ルーク・フォン・ファブレの一日は、いつも変わらない。 好きな時間に起き、細々と食事を取り、適当にぶらついて、稀に使用人兼親友のガイと話す。 他の使用人はどこかよそよそしい。身分が違うということは理解しているが、それでも寂しいものは寂しい。 ルークは普通の会話に飢えていた。ガイと庭師のペールは親しげに話してくれる。 それなのに執事のラムダスは二人に話しかけるなとうるさい。半ば意地を張るようにルークは二人から離れなかった。 外に出して欲しい。その希望は叶わないことぐらい身に染みている。 それでも、願わずにはいられなかった。 広い屋敷は外に出ることができないルークが快適に過ごせるように整えられている。 ルークが好きな料理にお菓子。いつでも食べられるように用意されている。 ルークが好きな昼寝場所。晴れの日、中庭の隅の木陰にはテーブルとイスが出される。 ルークが好きな剣術の稽古。お抱えの騎士団の団長がお相手である。 せめて心地よく過ごして欲しいという両親の心遣いだった。 それが分かるからこそルークは何も言えない。ただ鬱屈した気持ちだけが積もっていく。 気が向けば庭で剣を振るって、日影で本を読む。お腹が空けば何か摘み、母上の具合が良ければ一緒にお茶をする。 ルークの義務は何もない。身体の弱い母上も、婚約者のナタリアも公務に出ているのに何故と思う。 そして、ルークは記憶喪失であるという自分の欠点を実感するのである。公爵子息らしく振る舞えない自分は不合格なのだろう。 何も期待されていないのだ。ルークは悔しくて本を読んだ。本の中には無限の世界が広がっていると言われたから。 それは家庭教師が匙を投げたあとの話である。本は屋敷の中しか知らない自分が外を感じられる唯一の手段だった。 ルークに対して国が望んでいることは、聖なる焔の光として繁栄を約束してくれること。 つまり、17歳のときに鉱山の街でルークが死ぬことである。 そんなことは露知らず、ルークは20歳になるときを指を折りながら待っていた。 王命が解かれたら、いろんなところを見て回りたい。ルークは紀行文や冒険譚を好んで読んだ。 森の奥には綺麗な翅を持つ蝶がいるらしい。雪の下に埋まっているというトマトの味はどんなものだろう。 水の都と呼ばれるグランコクマ。山肌に沿って建つ聖都、ダアト。砂漠にある交易の街、ケセドニア。白銀の世界が広がるケテルブルク。 どんなところか想像しようとしても、絵画のような街並みしか思い浮かばない。実際はどうなのだろう。 一週間に一度くらいの割合で家族三人そろって夕食を食べる。数少ない家族団欒の日がルークは楽しみだった。 メイドのお喋りでは、公爵家は貴族にしては家族の仲が良いらしい。父上も母上も大切な家族だ。 厳格だが優しいところのある父上。家を離れているとき、残している家族を気にかけていることを知っている。 城で自分が良く言われていないことぐらい分かる。それでも、父上は時間を作って頭を撫でてくれる。 病弱だが一本芯が通っている母上。ベッドで臥しているとき、身体が弱くなければと後悔していることを知っている。 弟妹がいなくても自分は平気だ。記憶喪失になっても、母上は変わらず抱きしめてくれる。 2年前ぐらいから、クリムゾンはルークにちょっとした公爵家の案件について意見を聞くようになった。 初めは驚いたが、それは事の他ルークにとって嬉しいことだった。それはルークが公爵子息として期待されていることを意味している。 記憶を失う前の自分という幻影は常にルークの周りに纏わりついていた。それを振り払うことができた気がした。 それに、どんな形であれ屋敷の外と繋がっていられることは嬉しい。 ルークを訪ねる客と言えば婚約者であるナタリアか、剣の師匠であるヴァンぐらいである。 ナタリアは王族である自分を誇りに思っている。常に王族らしくと心掛けている彼女のような真似は、ルークはできない。 