気を失うように眠りに就いたイオンの枕元で、リグレットとラルゴは声を潜めながら今後について話し合っていた。「イオン様は和平の仲介を続けると仰っているが、――」 誘拐紛いの方法で連れ去られたまま一度もダアトに帰らないというのはどうだろうかと、リグレットは眉を顰めた。 それをラルゴがまあまあと宥める。その脇腹の傷はティアが治癒をしたため、既に塞がっていた。「なに、構わんだろう。ダアトの外にいた方が封呪も解き易い」 ダアトの人間の9割は大詠師派である。別に導師を敬っていないという訳ではないが、ダアトでの導師の行動は大詠師に筒抜けと言って良い。 8つのセフィロトは世界中に点在している。そこを訪れるためにどれだけの時間と細工が必要か。モースの眼を掻い潜れる環境をそう安々と手放すのは損である。 確かにそうだなとリグレットはラルゴの意見に同意した。「問題は守護役がいないことだ」 キムラスカとマルクトの和平の仲介となると立派な導師の公務である。そもそも導師の私的な部分など皆無に近い。 だが、イオンはアニスしか伴わなかった。そのアニスも何故か現在イオンの側を離れている。 公務であることを示すためにも、また気兼ねなく傍で護衛できるという意味でも守護役は必要だった。 しかし、そう上手くいかないものである。 2年前に第三師団ができてから、そのグリフィンという移動手段は徐々に注目されてきた。訓練をして師団長や副官といった者は嫌でも乗れるようになっている。 特務師団の者も移動を素早く行うためにグリフィンを重宝している。情報部でも訓練し始めている者がいるらしい。 だが、導師守護役の中でグリフィンに乗れる者はいない。 導師が移動するとなると必然的に船や馬車が用意される。導師がグリフィンに乗ることがないのならば、守護役もない。 導師の側にいるのがその役目だが、導師の元へ急がなければならない事態のことを考えていなかったようである。 イオンがこの2年の間、ダアトを余り離れず、アニスを重用してきたことにも関係するのだろう。 端的に言えば、守護役たちは自らを研磨することを放棄していた。そのつけが此処に来て浮き彫りになっている。 リグレットは、これからダアトに連絡して、守護役が残留組と随行組に分かれ合流するまでかかる時間を考えた。 本来なら導師守護役は導師直属で他の介入を許さない。だが、2年前モースがアニスを送り込むことができたように少しずつその箍は緩み始めている。 その崇高な『導師を全てから守る』という精神から実態が離れていっている事実は否めなかった。 リグレットはつい、大きな溜息を吐き、「最低でも3日はかかるな」と呟く。 導師を誘拐されたという守護役の汚名を返上するこの機会。そして、久々の守護役らしい仕事。 イオンの代わりに守護役を纏め上げているエミリは、その調整にかなり苦労するだろう。 リグレットの懸念を察したラルゴは、代案を上げる。「なら、アップルを呼べばいい。あいつなら守護役の真似事もできる」 ラルゴは、自分を支えている副官の名を出した。出来ない訳がないと信頼しきっている様子だ。 リグレットもアップルならと彼女を守護役の代わりとして呼ぶことに頷く。彼女なら1日で此方に来られるだろう。「それしかない、か。師団長はそう自由に動き回れないからな」 もともと師団長が4人も参加しているこの任務自体が異例中の異例なのだ。組織の頂点にいる導師奪還のためだからこそ集まった。 師団長が抜けた穴は副官が頑張って埋めている。ラルゴもアップルを此方に寄こすなら入れ替わりで戻らなければならない。 ラルゴの師団は6000人とリグレットの師団の3倍。その苦労も忍ばれるというものだ。 尤も主席総長の副官も兼任しているリグレットとどちらが大変かというと、どちらも忙しいとしか答えようがない。「後は、イオン様の体調が気になる。……どこかでディストに診せなければ」 レプリカは脆い。ディストとティアの研究のおかげである程度安定していたが、あの死霊使いが連れ回してくれたせいでこの有様だ。 眠っているイオンの顔色は蒼白である。脈拍も頼りない。レプリカに関して詳しくないリグレットではディストに渡された薬を飲ませるぐらいしかできることがなかった。 