タルタロスはマルクト軍の陸上装甲艦である。陸上というが水上も走ることができる最新鋭の、厳密に言えば水陸両用装甲艦だった。 ギリシャ神話の奈落の名を冠する彼女は優雅にエンゲーブ近郊の森からカイツールへ向けて走る。 無駄を削り取り風の抵抗を少なくした設計と、その譜術を展開するための譜陣はそれが戦争のための兵器であることを考えさせないほど美しい。いわゆる機能美というものだ。 白い胴体と帆。紡錘円状の艦から伸びている突端。相手の艦を突き刺すためのデザインさえ何処か洗練としたものを感じさせる。 甲板など至る所に描かれた譜陣は、攻撃と防御のためのものと分かっていてもなお軍艦に似つかわしくない絵画のようだった。 通された先はさすがに客船のように豪華ではなかったが、それでも上等な部類に入る部屋なのだろう。 軍艦であるためその内部は客船のようにはいかない。足元が埋もれるほどの絨毯や身を任せたくなるソファー、煌びやかな家具など一切ない。 どう誉めても簡素なという形用しかできない部屋である。それでも軍艦ということを鑑みればマシな方なのだ。 部屋の奥の椅子にルークは腰掛け、その横にティアは立つ。正面にはジェイド、イオン、それにアニスが並んだ。「第七音素の超振動はキムラスカ・ランバルディア王国王都方面から発生。マルクト帝国領土タタル渓谷付近にて収束しました。 超振動の発生源があなた方なら不正に国境を越え侵入してきたことになりますね」 ジェイドは国境侵犯の罪を問う。だが、その正体不明の第七音素の発生源が二人であるという証拠はない。 それを分かっていてもジェイドは二人を手に入れておきたかった。正確には王族の血を引くルークを。 当のルークは、ジェイドの言葉に何の反応もしなかった。それをアニスが茶化す。「無言っ! 大佐、嫌われてますね♥」「傷つきましたねえ。ま、それはさておき。ルーク。あなたのフルネームは?」 とうとう問われたかと思い、ルークは腹をくくることにした。嫌な予感というものほど当たってしまう。 正体がばれているのなら隠す必要もない。できれば相手が信用できるかどうか、すぐさま殺害という思考回路をしていないことぐらいは知りたかった。 だが、それもこの状況では無理な注文である。ルークは咳払いをして、背筋を伸ばし、父上や師匠の姿を思い描きながら口上を述べる。「俺はキムラスカ・ランバルディア王国公爵、クリムゾン・ヘアツオーク・フォン・ファブレが一子、ルーク・フォン・ファブレだ。 その超振動はティアとの間で偶然発生してしまったもので、意図したものじゃない。遭難したようなものだ。拘束は行き過ぎだぞ」「キムラスカ王室と姻戚関係にあるあのファブレ公爵のご子息……という訳ですか」 ジェイドは確認するようにルークの名を口ずさみ、考え込んだ。その横でアニスは「公爵♥ 素敵♥」と呟き、その地位と身分が示す資産に反応する。 15年前のホド戦争に出兵したジェイドは王族の特徴を知っている。戦場で赤い髪を見たら狙い撃てと教えられたのである。 本物は赤い髪に加えて緑の眼を有していることも、その二つの色を持つ者が少なくなっていることも知っていた。 軍は、キムラスカ王族が自滅するのと自分たちが彼らを滅ぼすのとどちらが早いかと揶揄している。 その数少ない王族に関してピオニーの側にいたジェイドは、嫌でも詳しくなった。だが、極端なほどルーク・フォン・ファブレの情報は少ない。 国王の息女、ナタリア殿下と婚約しており、次期王の可能性があるにも関わらずである。 殿下は精力的に慰問や寄付などを行っていると聞くのに、その相手はいるのかどうか存在さえ疑われ始めていた。 そして、生きているとしても公に出せない理由があるのだろうと推測されていた。何か身体に異常があるとか、もしくは白痴だとか。 だが、蓋を開けてみれば五体満足。吃音が喋れないとかでもなく、いたって正常。血の澱みで疾患があるようには見えなかった。 本当に本人なのかとジェイドは疑いの目で見てしまう。そうジェイドが考えていた間に、イオンは既に決心していた。「大佐。彼らに敵意を感じません」「まあ、そのようですね」 イオンはジェイドの同意を得て、提案する。「ここはむしろ協力をお願いしましょう」 ルークはその話の流れにおやっと内心首を傾げた。きな臭い雰囲気になってきている。色々と何かがおかしい。 これ以上面倒事はいらないとルークは思った。敵国で身の安全も保障されないまま、何かに首をつっこめるほど呑気ではない。 たとえ行方不明の導師がマルクトの軍人と一緒に何か画策しているとしても、追及しないから放っておいてくれとルークは祈った。 その切なる想いを無視して、ジェイドは強引にルークを巻き込む算段を巡らす。