イオンは、木の洞の出口をじっと見つめていた。二人でティアをそこから見送ったのは大分前のことである。 ルークは、ずっと立ったままのイオンの姿にめんどくせえなと息を吐き、ずかずかと近づく。 そして、その手を引いて強制的に自分の隣に座らせた。手頃なところにいたピンクのチーグルを鷲掴み、イオンに渡す。 アニマルセラピーという訳ではないが、少しは効果があるだろう。 イオンは慌てて、そのみゅうぅ~と困ったような鳴き声を上げる憐れなチーグルを抱きしめた。 膝の上に乗せるとチーグルはもそもそと自分で居心地の良い場所を選ぶ。それにイオンは堪らず笑みを漏らす。「かわいいですね」「そうか? なんかこうイラッとこないか。ちっちゃいし、すっげえ弱そう」 そう言いながらルークは目の前の黄色のチーグルを弄ろうとした。不穏な気配を感じたそのチーグルは、ポッと火を吐いて隅の方へ逃げる。「うわっ! 火吐いたぞ、こいつ」 驚き、悪態をつくルークにイオンは、「弱い者いじめはダメですよ。ルーク殿」と笑いを堪えながら言う。 イオンの笑いを感じ取りルークはムッとした。「うるせー」と視線をずらす。 存外素直なルークをイオンは好ましいと感じた。出会って一日も経っていないのにとても親近感がわく。 それは同じような生活を送っていてからか、それとも同じような立場に立っているからか。 はたまた同じレプリカということを感じ取っているからか。理由ははっきりとしなかった。 だが、結果としてイオンは不意に、狭い世界から飛び出して得た知り合いであるルークに心の中の葛藤を漏らしてしまった。「ルーク殿。これで良かったのでしょうか」 ルークは、そのイオンの悩みをなんとなく理解した。腐っても公爵子息である。 初めて父に公爵家に関する判断を任されたときは戸惑い、それ関係の本を読み漁り知恵熱を出してしまった。 そのとき出した結論が正解だったかは分からない。たぶん、どこにも正しい答えがないことを敢えて訊かれたのではないかと思う。 間違ってはいないけれども正しくもない。そんな曖昧なものを無理やり区分するのが偉い人なのだろう。 父上や師匠に手解きされているが、命令一つで他人の一生を左右することには慣れない。自分より年下のイオンが悩むのも仕方ないだろう。 ティアを一人で行かせたのは、何もイオンだけじゃない。その方が良いと自分も判断した。 公爵子息として、ついていかなかったのは間違っていない。だが、一人の人間としては、思うところがある。 それでも、自分が傷つけば多くの人を巻き込んでしまう。あの場にいた白光騎士団の人間やヴァン師匠にだって類が及ぶかもしれない。 待つことが仕事。それにもどかしさを感じて、つくづく自分は命令するのに向いていないとルークは思った。 同じような思いを抱えているイオンの心労を少しでも軽くしようと、ルークは務めて軽い口調で助言する。「良いんじゃないのか。ティアは納得しているぞ。 イオンがどうしても何かしたいっていうなら、ティアが帰ってきたときに『御苦労さま』って笑顔で精一杯労えばいいんだ」 礼を言うだけ。その答えにイオンは俯く。「結局、僕はそれぐらいのことしかできないのですね。……僕は、何もしない方が良かったのかもしれません」 自分が希望したせいでティアが危険な目に遭っているかもしれないとなると、イオンは不安で不安でしょうがなかった。 チーグルを救うことは教団のためだ。だが、それで他の誰かが傷つくということをイオンは許容できなかった。 導師の名の下で執り行われる処分も、導師のためにと遂行されている任務も紙一枚で済まされる。 導師とはそういうものだと機械的にサインしていた。初めて今回イオンは“自分で”判断を下し、その影響を視認している。 チーグルを救う、それで良いのか。ライガのことは考えなくて良いのか。 ティアに任せる、それで良いのか。自分は安全なところにいて良いのか。 今回の一件は、チーグルが村の食料に手を出さなければ魔物の縄張り争いとして人には知られもしなかっただろう。 だが、チーグルは人里に下り、幸か不幸かローレライ教団の導師である自分に発見された。聖獣と認知でなければ、チーグルは直ぐに駆除されただろう。 自分はそのチーグルを救おうとしている。だが、それが本当に正しいことなのか分からない。 