ティアとルークの二人は牢の中で大人しくしていた。 幸い荷物は取られなかったので、昼食にと宿の人に作ってもらったサンドウィッチを食べる。 牢の中の二人の会話は弾まない。ただ機械的に食べ物を口に運ぶ。 ティアは動揺していた。あれだけ介入しておいて今更、ルークの性格が少し変わったぐらいでと言えるだろう。 だが、彼女にとってディストがネビリムを諦めることとルークが和平の協力を断ることは決して同列におけることではなかった。 確かに昔、アリエッタにイオンの死に際を看取らせたとき、彼女は不確実な未来を受けとめようとした。覚悟したはずだった。 結局、彼女がそのときした覚悟は目の前の人物の将来が変わることで、遥か遠くにいるルークの性格のことなど知りもしなかった。 ティアはルークの性格が変わった理由が分からない。それがとても恐ろしく感じる。 彼女は、彼女なりに肝心な部分に触れないよう気をつけていた。ダアトから出た覚えは任務以外では一度だけ。 ユリアシティもこれまで通り影に徹しており、ケセドニアの会社もオベロン社としか取引を行っていない。 バチカルの高いところで軟禁生活を送っているルークに影響を及ぼす。その心当たりはなかった。 それぐらいでぐだぐだ言うなら初めから何もしなければ良い。だが、それはティアにはできない相談だった。 六神将を見捨ててヴァンだけ心配することは、ヴァンに生きて欲しいと願ったときからできなくなった。 ティアは兄を救うことに対して罪悪感を持っている。 ティアは、確実に世界の危機を乗り越える方法を知っていた。それには犠牲が付き物だが、そこさえ目を瞑ることができれば良い。 世界のことを考えるならば、何もしてはならなかった。本当にギリギリのところで世界は救われたのである。 ならば、何か一つでも異なればそれが覆る可能性がある。ティアがしてしまったことは、しようとしていることは、そういうことだ。 世界の滅亡が回避できないと確定して、ティアがそれを妨害したと知れば大多数の人は彼女を詰るだろう。 それをおぼろげに理解しているティアは、兄を救うことを諦められない自分を許す機会を探していた。 彼女は、アリエッタたちを見捨てることができない。物語の半分の比重を占める彼らを救うことは、自分の罪悪感を減らすことに繋がる。 無論、彼らに対して好意を抱いたからこそ手を差し伸べたことも事実だ。だが、その裏には本人も気付いていないそんな自分本位な理由があった。 なんにしろティアはヴァンを救おうとすると同時に、死ぬはずだった人を救うことを限界まで諦めないだろう。 翻って、ルークの変化はそんなティアを叩きのめす。 彼は物語の主軸である。その彼の性格が変わっているということは、それだけティアの知る未来から現在が離れていることを意味する。 その原因が自分かどうか、判断はつかなかった。だが、関係ないと断言できない以上、ティアの疑いは晴れない。 不透明な未来はティアの期待と不安を煽る。そして、万が一の場合を考えると怖くなる。その感情をどうにか小さな箱に押し込めて鍵をかけた。 ティアはルークの性格の違いから必死で目を背けようとした。共通点を探して安心しようとしていた。 だが、此処に来て決定的な一打をティアは受ける。 もう、目を逸らしてはいられなくなった。 どうしてこうなったのか、理由が分からずこれからどうなるのかとティアは考えた。 アッシュとルークの出会い方が変わるかもしれない。ジェイドは軍艦を早期に諦めるかもしれない。 和平の使者にルークがいないのなら、その足取りはもっと遅くなるかもしれない。 そうなったらその次はどうなるのだろうか、とそこまで考えてティアは大きく息を吐く。 全て仮定の話でしかない。こうしていろんな可能性を列挙してもその判断材料が揃っていないのだから無意味なのだ。 膝を抱え、その上に頭を乗せる。横目でティアはルークをじっと観察していた。 ルークは右腕を枕にして壁にもたれかかり、足を組んだまま空いた手でリンゴを投げている。 