「我々はマルクト帝国皇帝ピオニー九世陛下の勅命によってキムラスカ王国に向かっています」 ルークがそれ以上口を開くなと願ってもジェイドは、自分の意志を貫いた。 そして、興味がないふりをしながらも、ルークは皇帝の勅命という単語を聞き逃さなかった。この一連の騒動にマルクトという国家が関わっている。 一瞬宣戦布告という文字が脳裏をよぎり、イオンの性格を考えるとそれはないだろうと否定する。 イオンは戦争が起こると知って、あんな風に構えていることはできないだろう。短い付き合いでもそれぐらいは分かる。 かといって和平という考えには行き着かなかった。どうにも違和感が残るのである。故にルークは、「そうか」とだけ答えた。 丸っきり信用されていないことを感じ取ったアニスは、何とか好感を得ようと機密を漏らす。「戦争を止めるために、私たちが動いているんです」 だからそんな邪険な目をしないで下さいと全身で訴えた。 そのアニスの行動をジェイドは、「アニス。不用意に喋ってはいけませんね」と嗜める。「これからあなた方を解放します。軍事機密に関わる場所以外は全て立ち入りを許可しましょう。 まず私たちを知って下さい。その上で信じられると思えたら力を貸して欲しいのです。戦争を起こさせないために」 ジェイドはルークへ真摯に願い出た。付け加えた一言を彼は心から信じていた。 ピオニーが和平を退けられること、マルクトに道理がある状態で開戦することを望んでいるとは知らず、ジェイドは一人和平のために奮戦していた。 グランコクマからバチカルに着くまで想定されるありとあらゆる妨害を潜り抜け、あるいは排除して此処まで漕ぎつけた。 親書をバチカルまで届けて欲しいというピオニーの期待にジェイドはきちんと応え、ある意味、応えすぎていた。 導師を味方につけるなどという離れ業をやってのけるとは、誰も予想していない。天才は常人と感性が異なっている。「いま詳細は言えませんが、是非とも協力して貰いたいことがあるのです。 説明してなおご協力してもらえない場合、あなた方を監禁しなければなりません。ことは国家機密です。どうかよろしくお願いします」 ジェイドは和平の締結という結果をだすためなら手段を選ばなかった。例えば、相手国の王族をちょっと脅すことぐらい何てことない。 長々と下手に出ても必ず協力してもらえるとは限らないのだから、結果が早く出る脅迫の方が建設的だ、というのがジェイドの考えだった。 さらに言えば、ジェイドはルークに協力してもらえると確信を持っていた。なんせ此処は陸上装甲艦タルタロス、ジェイドの牙城である。 貴族の我が身可愛さをジェイドは熟知している。和平という口実をぶら下げておけば食いつくだろうと考えていた。 結果は分かりきっていると思い、ジェイドはルークの相手を二人に任せる。 イオンとアニスもルークに協力して欲しいと告げ、それにルークは何とも言えない顔をした。 さて、どうしようかとルークが一息つくと、アニスが声をかける。「ルーク様♥ よかったら私がご案内しま~す♥」「ん? でもお前、イオンの守護役だろ。傍離れるのは駄目なんじゃないか?」 森の出口に向かう途中、ルークはティアから神託の盾の制服について教えてもらった。 個人主義な者が多く、強い人間ほど自由に振る舞える。師団長はそれぞれ凝ったデザインの服を着ているらしい。 ティアの制服は技手のものらしく、滅多に着ないものだそうだ。ピンクの制服は導師守護役である。 片時も傍を離れない守護役。導師コレットとその守護役ロイドの軌跡を綴った『響きあう物語』が好きだったルークはその関係を美化していた。 いついかなるときも傍を離れず、何を敵に回しても導師を守る存在。そのアニスはおずおずとルークを見上げお伺いをたてた。「イオン様なら大丈夫ですよ。タルタロスはすっごい艦なんですから。ルーク様♥ どこに行きたいですか?」 守護役が言うならそうなのだろう。そう思ったルークはタルタロスに興味を持った。純粋な力の塊に憧れを持つのは男の性である。 軍艦を見たのは辻馬車ですれ違ったときが初めてだ。中を見られるなど滅多にない。 それに、落ち着けるところでジェイドの申し出についてじっくり考えたかった。「艦橋が見てみてーけど、無理だろ? 風にあたりたいかな」「なら、こっちです♥ ルーク様♥」 アニスはルークの腕を取り華奢な階段へと向かう。 ルークはその案内に従い、ぼうっとしているティアにも声をかけた。「おい、ティアも行くぞ!」「あ、うん」 ティアは貴族らしいルークの様子に驚いていた。なかなか傍若無人というイメージは拭えない。その貴族なルークと親しげなルークのギャップに戸惑ってしまう。 階段を上り、扉を開くとジェイドとイオンがいた。