そして、イオンはティアから聞いたダアトの現状を連鎖的に思い出し弱気になる。 ダアトは今、混乱しているらしい。導師は行方不明と発表され、キムラスカにも連絡が入っているそうだ。 たった一人のために何もそこまでと思うが、確かに誰にも報せずにダアトを出たのは、軽率だったかもしれない。 そこまで騒がせて、迷惑をかけて、自分は一体何をしているのだろう。善い行いをしようと思ったのに、結局、場を混乱させているだけ。 何もせずお人形のままでいれば良かったのではないだろうか。 レプリカが個性を持とうとしてはいけなかったのではないだろうか。 自分はオリジナルのレプリカ。それ以上を求めてはいけなかったのではないだろうか。 イオンは下を向き、ぼんやりと手元のチーグルを眺める。その無垢な愛らしさからもやるせなさを感じた。 ルークは励まそうとして、逆に落ち込んでしまったイオンに焦った。慌ててフォローを口にする。「そんな暗い顔するなってっ! ほら、イオンは導師だしさ。笑ってた方が良いと思うぞ?」 外に出て初めて会った同性の知人。ローレライ教団の最高指導者という地位に就いているにも関わらず覇気がないイオン。 誰かを構うということは新鮮で、ルークは自分とガイが交わした会話をイオンと自分の間で再現する。まるで弟のようだ。 せっかく知り合いになったのだからもっと仲良くなりたいし、落ち込んでいて欲しくない。「……僕は前任者と違いますから。導師と言っても実権は大詠師が握っていますし、導師が僕である必要はないのです」 ルークのその想いは伝わらず、イオンはますますどんよりと影を背負う。 前任者とイオンはわざと比較している相手をぼかし、導師らしく在れないことを嘆いた。 自分は偽者。もしも死んでも、代わりはいる。シンクがいる。その隣にはアリエッタがいるかもしれない。「でも、俺の知る導師はイオンだけだし? 俺はイオン以外が導師だとなんか嫌だぞ」 その何気ない発言にイオンは息を飲み、「ルーク殿」とかすれた声で呟く。ルークの知るイオンは自分だけで、その自分が導師であることは当たり前のようだ。 その余りにも単純な等式にイオンの胸の奥はほんのりと温かくなる。確かに知らない人間からしてみれば、イオンは自分以外考えられないのだろう。 ダアトの小さな世界にいたイオンにはそんなことも分かっていなかった。レプリカなんて存在は極少数の研究者ぐらいしか知らない。 あれこれ悩むよりは、導師に相応しい人間になった方が良いのかもしれない。「ルーク殿。どうすれば、僕はもっと導師らしくなれるのでしょうか?」 空気が変わったことにホッとしたルークは、導師らしさを問われて困りとりあえずイオンの印象を告げる。「イオンは何か押しに弱そうだし、もっと強気になればいいんじゃないか? こう、『僕に逆らうのですか』って感じで。口うるさい奴に言ったらスカッとすると思うぞ~」 結構いい加減なルークのアドバイスにイオンは、真剣に耳を傾け感謝する。「ありがとうございます、ルーク殿」「その殿って奴止めろよな。なんか、こうむず痒くなってくるんだ」 ルークが両手を胸の前で交差して、ぞわぞわすることを伝える。 呼び捨てでいいと言われたことにイオンは一瞬驚いた顔をして、次に破願した。 「はいっ!」と元気一杯に答え、その一言に嬉しさを込める。「ルーク。僕、もう少し頑張ってみます」 噛み締めるようにイオンはルークの名を呼んだ。 花開くようにイオンは微笑む。先程までの様子とは打って変わっている。 なんとなく照れ臭くなったルークはわざとらしく声を張り上げ、強引に話を変えた。「しかし、ティアが心配だな。誰か強い奴がいればすぐに迎えに行けるんだけどなあ」「では、私と一緒に参りましょう」 知らない声が返ってきてルークは振り向き様に誰何する。その質問の答えをイオンが先に言った。「ジェイド!」 ルークはティアの言っていた軍人だとその青い軍服を見てすぐに分かった。 薄茶の髪に赤い眼。眼鏡が嫌味なぐらい似合っている。彼の赤い眼はルークを不躾に嘗めまわした。 ルークはそのとき初めてフードを被っていないことに気付いた。 森の中だからと安心していた自分に舌打ちをしたい気分である。せめてもの抵抗として眼を合わせないようにする。 