彼女の話は、外に出られないルークにはとても新鮮で楽しい。別れ際の一言さえなければ、もっと訪れを期待するだろう。 『それでは、次に会うときまでに約束を思い出して下さいませ。ルーク』 じっとルークの瞳をナタリアは真摯に見つめる。彼女はどうにか以前の自分を今の自分から見出そうとしていた。 居た堪れなくなり、ルークはつい目を逸らしてしまう。いつも後になってから冷や水を浴びせられた気分になる。 約束を思い出せない、記憶喪失のままのルークはやっぱり“ルーク”ではないのだろうか。 ヴァン師匠はそんなことを言わない。以前の自分と比べるようなことを絶対しない。 家庭教師に記憶を失う前のルーク様ならと言われ続け、落ち込んでいた自分を彼は励ましてくれた。 『お前がルークだ。それ以外の何者でもないだろう。私がお前をルークだと保証する』 ルークが一番欲しかった言葉をくれた。それからヴァンはルークの特別な人になった。師匠と呼ぶのもそれからである。 身体を動かす剣術も好きだが、ヴァン師匠はもっと好きだ。ダアトで忙しいらしいが時間を作って来てくれる。 毎回その訪問が早く来ないだろうか、その期間が伸びないだろうかとルークは願っていた。 年が明けて屋敷の中は少し浮足立っており、それを肌で感じていたルークは何となく不機嫌だった。 屋敷の中で過ごしているルークには時の流れをいまいち実感できない。ざわついた城下の喧騒も隔離された屋敷の中までは届かない。 少しだけ豪勢な料理と、メイドが口にする新年の挨拶ぐらいしか変化はなかった。浮かれるガイを尻目に、そんなものなんだなと理解する。 それでもその新年というおかげでヴァン師匠がバチカルを訪れているのなら、良いことなのだろうと漠然とルークは思った。 しかし、ルークの幸せな時間は長く続かなかった。朝、突然訪れたヴァンは予定より早くダアトに帰る旨を報告しに来た。 ルークが我儘を言って引き留めても両親に宥められ、師匠にも仕方ないなと苦笑される。 不貞腐れながら、心の奥底ではそんなもんだよなと思う。ヴァン師匠はこんなところで子供の相手をしているような人じゃないんだ。 それでも嫌なものは嫌だ。仕方なく大声で文句を口にして、どうしようもない憂さを晴らす。「なんでヴァン師匠が帰らなくちゃいけないんだよっ!」 導師の行方不明のせいで師匠の予定が変わってしまった。正直、和平の功労者と言われてもピンとこない。 屋敷の中しか知らないルークには戦争の悲惨さと言われても具体的な何かが思い浮かばなかった。 それよりも重要なのはヴァン師匠がバチカルを離れるということである。一日稽古を見てくれると言っても、どうせ夕方には帰ってしまう。 ルークが中庭から空を見上げると、西から東へと流れる雲の下を一匹の鳥が飛んでいた。 空を飛べたらダアトにも行けるのになとルークは思わずにいられなかった。 ティアは海の上を空高くバチカルへとグリフィンで飛んでいた。偏西風に乗って翼は一路、光の王都を目指す。 グリフィンは力強く羽ばたき随分と前にダアトは小さな点となった。上空は風が強く寒い。 マントの袷を直し、温もりを逃さないようにする。身を屈めて抵抗を少なくして少しでも早く着くようにした。 かじかむ手のひらを合わせながら、ティアは後にしたダアトのことを思う。 今度、あそこを訪れるのはいつだろうか。そのとき自分はどんな立場なのだろうか。 ティアはシンクから命令を受けた後、すぐに私室に戻り準備に取り掛かった。 裏地に毛皮を使った保温性の高いマント。予備のマントも小さく畳んで荷物に入れる。 換金し易い貴金属に、携帯糧食を一週間分。譜銃の銃弾も補充し、念入りに道具を揃えた。 伝令にしては大げさだが、伝令だけでは済まないかもしれない。そういう事態になって欲しいと望んでいる。 そして、そのときのためにディストのところにティアは顔を出した。「おや、ティアじゃありませんか。その格好はどうしました?」 