考えることは皆同じようである。真面目な話に気詰まりしていたのだろう。 イオンはルークの姿を見ると、「とんだことに巻き込んですみません」と謝る。ルークは、「いいよ、別に。狙ってたんじゃないだろ?」と直ぐに許した。 そして、ルークは未だ導師が行方不明中であるということを考え、まずいかもしれないと思った。 つまり、マルクトはダアトの承認を得ないまま、もしくは機嫌を損ねたまま導師を連れ回しているのだ。そこまでしてマルクトは平和を望んでいる。 このままだと自分は強制的にでも手伝わされそうだ。頭が痛くなってくる。ジェイドの言う協力とは何だろうか。 マルクトは心から平和を望んでいます、なんていう口添え? それとも父上や叔父上への取り次ぎ? だが、本当に平和を望んでいるならキムラスカにも繋ぎを取っているだろう。爵位も継いでいない公爵子息の自分は必要ないはずだ。 そこまで用意ができていないなら、まだ無理な話ということだ。そもそも自分はずっと軟禁されていて、実績も伝手もない。 そして、ふと気付く。協力してもしなくてもこの陸艦に囚われることには違いないじゃないか。 監禁されないと言っても部屋からそう安々と出られる訳がない。屋敷にいたときと同じように、通せんぼをされるはずだ。 協力すると言えば、身分を盾に叔父上まで話を通せと言われるだろう。協力しないと言えば、人質として扱われるだろう。 どちらも御免だ。ルークは悔し紛れにガシガシと頭を掻く。八方塞である。 ルークはただ平穏無事にキムラスカに帰りたいだけだ。マルクトとキムラスカだけでなく、ダアトまで巻き込んでいる国家機密に関わるつもりなどなかった。 エンゲーブで父上か叔父上からの返事を受け取り、その指示通りに何処からかの救助を待つ。それだけのはずだった。 その予定だったのだが、何の因果かいまルークはマルクトの軍艦に乗っている。面倒になってきて、単純に考えようとルークは深呼吸した。 公爵子息である自分が取るべき行動はどちらか。 マルクト帝国皇帝の勅命を受けているジェイドと導師イオンに協力するか否か。 狭い一室に5人は集まった。そして、ルークの一言に場は沈黙した。「協力はできない」 ルークは、神妙な面持ちでそれだけ伝えた。ジェイドは眉を顰め、アニスは首を傾げる。 何故、協力しないのかといわんばかりである。「そんなっ! どうしてです、ルーク?」 イオンは、悲痛な声で訊ねた。まるでルークが裏切ったかのようだった。 イオンの問いにルークは用意していた理由を述べる。「俺の手には余るから。導師まで関わっている国家機密に、国政に参加していない一介の公爵子息の出番はないだろ。 皇帝の親書まで用意してるんだから、当然キムラスカにも話は通してあるんだろう? むしろ俺が関われば、さらに話がややこしくなる」 身分を重要視する傾向のあるキムラスカで、ルークが率先して彼らを連れてくればファブレ公爵家の顔を立てなければならなくなる。 実際にマルクトと連絡を取って下準備をしていた者たちは気分を害するだろう。 そして、公爵が賛成しているかどうかも分からない案件に此処で回答して、子息が先走っては纏まるものも纏まらないかもしれない。 逆に、こんな偶然に頼らなければならない状況に彼らがいるならば、強引に事を進めるしか選択肢がないのならば、その危うい話に乗るべきではない。 そんな準備で休戦中の二国の関係が改善するはずがないと、ルークは考えたのである。 それに、ルークはナタリアの口癖を思い出していた。『王族は国民を守るために存在しているのです』という台詞を。 紛いなりにも赤い髪と緑の眼を持つ公爵子息。身の安全のために彼らに協力するのは何か違う気がした。 彼らが平和を望んでいるのなら無駄に自分を害しはしないだろう。そこまで考えてルークはジェイドの申し出を撥ね退けた。 ティアは驚き過ぎて何も言えなかった。 ルークの性格が変わっていたが、それでも結局なんだかんだ言って協力すると思っていたのである。 その思い込みは、オールドラントの住人の預言対する盲目的な信頼とどこか似ていた。予定調和のように大半の人間は預言の通りに動く。 だから組織的に動かなければ大勢は変わらないだろうとティアは勝手に決め付けていた。 世界は等しく無慈悲だ。ティアは自分の知らぬところで逸れた流れを甘く見ていたのだ。 穏やかな変化は渦巻く欲望を受け止め形を変えている。その水の如き流れは深く地の底を削り、その炎の如き揺らぎは地の底まで届きそうである。 その源は他でもないティアだったのだが、本人はそれを知らず、それを知る者は口を噤んでいた。 数多の人間を巻き込んでいる歯車は、軋んだ音を立てながら何食わぬ顔で回る。生じた歪みが歯車ごと全てを壊すまで、回り続ける。