真っ直ぐ上に投げ出されたリンゴは、重力に従いルークの手のひらに戻ってくる。その軌道をティアはぼうっと眺めていた。「ん? なんだ?」 ルークはティアの視線に気づき、声をかけた。「ううん。…………ルークって貴族らしくないわね」 ティアは、なんでもないのと言おうとして止め、代わりに他の質問をした。 ルークは、そのティアの問いになんだそんなことか、というように笑みを零す。「俺は箱入りだから? 貴族らしさなんて知らねーし」 ルークは自分の境遇を揶揄した。貴族同士の交流などしたことがない。しいて言えばナタリアだが、彼女はその前に王族らしかった。 勿体ぶった話し方など日常会話で使ってなんていられない。でも、20歳になったらそうしなければならないのだろう。 めんどくさいなと考え、ルークは軟禁生活に慣れ切っている自分を知る。その屋敷に帰れるのはいつになるか。目処も立っていない。 まさかマルクト国籍の軍艦がバチカル港に出入りする訳ないし、自分はこれからどうなるんだろうなあと他人事のように考えていた。「もっと我儘だと思っていたわ」 ティアは、正直に語った。そういう性格をしていると思い込んでいた。 ルークは、「そういう奴もいるんじゃねーの」と一般論を述べる。貴族らしくないと言われれば、そうなのかとしか思えない。「そうよね。……でも、ルークはルークよね?」「まあ、俺は俺だけど?」 ルークは、ティアの謎かけのような問いに首を傾げなら答えた。 ティアは、そういうことでいいじゃないかと割り切ることにする。今更、今更なのだ。 いま悩んでも意味がない。それよりも現状を受け入れることの方が大事だ。「なら、改めてよろしく。ルーク」 ティアは、けじめとして一言告げた。 それにルークは、何がよろしくなんだと疑問に思ったがとりあえず、「ああ」と応えておいた。 その返事にティアが満足して、ルークが気を紛らわそうとリンゴを一齧りしたときのことである。 警報が鳴り響き、急に部屋の外が騒がしくなった。 何かが起こったのだろうかと二人が顔を見合わせていると、急に艦が揺れる。外の喧騒はますます大きくなった。 敵に襲われているのだろうか、危ないのではないだろうか、と考えても牢の中ではどうしようもない。 ルークは浮かした腰を下ろし、リンゴを再び食べ始める。シャクッという音がとても場違いなものに聞こえた。 ティアはオラクルが来たのだろうかと考えていた。そうしているうちに、リグレットの声が牢の中にも流れる。『――私は、神託の盾騎士団主席総長付副官リグレットだ。我々は行方不明の導師を保護しにきている。 栄誉あるマルクト軍兵士に告ぐ。導師誘拐に加担していないのならば、――』 ルークは、そうかダアトが動いたのかと納得する。イオンが此処にいるのだからそれもあり得るだろうと思った。 ダアトと交渉するのも一つの手かなと考えつつ、食べ終わったリンゴの芯をその辺に捨てる。 規則正しい足音が聞こえ、一つ一つ部屋を見回っているようだ。ティアは立ち上がり警戒した。 タルタロスの乗員は皆殺し。いくらダアトの制服を着ていても安心はできない。 カチャッと鍵を開ける音がして、その扉が開かれる。現れた兵士は、神託の盾騎士団の者だった。 その服の意匠から所属している隊が第三師団と分かると、ティアは当然のように告げる。「私は、第五師団付技手のティア奏長です。師団長にお話ししたいことがあります」 制圧した軍艦の捕虜に言われ一瞬戸惑った兵士は、「ちょっと待ってて下さい」とだけ言い同僚を呼んだ。 そして、アリエッタはその付け加えられた報告に驚き、ティアの元を訪れると二人を牢から出す。叫びながら。「ッ! ティア、なんで此処にいるの。シンクはティアが消えたって心配してたのに」 アリエッタは大きな目を潤ませている。アリエッタがぎゅっと人形を抱きしめる度に、ティアの罪悪感は掻き立てられた。 ティアは何と言えばいいのか分からず、「成り行きかしら?」とだけ言う。 アリエッタは、その説明することを放棄したティアの様子に釈然としなかった。無言で訴える。 