いつもの白衣ではなく技手としての制服を着ているティアを見て、ディストは訊ねた。 ティアは肩を竦め、「任務なの」とだけ答えて、すぐに本題に入る。「前に頼んだ響律符の修理はもう終わったかしら?」「あの失敗作ですか? 技術の変遷を知るには良いサンプルでしたけど、戦闘には役に立たないと思いますよ」 ディストはそう辛口の評価をしながらティアがユリアシティから持ち出している響律符を取り出す。 それは魔界行きを条件にディストが修理したもの内の一つである。ティアもディストの評に同意しながら、大事そうにその響律符をしまう。 その響律符の価値を知っているディストは、その光景に違和感を覚えずにはいられなかった。「まあ、普通はそうでしょうね。要は使い方次第ってこと」 ディストはそれをどう使うのだろうかと興味を持った。ティアはディストから見ても変である。 何処か達観していて、未来を知っているように思えるときがある。預言では説明がつかない。 譜業の未来を語るときもそうだが、他にも過去を知っているかのような口調をするときがある。 兄妹そろって人の予想を超えている。そう思われていることを知れば二人が憤慨するようなことをディストは考えた。 それとは別にティアに言っておきたいことがあった。ディストは慌ただしく出ていくティアの背に声をかける。「ティア。ユリアシティの件で話したいことがあります。任務から帰ってきてからで良いので、時間を作ってくれませんか?」 次にダアトに帰ってくるときは、もう事態が動いているはずだ。ジェイドはもうイオンと共にいる。 和平の使者キムラスカに接触した時点でティアたちは行動を開始するだろう。ディストと約束をしても守ることができるかどうか。 ティアには判断がつかなかった。それでもこれっきりの関係になりたくなかった。だからティアは振り返り強く頷いた。 それから一昼夜かけてバチカルまで飛んできた。 空の上から変わりない青い海を見下ろす。バチカルはもうすぐだ。 惑星オールドラントには五つの大陸がある。二つの大きな大陸と、小ぶりな三つの大陸から成る。 五つのうち比較的小さな方の三つの大陸は行儀良く縦に並んでいた。 その真ん中の一番小さな大陸がパダミヤ大陸である。その大陸の東側にダアトはあった。 真北の大陸はマルクト領土である。雪に覆われたケテルブルクという街があり、そこでディストたち四人は幼少のころ過ごした。 真南には山がちな大陸があり、キムラスカ領土である。そこにはシェリダンという職人の街があり、音機関の最先端だ。 そして、大きめの二つ大陸はそれぞれカイツールとケセドニアという国境でキムラスカとマルクトに等分されている。 ダアトとバチカル、そしてグランコクマの三つの都市の港は地図上では綺麗な三角形を描いていた。 国は違くとも、海を行けばその距離は近い。高速船を使えば障害物もなくすぐに港から港へ、聖都から王都と帝都へ連絡は届く。 マルクトの関与が見られる今、キムラスカとだけ密に連絡を取れば状況はさらに悪化する可能性があった。 船の動きは当然、両国に監視されている。それ故にシンクは船ではなくグリフィンという連絡手段を選んだ。 途中にある島で仮眠を取った以外は、ティアはずっとグリフィンの背に乗っていた。 近郊の森に降り立ったとき、ティアの身体は疲労で限界に近かった。背伸びをして気休めの回復をかける。 訓練所に行くように心掛けていてもやはり本職のようにはいかない。 それからティアはバチカルの教会に顔を出し、ヴァンの現在地を確認して公爵家に向かった。 ヴァンは中庭でルークに稽古をつけていた。上段から振り下ろしてくるルークの木刀を受け止め、流す。 すぐに身体の重心がずれる点を注意して、自分がいない間も鍛錬を続けていたことを誉める。 それからもう一度打ち合わせてみようと促そうとしたとき、公爵家の騎士が現れた。ダアトから伝令が来ているそうだ。 