ティアが目覚めたとき、辺りはもう真っ暗だった。辺り一面に白い花が群生していた。セレニアの花である。 ティアは身を起こし自分の身体に違和感がないことを確かめると、立ち上がり服に付いた土を手で払う。 そして、辺りを見回しルークの姿を探す。もしも分解されたままだったら洒落にならない。 すると、少し離れたところに赤い髪が見えた。ルークである。 一見したところ異常はない。ティアはホッと安堵の溜息をつき、ルークを起こそうと声をかける。「ルーク様、ルーク様」「……。ッ! ……ここは?」 ルークが目を覚ますとそこは異世界だった。屋敷の中ではない。 嗅ぎ慣れない土の匂いに気付き、困惑しながらもそこから記憶を辿る。 ヴァン師匠と稽古をしているときに、変な服を着た伝令が来て、邪魔されたことに自分はむかついていた。 勢いに任せて振るった木刀がその女に当たりそうになって、師匠が庇ったんだよな。 師匠は初心者みたいな自分の失敗に厳しい視線を向けて、ついそいつに謝った。 そしたら、ぞわぞわっと身体の奥から何かが込み上げてくるような、引っ張り出されるような感覚がして……。 それからどうなったのだろうか。 まだ事態が把握できていないルークにティアは訊ねる。「ルーク様、大丈夫ですか? 何か気持ちが悪いとか、頭が痛いとかはありませんか?」「君は……。いや、俺は何も変なところはないけど」 ルークは戸惑いつつも、知らない場所に一人放り出されたわけではなかったことに安心した。 彼女が良い印象を持っていない伝令だとしても、誰かが傍に居るということはそれだけで心強い。「君こそ大丈夫か? 木刀、当たりそうだったし」 ルークは手に握ったままの木刀を確認して、問い返した。「私は大丈夫です、ルーク様。私のことはティアと。 それに、申し訳ありません。私があそこに居たせいでこんな危険に遭わせてしまいました」 ティアは身分のある相手への応対を心掛けながら少し不審に思う。 予想なら「お前誰だよ!?」とか「気分は最低だっ」とかいう返事だったのだが、理性的に話し合えばこうなるものだろうか。「『私のせい』ってどういう意味?」 ルークはティアの逡巡には気づかず、疑問に思ったことを訊ねた。 ティアはその質問は尤もだと思い、つい研究者としての習いか長々しい説明をしてしまう。「はい。今回の現象は擬似超振動による移動だと思われます。擬似超振動は第七音素譜術師が二人揃ってはじめて起きる現象です。 二人が意識して第七音素をぶつけ合うことによって起こるのですが、これは理論上言われているだけで実際に確認されたことはありませんでした。 偶然発生する可能性もゼロではありませんが、それでも信じられません。こうして二人無事なことは、まさに奇跡としか言いようがないことです。 ルーク様は第七音素の素養をお持ちですよね?」 ルークはその説明に圧倒されつつも、ティアの問いに頷く。 まるで音機関を前にしたガイの様だ。こういった場合、下手に逆らわない方が良いとルークは知っていた。 ガイは普段は気配りのできる人間なのだが、専門の雑誌を買って読むほどの音機関マニアである。 一時期ガイは、ルークを同志にしようと洗脳紛いの講習をした。それは熱中できなかったルークにとって、苦行でしかなかった。「あぁ、確かヴァン師匠が俺は第七音素の適性があるって。……ティアは、その、随分と詳しいんだな」 ルークの指摘にティアは、「私は技手なので……」と小さく答える。少し恥ずかしい。 ティアが黙り込み、二人の間に少し気まずい空気が漂う。 ルークは気を取り直して息を大きく吸い込むと、勢いよく立ちあがりティアに尋ねる。「とりあえず、此処がどこだかティアは分かる?」「此処はおそらくタタル渓谷かシュレーの丘だと思われます。このセレニアの花を見てください。 この花はセフィロトに近いところに咲く花です。そのセフィロトの中でこのように草が生え、温暖な気候であるのはこの二か所のみです」 セフィロトのことを知るのは、数少ないのだがそのことは微塵も触れずにティアは場所を特定した。 ティアは魔界出身者であると同時に技手でもあるのでその出所は何とでも言える。ルークはそうなのかとその知識に関して疑いもしなかった。 ルークは記憶喪失である自分は物知らずだと思っており、それが決して一般的ではない知識であっても原因は自分にあると考えていた。 だからこそ、ルークは人に物を聞くことに躊躇いを持っていなかった。「そう言われても分かんねえよ。此処ってキムラスカ?」「いえ、どちらもマルクトです。申し訳ありません」 ティアの暗い表情を見て、ルークは「そうか」とだけ呟く。 ティアはその冷静さに罪悪感を抱いた。