ティアは、その口以上にアリエッタの心情を語っている瞳に怯み、話を変えた。「あのね、アリエッタに頼みたいことがあるの。後でイオン様も仰るかもしれないけれど」 アリエッタは、「イオン様も?」と訊き返す。 ティアは大きく頷き、チーグルの森でのことを話した。 チーグル族とライガ族の争い。それにダアトが介入したこと。 ライガ族はチーグルの森のもっと奥、キノコが豊富な森に移り住む予定であること。 卵が孵化するまでの間、ライガ族の食べ物はダアトが提供すること。「それで、アリエッタに人と魔物の仲介を頼みたいの」 駄目かしらと訊ねるティアに、アリエッタは少し迷い、「……大丈夫……」と答える。 ティアは、自信のなさそうなアリエッタを喜ばそうと彼女が必ず笑顔になる話題をふった。「アリエッタのお母さんは、とても強いね」「……ママに会ったの?」 アリエッタは信じられないといった様子で目を見開いた。そして、傍にいたライガさんに訊ねる。 ライガさんは、ティアの制服を嗅ぎアリエッタに何か告げた。 ティアは、近づいてくるライガさんでクイーンのことを思い出す。怯えそうになるのを堪え、アリエッタに母の言葉を伝えた。「久しぶりにアリエッタに会いたいって」 その言葉を聞くと、アリエッタは顔を綻ばせる。兎のお人形は相変わらずお気に入りのようだが、それに縋っている訳ではない。 無邪気に笑うアリエッタ。嬉しそうに母のことを語るアリエッタ。生まれてくる妹のことを話すアリエッタ。 これで良かったのだと、ティアは心の奥底で呟いた。後悔するのは、結果が出てからでいい。 それからティアは、バチカルで置き去りにしてしまったグリフィンの事を訊ねる。 グリフィンは一定の時間、騎手が帰ってこなかったらダアトに戻るように訓練されているが、それでも心配なものは心配だ。 アリエッタが言うには、きちんと戻っているらしい。ティアはホッと一安心する。 廊下を三人と一匹で会話をしながら進んでいると二人の兵士に抱えられたジェイドとすれ違った。 ジェイドはアニスを逃した後、ラルゴをできるだけ引きつけておこうと奮戦した。 軍艦の廊下という狭い場所では、槍と大鎌では槍に分がある。だが、ろくな譜術を使えない譜術師とわき腹を傷めた大鎌使いではまた違う。 さらに言うなら、ジェイドは封印術を受けた直後でその違和感を誤魔化しながら槍を振るっていたのである。 ラルゴはその虚勢がすぐに分かった。一瞬で間合いを詰め、鳩尾に一発。それでジェイドは気を失った。 そのままジェイドは捕虜として、ティアとルークがいた場所に連れて行かれようとしていた。 数時間前ルークが協力を求められていた部屋で、今度はイオンが同じ目に遭っていた。「イオン様、世界を救うためなのです。どうか我々に力を貸してくれませんか?」 リグレットはイオンに頼みこむ。ラルゴがイオンを保護してから直ぐのことである。 イオンは、その突然の申し出に驚き理由を訊ねた。「和平の仲介をする。このこと以上に優先しなければならないことなのですか?」 リグレットはイオンの凪いだ瞳を目にして疑問を抱いた。 このレプリカは此処まで我が強かっただろうか。今の彼はいかにも導師らしい。 彼は偽者。分かってはいるが、仮にも導師であるイオンに対して命令することはリグレットには躊躇われた。「ユリアシティの調べによるとパッセージリングの耐用年数が限界の様です。何もしなければ、外殻大地が崩落します。 魔界には障気が蔓延しているので、おそらく人類は滅亡するでしょう。 我々は密かに外殻降下の機会を伺っていました。イオン様がパダミヤ大陸の外に出た今が、大詠師の眼から逃れセフィロトの封呪を解く絶好のときです」 リグレットは丁寧に説明をして、ダアト式封呪を解いて欲しいと願い出る。 イオンは少し考えてから、そのお願いに頷いた。 それは導師である自分にしかできないことだから。 それで世界が救われるならと考えた。 タルタロスはシュレーの丘の側に止まり、イオンはその奥のセフィロトへ向かった。 帰ってきたイオンは真っ青な顔だったが満足そうな笑顔を浮かべていた。