そのルークの反応にジェイドは詮索をあとにして、とイオンに件のティアの行方を訊ねた。 イオンは、しょんぼりとしながらジェイドの問いに答える。「……ジェイド。すみません。勝手なことをして。彼女にはライガの下へ交渉しに行っているのです」「ライガと交渉、ですか。……それにしても、あなたらしくありませんね。悪い事と知っていてこのような振る舞いをなさるのは」「チーグルは始祖ユリアと共にローレライ教団の礎。彼らの不始末は僕が責任を負わなければと……」 ジェイドは昨日の昼間チーグルを殊の外気にかけていたことからもしやと思い、此処まで探しに来たのである。 まさか何者かに浚われたのではないかとも思っていた。ついその発見に安堵して、苦言を呈してしまった。 そして、普段より悪い顔色に気づき、半ば確信を持ってイオンに問いかける。「そのために能力を使いましたね? 医者から止められていたでしょう?」 イオンはジェイドの的を射た指摘に小さく「すみません」と謝罪した。「しかも民間人を巻き込んだ」 なおも続きそうなジェイドの追及に、ルークは耐えきれなくなり横から口を挟む。「おいっ! もういいだろ。ティアの様子を見に行くなら急ぐぞ!」「おやおや、そんなに付き合っている方が心配ですか?」 話を中断されたジェイドは、半ば反射的にルークをからかった。 それにルークは、「なっ! そんな関係じゃねえぞ!」と素直な反応を返す。 ジェイドは、予想通りルークの若い様子に笑みを浮かべ、人を呼んだ。「冗談ですよ。アニス! ちょっとよろしいですか」「はい、大佐♥ お呼びですかあ」 またもやジェイドと同じように何処からか現れた人間にルークは驚き、そしてイオンやティアと似たような格好をしていることに気づいた。 ダアトの者である。しかし、アニスと呼ばれた彼女はイオンには見向きもせず、ジェイドから何か頼まれている。「えと……わかりました。その代わりイオン様をちゃんと見張ってて下さいねっ」 そう言うとアニスは現れたときと同じようにどこかへと去っていった。 そして、「それではティアという方のところに行きましょうか」とジェイドが言いかけたとき、ティアが帰ってきた。「イオン様、ライガとの交渉に成功しました。彼らは準備が整い次第、この森の奥に移住します」「ご苦労様でした、ティア。これでチーグルも安心できるでしょう」 ティアの報告にジェイドは眉を顰めた。 繁殖期の前に人里近くのライガは刈り尽くすのが道理。害獣を敢えて生かす必要はない。「イオン様、本気ですか? ライガは魔物の中でも人の肉を好む。人里の近くにいるならさっさと殺すのが世のためです」 今から殺してきますといわんばかりのジェイドを止めようとティアが詳細を説明しようとした。 だが、その前にイオンが毅然とジェイドに向かって言い放つ。「この手の被害の対処に関しては最初に発見したものの判断が優先されるはずです。 チーグルはローレライ教団の聖獣でもあります。この一件はダアトが預かります」 神託の盾騎士団は魔物退治から護衛まで幅広い依頼を受けている。当然、その任務中に別件で国軍とかち合うこともあり慣習ができている。 魔物や盗賊の処分については、先に処理した方の判断が優先される。異議がある場合は、その判断材料を提示しなければならない。 なかなか面倒な作業であり、正当な理由があればその前に引き渡されるのでよっぽどのことがない限り覆されないものだ。「分かりました。この一件はダアトに任せましょう。時間もありませんし、被害が出ないのならば構いません」 しぶしぶとジェイドはイオンの言葉を受け入れた。魔物の処分によってイオンの機嫌を損ねる訳にはいかない。 それよりも此処は恩を売るべきと考えた。「ジェイド、ありがとうございます。親書が届いたのなら急ぎましょう。 ルーク。さっきはありがとう。あと少しだけおつきあい下さい」 イオンはジェイドからかばってくれたルークに礼を言い、別れを惜しんでいた。 マルクトとの調整について目処が立ったところで、ティアはチーグルの長も交えて結果を報告する。『話はミュウから聞いた。二千年を経てなお約束を果たしてくれたこと、感謝している。チーグル族は北の森が回復するまでライガに貢物を送ろう』「チーグルに助力することはユリアの遺言ですから、当然です」 そう答えるイオンは、何処か自信に満ちていた。 