ティアに診せようかと思ったが、直ぐにティアの知るレプリカはシンクだけだったことを思い出した。ディストを呼ぶしかないだろう。 ラルゴは、どこか悔しげなリグレットに「そうだな」と返事をする。「俺がこれから報告も兼ねてダアトまでひとっ飛びしてこよう」 そう言いながらリグレットが纏めた報告書を手に取って扉に向かう。 本当はリグレットが報告するべきだろうが、守護役がいないいま誰かが導師の護衛に就かなければならない。 アリエッタは、ティアの報告とイオンの命令を受けてエンゲーブへ行った。現地の人からの意見はピーチが、魔物の声はアリエッタが汲み取って仲を取り持つだろう。 アッシュは、タルタロスに自分のレプリカであるルークがいる以上表立って歩けない。今もどこかの部屋に籠っているはずだ。 ラルゴは、これからダアトに戻る。副官のアップルを説得できるのは彼しかいないのだから仕方ない。 他の副官という選択肢はない。ディストやシンクから副官を引き離したら仕事が滞るのが目に見えている。リグレットも師団をパインにずっと任せっきりだ。 結局、リグレットがアップルの到着まで傍に仕え、飛んできた彼女と入れ替わりダアトに戻るという選択肢しかない。 アップルはカイツールかケセドニア、つまり守護役たちが導師の元へ移動してくるまで当分導師の傍だろう。 リグレットはアップルを師団から引き離すことに申し訳ないなと思いつつ、「頼む」と告げた。 ラルゴはどうってことない、というように後ろ手で手を振った。そして思い出したように振り返り、さりげなく口にする。「ああ、アッシュも連れて行くぞ。此処にはルークがいるからな」 イオンは、一晩ぐっすり寝て少し体調が良くなった。寝る前に飲んだ薬が効いたのかもしれない。目覚めてから真っ先にイオンは4人の安否を確認した。 リグレットからアニスの行方が分からないと言われ不安になるも、遺体は発見されていないとの言葉に希望を見出す。 そして、いまイオンは残りの3人を待っていた。 ノックの音に駆け寄りそうになるのを堪えて、「どうぞ」と極力平静を装う。 ルークとティアは牢から出された後適当な部屋で休めたらしく、どこにも疲れている様子はなかった。「おはよう、イオン。倒れたって聞いたから心配してたけど、見た限り大丈夫そうだな」 ルークは無理するんじゃねえぞと声をかける。ティアはイオンを見ると顔を綻ばせ、黙って会釈した。 二人の様子から本当に心配してくれていたことが伝わってきて、イオンは笑顔になる。 ルークはイオンの様子を確認すると、「で、これからどうするんだ?」と直ぐに本題に入ろうとした。 イオンは明確な返事をせず、はぐらかす。「ちょっと待って下さい。まだ揃っていませんから」 しばし雑談をしながら待ち人が現れるまでの時間をつぶす。と言っても共通の話題は少なく、お互いあれからどうしていたのかを語りあう。 そして、現れたのは拘束されたジェイドとその彼を連れたリグレットだった。 応急処置はされていたが、その有様は悲惨そのものである。イオンは、すぐさまリグレットにお願いする。「リグレット。ジェイドの拘束を解いてくれませんか? これでは話ができません」 リグレットはイオンの命令に「しかし彼は、」と躊躇った。 イオンにとってジェイドが囚われの塔から救いだしてくれた王子のような存在だったとしても、リグレットにとっては疫病神でしかない。「僕は二国の和平を結ぶためにここにいるのです。それにはジェイドの協力が必要です」 なおも言葉を重ねるイオンに観念したのか、リグレットはしぶしぶとジェイドの拘束を解く。 安全を第一に考えるなら解かない方が良い。だが、ジェイドには封印術がかかっている。リグレットはおそらく大丈夫と判断し、万が一の場合を考えて傍に控えた。 拘束を解かれたジェイドは、居住まいを正すとイオンを問いただす。ジェイドはイオンの真意が分からなかった。「イオン様、いったいどういうつもりです? 彼女は六神将ではありませんか。あなたは大詠師派といまさらなれ合うつもりですか?」 ジェイドは苛立ちを隠しきれない。ジェイドにしてみれば、六神将は突然襲ってきた敵である。その彼らを昨日の今日で傍に置いているイオンは裏切り者に見えた。 