邪魔されたことにむくれるルークをヴァンは宥めつつ、眉を顰める。 早朝、鳩から連絡を貰ったというのに、息をつく暇もなく再度現れた伝令。嫌な予感しかしなかった。 ルークは不満げに愚痴をガイにこぼす。こんなときに来る報せはたいてい良くないものに決まっている。 父上が約束を破るのも、城からの使者が来たときである。急なダアトからの報せも同じだろう。 そう思い眉間に皺を寄せたルークをガイはからかい、椅子から立ち上がると中庭の中央に向かう。「変な顔してるぞ、ルーク。ヴァン謡将の用事もすぐ終わるさ。それまでは俺が相手してやるよ」 その提案に頷き、ガイと向き合いながらもルークは上の空だった。 もしかしたらこの報せでヴァン師匠は帰ってしまうかもしれない。夕方まで居てくれると言ったさっきの言葉も撤回されるかもしれない。 雑念と共に振り下ろされた切っ先はガイを捉えることなく、ルークは木刀に振り回され、それはルークの手から離れていった。 中庭の隅の方で待っていたヴァンは、伝令の姿に驚きを隠せなかった。何故、ダアトに居るはずのティアがこんなところに居るのか。 それに、髪を切ったティアはますます母上に似てきた。一瞬、見間違いそうになった。大きくなったものだと感慨深くなる。 ティアは兄の表情が変わった瞬間を見逃さず、悪戯が成功したような気分になった。 案内の騎士は距離を取りつつも中庭から離れない。子息と同じ空間に居る外の者を警戒しているからである。 ティアは視界の端に居るルークを気にしつつも、ヴァンに向き直り上官に対する礼をとる。「神託の盾騎士団第五師団所属ティア奏長です。参報総長より書類を預かっています」「了解した」 平静を装っているヴァンにティアは書類を渡した。 そして、シンクから預かっている伝言を告げようとする。「早急な帰還を望むとの伝言も――ッ!」 突然、ティアはヴァンに左腕を掴まれ抱きしめられた。その唐突な行動にティアは「兄さん?」と小さな声で問いかける。 その答えを聞く前に何かがが壁にぶつかった音を兄の腕の中でティアは耳にした。兄が助けてくれなければ自分は怪我をしていたかもしれない。「怪我はないか?」 ヴァンは心配そうにティアに尋ねた。細い肩である。さっきは大人になったと思ったが、まだまだ子供だ。 大丈夫という意味を込めてティアは微笑む。地面には一本の木刀が転がっていた。 ヴァンの視線の先には、呆けた顔をしているルークがいる。そして、木刀の行方に気づいた彼は焦った様子で駆け寄ってきた。「わりぃ!」 謝罪を口にしながら地面の木刀を拾い、大丈夫かとルークはティアの肩に手を触れた。 そして、そのとき周囲の第七音素が歓喜の声を上げる。喜び勇んだ音素は踊り狂い、落ち着かなかった。 ざわざわとティアを鳥肌が立つのに似たような感覚が襲う。ルークも突然のことに戸惑いを隠せない。 その間にも第七音素は何処からともなく集まってくる。ルークとティアの間には視認できるほどの第七音素が渦巻いていた。「いかんっ!」 いち早くそれが何であるか察知したヴァンがそれに気づき制止の声をかけても、どうしようもなかった。 ガイはルークに駆け寄ろうとして、ヴァンに押し留められる。ヴァンは主君を護るようにガイをかばい、ペールも騎士も手を出せなかった。 皆がこの事態の意味が分からず及び腰になっている間に、ローレライは無情にも始まりを告げる。 ――響け……ローレライの意志よ。届け……開くのだ……―― 光の奔流に耐え切れずヴァンは目を瞑りそうになる。そのとき、二人の悲鳴が聴こえた。「ティアッ、ルーク!」 ヴァンは叫んだ。だが、深淵からの呼び声は二人を捉えて離さない。 ティアは兄の滅多に聞かない焦った声に、大丈夫と応えようとして失敗する。 代わりにティアの顔には笑顔が浮かんだ。奇跡が起きたのである。そのことに感謝をしながらティアは意識を手放した。 光が消えた後に、二人の影はなかった。