チーグル族の安全が確約されたことに老チーグルは重々しく頷き、ミュウに向き直る。『しかし、元はと言えばミュウがライガの住み処を燃やしてしまったことが原因。そこでミュウには償いをしてもらう。 ミュウを我が一族から追放する。北の森が回復するまでこの森に立ちいることを許さぬ』「それはあんまりです」 イオンはその余りにも重い処罰に悲しそうな顔をする。 ティアも1年間ではないということに驚愕した。そして、すぐにその理由を察する。ミュウのためである。 ライガが駆除されたならば脅威も去り、1年森を追放することでほとぼりも冷めただろう。 だが、ティアの提案によって長い間ライガの存在を身近に感じなければならない。定期的な貢納は一族全体に負担をかける。 その原因であるミュウの将来は容易に想像できる。非難されて酷使されて、精神的にも肉体的にもぼろぼろになるだろう。『けじめはつけねばならぬ。なに、このソーサラーリングがあれば人の中でも暮らしていける』「契約の証しを。良いのですか? これはチーグル族にとって大切なものでは?」『チーグルは恩を忘れぬ。ミュウはそなたらによく仕えるだろう』 ソーサラーリングを手放せば、チーグルは人の手を借りることができないだろう。 それがチーグルの魔物としての意地であるようにティアは思えた。誇りを忘れたチーグル。魔物ですらないと言い切ったクイーンの姿が思い浮かぶ。 また、ソーサラーリングがあれば仔どもであるミュウも人に受け入れられやすいはずだ。せめてもの餞別だろう。『僕、ダアトで頑張るですのっ!』 ミュウの張りきった声は虚しく響き渡る。空元気は板についているようだ。一族を離れるというのに悲しいそぶりも見せないミュウに心が痛くなる。 せめてこれからの旅の間、ミュウを大事にしようとティアは思った。「それで、イオン様。そちらの二人に紹介してくれませんか。いつまでも警戒されているというのは、いい気分ではありませんので」 一段落ついたところで、ジェイドが痺れを切らしてイオンに声をかけた。 イオンは、それに応じて二人の名をジェイドに教える。そして、ぎこちない様子に二人を安心させようとした。「二人とも大丈夫ですよ。彼はジェイドといってマルクト軍の大佐なんです。僕を此処まで連れてきてくれたのです」 ジェイドはにこりと微笑み、親しげな様子でルークに話しかける。「ティアはオラクルだと見て分かりますが、あなたは? お二人が恋人関係ではないというなら、いったいどういう関係なんです?」「それこそお前に関係ないだろう。もう、いいか?」 間髪いれずにルークは不機嫌そうに答える。 赤い髪と緑の眼に心当たりがありそうな軍の人間から早く離れたいという一心だった。「まあ、そうですね。なら、森の出口までご一緒しましょう。怖い魔物もいるようですし」 ジェイドは気を悪くした様子もなく応じた。その視線はルークに固定されたままであり、見逃すつもりはないようだ。 傍らで聞いていたティアは、いちいち皮肉を付け加えるジェイドに疲れて何も言えなかった。 森の出口では大層なお迎えが待っていた。ずらりと軍人が並び、それだけで威圧感がある。 ルークは眉を顰め、心の中でジェイドを罵倒した。「お帰りなさ~い♥」 アニスのやけに明るい声が、ルークの苛立ちを助長させる。「ご苦労様でした、アニス。タルタロスは?」「ちゃんと森の前に来てますよう。大佐が大急ぎでって言うから特急で頑張っちゃいました♥」 その返答にジェイドは満足そうに頷くと、部下たちに命じる。「そこの二人を捕えなさい。正体不明の第七音素を放出していたのは、彼らです」 その命令に驚いたのはイオンであった。「ジェイド! 二人に乱暴なことは……」「ご安心下さい。何も殺そうという訳ではありませんから。……二人が暴れなければ」 暴れるも何も二人は初めから無抵抗だった。ティアは元からそのつもりであり、ルークは兵を見た瞬間から諦めていた。 はいはいと降参のポーズを取るルークにジェイドは我が子を誉めるように声をかける。「いい子ですね。――連行せよ」 その一片の躊躇いもない命令に青い軍服を着た数人が二人をタルタロスへと連れていく。 ティアとルークは国境を侵した犯罪者として軍に捕らえられてしまったのである。