イオンはジェイドの追及に苦笑いをしつつも、彼の言葉を訂正する。「ジェイド。彼らは大詠師派ではありません」「どうだか。現に私の部下を殺し、和平の妨害をしているではありませんか」 ジェイドは部下を殺されたと、牢を出てから此処に来るまで騎士団の者しか見なかったことから判断した。 それに、自分が襲撃者なら目撃者は皆殺しにしておく。それがセオリーだ。「私たちは誰も殺してなどいない。重傷者はいるが一命を取り留めている。憶測で物を語らないことだな」 リグレットは即座にジェイドの推測を否定する。その物言いが刺々しくなってしまうのは仕方がなかった。 ジェイドが導師を手引きしてくれたおかげでダアトは大混乱。便乗して騒ぎを大きくする者もおり騎士団の者は休む暇もない。 寒空の下グリフィンに何時間も乗っていなければならなかったのも、今現在積み上がっていく書類の山も、全て彼のせいと言っても過言ではない。 リグレットの冷たい視線を気にも留めず、ジェイドは、「生きて、いましたか」と噛み締めるように呟いた。 そして、その部下の生存という吉報を安堵と共に一瞬で処理すると、毅然とリグレットにダアトの所業を突きつける。「しかし、殺していなければいいとでも? マルクト軍籍の陸艦をダアトが襲ったことに変わりはありませんよ」 国際問題ですよと、ジェイドは自分の行動を棚に上げて指摘した。 それをリグレットは馬鹿にするように笑って肯定する。「そうだな。確かに我々がマルクトの軍を襲えば一大事だろうな。私たちは賊に囚われていた導師をお救いしただけだ」 その何か含む所のあるリグレットの言葉にジェイドは眉を顰めた。 リグレットは神妙な顔をして、本当に残念だというようなそぶりをしてみせる。「悲しいことに、ダアトとマルクトの間で情報の行き違いがあったようです。 我々より先にマルクトが導師を賊から救出されていたとは思いもしませんでした。勘違いをして申し訳ありません」 まさに慇懃無礼といった様子で形だけの謝罪をジェイドに対してリグレットはした。 その真意が分かってジェイドは奥歯を強く噛む。ダアトはこの一件を有耶無耶にするつもりなのだ。不幸な事故として処理するつもりなのだろう。「導師誘拐という信じられない出来事を前に我々も動転していたようです。 まさかローレライ教団の最高指導者であるイオン様を浚ったのがマルクト軍であるはずがありません。そんな不届き者はどこにもいませんよね?」 そこで初めてジェイドはダアトを怒らせたことに気づいた。そして、導師という存在が諸刃の剣であったことにも。 後悔しても遅く、ジェイドは短くリグレットの念押しに、「ええ」とだけ答えるしかできなかった。 否と答えれば、導師誘拐という罪はマルクトという国家のものになる。 それはタルタロス襲撃よりも非道な行いで、もしも事が公になれば罪を問われるのはマルクトの方であることをリグレットの態度からジェイドは察した。「リグレット、もういいでしょう?」 見ていられなくなり、イオンは助け船を出す。 それを受けてリグレットは、「失礼しました。イオン様」と言って引き下がった。 当初イオンにとって、和平はあの変わりない生活から抜け出すための口実でしかなかった。 だが、今は違う。イオンは、二国の和平を成立させることを心から望んでいる。 短い旅の間で人々に平和な時代を齎すことが導師である自分に出来ることだと考えを改めた。 こうして自分一人が欠けただけで大騒動となったことに責任を感じつつ、一方で自分の存在価値があることに喜びを覚えた。 自分はレプリカだが正真正銘、導師である。 イオンは、柔和な笑みを浮かべながらジェイドを呼んだ本当の理由を話す。「ジェイド。六神将には六神将の考えがあります。そして彼らは和平の締結を望んでいます。 そのことは僕がこの目で確認しました。――ジェイド、僕を信じてくれませんか」 イオンはじっとジェイドの瞳を見つめる。 その揺るぎない視線にジェイドは折れた。元より和平の締結を望むならば頷くしかない。 ジェイドは苦虫を噛みつぶしたような顔をしながら、「あなたを、信じます」と口にした。 マルクトが提案したはずの和平はいつの間にか仲介者であるダアトが主導になっている。 