常識的に考えて、キムラスカ王族であるルークにとってマルクトは危険な土地である。 それなのにティアは私利私欲のためにルークを巻き込んでいるのだ。いたたまれなくなり、反射的にティアはルークに頭を下げる。「私がバチカルまで必ず護ります。元はと言えば私が――」 ルークは詫びを述べようとするティアの言葉を遮る。「ティアがそこまで気負う必要はねえよ」「しかし、現にいまルーク様は……」 尚も言い募るティアをルークは問答無用で黙らせた。「俺は今、とても嬉しいんだ」 ルークは月を見上げて清々しそうに笑う。自由なのだ。それはルークがずっと願い、諦めていたモノ。 四角い空ではなく、果てなく広がる空。狭苦しい土地に押し込められていない、生き生きとした緑。 此処が何処だろうと屋敷の中でないのなら、そこはルークにとって初めての場所である。 ふわりと風がその赤い髪を撫でる。月明かりを浴びて夜でもよくその赤は映えた。 ティアの視線に気づき、ルークは向き直る。満月を背に、白い花を踏みしめる彼の立ち姿にティアは既視感を覚えた。 せつなく、もの悲しくなる。随分と昔の記憶を掘り返して、思い当った。エンディングのルークの姿だ。 結局あれは誰だったのだろうか。ティアは急に尋ねてみたくなった。「あなたは誰なの?」と。 ティアの知る“ルーク”は、こんな笑い方をしないと思う。もっと呆れるくらい無邪気で、残酷なくらい無知のはずだった。 ルークは、それこそ年相応の青年にティアの目には見えた。ルークは朗らかに笑いながら、ティアに心から感謝を口にする。「ずっと外に出てみたかった。ガイには『本は先人の知恵の結晶なんだ』とか言って強がってたけど、ほんとはすげー外に憧れてた。 20歳になったら絶対に旅に出てやるって決めてたんだ。まあ、その前にこんな形で外に出られるとは思ってもなかったけどな。 俺は今、すごく嬉しいんだ。だから不謹慎かもしんねーけど、……ありがとう。ティア」 ルークの言葉は、とても綺麗で純粋な気持ちの塊だった。それにティアはむず痒い気持ちになる。 ティアはその想いを受け取れる資格をとうの昔に放棄している。どれだけ取り繕ってもティアがルークを利用するつもりであることは事実なのだ。 こうしてルークがティアと共に外に居るということで、それは決定的になったのである。 誰に罵られても毅然と言い返せるつもりだったが、このルークの反応には何も言えなかった。 自分がとても汚いものだと思い知らされる。分かってはいたが、やはりきついものがある。 ルークの言葉にティアは微笑みだけを返した。 ここで罵倒してくれればよかったのに。 そうであればティアは心の中で彼は七歳児と呪文を呟きながら、保母さんを完璧に勤め上げただろう。 だが、実際のルークは良い意味でも悪い意味でもティアの予想と異なっていた。 ルークはじっと自分を見てくるティアの眼差しに照れを覚えた。 頬を掻いてそれを誤魔化し、ふと思いついた疑問を口にする。「なあ、街はどこにあるんだ?」「川沿いにつたっていけば街か村があるでしょう。向こうに海が見えます。迷うことはないでしょう」 考え込んでいたティアはルークの声で気を取り直し、遠くの光景を指し示した。 ルークはその指が示す先に視線を移し、感嘆の声を上げる。「あれが、海。――綺麗だな」 ティアはその言葉に込められた思いの片鱗から、軟禁されているということの重みを感じ取った。 ルークの目に、夜の海はどのように写っているのだろうか。遠くに見える海をルークは眩しそうに眺めていた。 ティアはふと寒さを覚え、用意していたものを思い出し荷物を漁る。そして、小さく畳んでいたマントを取り出した。「ルーク様、こちらを。夜は冷えますので、風邪を召されては困ります」 ティアはルークに上等な方を差し出し、自分は予備の物をはおる。 夜の渓谷は寒く温室育ちのルークには辛いはずなのだが、ルークは渡されたマントを手に渋い顔をしている。 何か不興を買うような真似をしてしまっただろうかと首を傾げるティアにルークはぽつりと漏らす。「敬語、止めてくれねえ?」「ルーク様。私はダアトの一兵卒に過ぎません」 ティアの否定にルークは顔を歪める。屋敷の使用人と同じ対応である。「でも、公式の場以外でなら構わないわ」 付け加えられたティアの言葉にルーク破顔した。 ルークとティアは静かに川沿いに下って行った。眠っている魔物は起こさなければ、襲ってこない。 渓谷を抜け一息をついたとき、近くでガサッと何かの音がした。ティアは瞬時に気を引き締める。「うわっ! あ、あんたたちまさか漆黒の翼か!?」「漆黒の翼? 違うわ。私たち、道に迷ってしまったの」 ティアとルークの後ろに誰もいないことを確認にして、水瓶を持った彼は気を抜いた。