからないものを見つけることはできん。聖女の末裔じゃ」「彼女の知識の深さを理解できる良い機会でした。けれども、あなたが彼女を異端であると疑った事実は変わらないんですよ?」 バーンハルト詠師は知らなかったと大きな声で主張する。 しかし二人は聞く耳を持っていないようだ。 導師の代理を務めることもある大詠師の地位は導師を除けば教団の最高位である。 特にいまは導師イオンに代替わりした直後であり詠師の顔ぶれも変わる可能性が十分にある。 大詠師モースの足元を狙うものは多い。何かと口をはさむ彼は前導師エベノスと親しくしていた者に煙たがられている。 彼らとは逆にバーンハルト詠師はそんな大詠師に接近していまの地位を得た。 そんなモースの腰巾着が引き起こした今回の失態。 もはやアイン・S・アウル博士のことなど関係なく、室内は教団内の権力争いの場となっていた。 そんな空気が変わったのを察したのだろう。モースはさっと一つ手を叩き注目を集めた。「この場はここで解散とする」 興が削がれたのか皆その場を次々に離れていく。 バーンハルト詠師の責任はどこか別の場所で問われるのだろう。 ティアは兄に連れられてその部屋を後にした。 ティアは誕生日以来会っていなかった兄の顔を見れたことに満足していた。 にやけながら兄のお叱りを受けて、最終的には呆れられてしまう始末である。 テオドーロが臨席を拒否されたのは想定外だったが、ティアはそんなに動じていなかった。 むしろ焦ったのはテオドーロとヴァンである。 テオドーロはバーンハルト詠師の強硬な態度に出鼻をくじかれた。そしてもう一人の孫を頼ることにしたのである。 ヴァンは部屋で執務をしていたところを突然テオドーロに邪魔をされ、そしてティアが召喚されていると告げられた。 慌てて飛び出し、扉の前にいた騎士の制止を押しのけて割り込んだ。 異端とされたら二度と陽の目を見れなくなる。平静を装っていたものの不安はあった。 そうして必死に駆けつけたというのに当の本人はこうして笑っているのだ。 ヴァンはため息をつきたくなった。 テオドーロも苦笑している。 そんな二人の気持ちも知らずにティアは兄の顔を見ながら髭を生やしていないことに喜んでいた。 一人称が僕から私になり、いつ老け顔になってしまうのかと魔界で心配していた。(出来れば髭を生やさないで欲しいけれども、嫌って言ったら剃ってくれるかしら) 些末なことをかなり真剣に悩んでいた。 後日導師の署名の入った通達が届き、ティアはダアトに留まるように命じられた。 ひいては士官学校に入るようにと入学案内も届けられた。 つまり博士に対する人質であり、また大事な血筋を外に出すことはないということである。 ユリアの子孫であるティアはいずれ入団しなければならない。それは避けては通れない道だ。 予想よりも早かったがそれだけである。 士官学校。 ティアには晴天の霹靂だったが、テオドーロとヴァンにとっては妥当だった。 魔界を出たことがないティアは、魔物を見たことがない。盗賊や泥棒もいない極めて安全なところで過ごしてきた。 いくらファリアに護身術をならっていてもそれは最低限のものである。 これを機に、身を守る術を身につければと考えた。 ティアは入学に当たってグランツという姓とも、アウルという姓も名乗るつもりはないと告げた。 兄とテオドーロに、家族が教団の上層部に居ることで色眼鏡で見られたくないと説明した。 兄はユリアの子孫であることを利用して随分と出世が早い。余計な敵を作っている自覚があるためか反対はしなかった。 教団にしてみれば得体のしれない天才博士の弟子を手元におければそれでいいのであって、またおおっぴらに弟子を捕えていると見なされても困る。 それに彼らにとっては弟子であるティアよりも、ユリアの子孫であるティアの方が価値があった。 異端と認定しかけた博士の弟子がユリアの子孫ということは、絶対に公にしたくないことである。 教団には姓のない人間もそれなりにいる。 親がおらず騎士団に入るしか食っていけない者や、国での権力闘争に負け逃れてきた者。 さらにはやんごとなき身分で、争いから遠ざけるために預けられている者。 姓を名乗らない人間にもこれだけ種類があるのだから、神託の盾騎士団では名前だけしか名乗られなくてもそれに対しては深く追求しない。 偽名や通称がまかり通っているのだからそれだけ実力勝負の場所だということだ。 士官学校ではティアとだけ名乗り、ルーティシア・アウルは研究発表用の名前となった。 ティアは時が来るまでダアトで調べ物をしつつ大人しくしているつもりだった。 ……少なくとも本人は。