そして、それに気付いていてもジェイドにその流れを取り戻す術もなく、抗議など以ての外であった。「ありがとうございます」 イオンはほっと顔を綻ばせ、本当に嬉しそうに礼を述べた。 一気に部屋の中の雰囲気は緩む。 話が終わるのを待っていたルークはイオンに尋ねる。「それで、俺は?」 その一声にイオンは思い出したようにルークに向き直る。「僕は、ルークを捕えるつもりはありません。僕と一緒にキムラスカに行きませんか? ルークが傍にいてくれれば心強いんです」 リグレットはイオンの説明にキムラスカからの依頼を受けていることを付け加える。 「無論、断られてもその身の安全はダアトが保証します。既にダアトはキムラスカからルーク様の保護を要請されていますので」 その一言にルークは安堵の溜息をつき、直ぐに返答する。 父上や叔父上がそう判断したのなら、それが最善なのだろう。そうルークは考えた。「そっか。ダアトに頼んだのか。なら、俺はイオンと一緒に帰るよ」 そのルークの返答にイオンは、「ありがとうございます、ルーク」と嬉しそうに告げる。 リグレットは室内にいるもう一人、ティアに向けて問いかける。「ティア。お前はどうするのだ?」 たとえ一介の技手とその素性を偽っていようとその血まで変わる訳ではない。 イオンとルークの騒ぎに隠れて噂になってはいないが、上層部にはその安否を確認するようにリグレットは言われている。 いつまで技手をやらせているのかという声も上がっており、おそらく帰れば何らかの沙汰がある。当然、神託の盾騎士団は退団、最悪の場合、結婚が用意されているだろう。 無論、そこまでの間にテオドーロやヴァンの介入があるだろうが、そういう可能性もあると言うことだ。「俺、ティアも一緒がいい」 ティアが返事をする前にルークは横から口を挟んだ。ティアの血筋を知ってのことではない。 ただ、このままティアがダアトに帰ればキムラスカから身柄の引き渡しが要求されるだろうと思ったからである。 余程の理由がない限りその要求は断れない。そうなれば、ティアを待っているのは悲惨な結果だけだ。それを阻止できるのは当事者である自分だけだとルークは考えた。 実際はヴァンやモースも動いており、今回の一件は過失ということで処理されそうなのだが、そのことをルークは知らなかった。「ルークとティアは仲がいいんですね」 即座にティアと離れたくないと告げたルークの姿から仲の良い友人だとイオンは判断した。 ルークは、「そんなんじゃねえよっ」と過剰に反応してそっぽを向き、良く分かっていないイオンを困らせてしまう。 リグレットはそんな微笑ましい光景に目を細めながら小さな声で確認する。「いいのか?」 ティアはグリフィンに乗れる。直ぐにダアトに帰ろうと思えば帰られる。 そう訊ねるリグレットにティアは静かに答える。「屋敷まで送ると約束しましたから」 ティアはタタル渓谷でした約束を持ち出した。元から傍を離れるつもりはない。 これから先はティアにとって未知の世界である。その当たり前のことが嬉しく同時に不安だった。 それでも、自分の手で未来を切り開き、掴み取ろうとティアは思った。 城壁に囲まれた街、セントビナーにアニスはいた。行き交うダアトとマルクトの伝令に場所を移動することにする。 六神将は大詠師派だ。きっとモースが彼らを動かしたのだろう。アニスは、全てモースのせいだと思った。そのスパイである自分も同じ穴のムジナだとも。 モースに報告する度にアニスは落ち込み、両親のためなのだから仕方ないのだと自分に言い聞かせる。そして、また同じことを繰り返す。 セントビナーでアニスはジェイドに託された親書の内容をモースへ伝えた。こうしてモースの利になる存在だとアピールして、借金がこれ以上増えないように努力する。 吐き気がする行為だ。それでも止めることはできない。ルークと結婚したときのことを夢見てみる。そうでもしなければやっていられない。 大佐と合流するときに悟られないようにしなくちゃなあと思いながら、アニスは門をくぐり街の外へ出た。 一つしかない街の出入り口で、ツインテールの少女と短い金髪の青年はすれ違う。 マルクトの雰囲気に彼は自然と馴染んでいた。「無事でいて欲しいんだけどな」 そう彼は呟くと街の中心にそびえるソイルの木を見上げた。