「……ああ、二人連れなのか、じゃあ漆黒の翼じゃねえな。漆黒の翼は三人組だもんな」「おじさんは何でこんなとこにいるんだよ?」 ルークは率直に訊ねた。彼は「オジサン、か」と小さく呟き、軽く落ち込みながらもその問いに答える。「俺は辻馬車の御者だよ。この近くで馬車の車輪がいかれちまってね。水瓶が倒れて飲み水がなくなったんでここまで汲みに来たのさ」「じゃあさ、近くの街まで乗せってってくれねえ? 俺、もう疲れちまって、歩きたくねーんだよ」 実際、ルークは疲れで限界近かった。身体を動かすと言えば剣術ぐらいだったのである。 箸より重いものは持ったことないという訳ではないが、箱入りだったのは事実だ。 歩き慣れていないため足の筋肉は張っており、明日、筋肉痛になるのは確定だった。「お客さんか。近くと言えばエンゲーブだが、最終的には首都まで行くよ。どこまで乗っていく?」 夜、こんなところに居るのだ。確実に馬車に乗るだろう。御者は思わぬところで拾った客に、ついているなと思った。 ティアは訝しげな表情をして黙っていた。ルークに対して抱いていた違和感が膨らんでいく。 そうとは知らず、ルークはティアを小突いて質問をした。「確か食材の村だっけ。なあ、村でも鳩ぐらいはいるよな?」「えっ、ええ。ある程度の街や村には必ずいるはずよ。エンゲーブなら必ずいるわ」 ティアの返事を聞いて、ルークは「じゃあ、エンゲーブまで」と言う。 御者は少し残念そうな顔をしてから、「分かった、エンゲーブまでな。二人で6000ガルドだ」と金額を告げる。 ルークはしまったという顔をして、どうしようとティアを窺う。金など持っていない。屋敷の中に居るときはそんなもの必要なかった。 つい調子に乗って会話を楽しんでいたが、金がなくては何もできない。稽古中に飛ばされたルークは身に着けていたものと木刀以外何も持っていなかった。 ティアは苦笑いをしながら、落ち込んだ表情をするルークに代わって御者に声をかける。「少しまけてくれないかしら? 今手持ちが少ないの」「うーん。二人で5000。これでどうだい」 御者はこんな場所に弱そうな二人を放っておくのもなんだかなと思い、金額を下げた。「それなら大丈夫だわ。ありがとうお兄さん」 ティアは笑顔で礼を言い、お世辞を言った。御者はまんざらでもないようである。 ティアが二人分のガルドを渡すと御者は「先に馬車に乗っておきな」と告げ、水を汲みに行った。 二人は言われた通り馬車に乗って席に着く。するとルークは恥ずかしげに言った。「家に着いたら、払うからなっ」 ティアは安心させるようにルークに笑いかける。「旅の間、お金の心配はいらないわ。こう見えて、結構稼いでいるのよ」 確かにティアの収入は同年代の者と比べて多い。だが、障気中和薬はほぼ原価に近い値段で卸している。 技手という専門職だからこそ平均より高い給料だが、そもそも稼ぎが良いからと言って、手元にまとまった金があるとは限らない。 ティアは4年分の貯蓄を事前に貴金属に換金して持ち出している。事前の準備がなければ、母の形見を渡していただろう。 ルークはティアのお金の心配はしなくて良いという言葉をそのまま受け止めた。元から金の心配をするような生活はしていない。 その金の出所までは気が回らなかった。ティアはお金の話題から話を逸らすためにルークに問いかける。「ルーク。本当にエンゲーブに行くの?」「ああ。ほんとは国境のカイツールかケセドニアにでも行った方がいいんだろうけどさ。でも、こんな機会は二度とないかもしれねーし。 それに公爵子息じゃない、ただのルークとしてマルクトを見ることができるのは今回だけだろ?」 ルークは言っているうちに恥ずかしくなり視線を彷徨わせ、「まあ、この旅が少しでも長くなればいいなっていう俺の我儘もあるけど」と付け加えた。 ティアはそんなルークに励ましの言葉をかける。「そう。良い経験ができたらいいわね。聞きたいことがあったらいくらでも聞いて頂戴」「ああ、頼りにしてる。ティア」 それからすぐに馬車は動き出し、疲れていたルークは直ぐに眠りに就いた。 有体に言えば、ルークは浮かれていた。初めて外に出て、ティアという旅の連れも居る。 見たことのないものが溢れ、ルークの興味はそちらに向いていた。道端の雑草でさえルークの好奇心をくすぐる。 初めはどうなるかと思ったが、まるで用意されているかのように問題は解決されていく。 ルークの旅は幸先の良いスタートを切っていたので、ルークはその先の暗い影に気付かなかった。 現在のキムラスカ王国の混乱や疑いの眼差しを向けるティアに全く気を払っていなかったのである。