シンクはいつになく不機嫌だった。 突然導師が行方不明になったことでダアトは上へ下への大騒ぎである。その煽りを受けて忙しくなったのは他でもないシンクである。 導師がいないことが発覚したのは、まだ朝日が昇る前のことだった。 巡回中の騎士が導師の私室の隣、導師守護役の控室が空であることに気付いたのである。 導師守護役が導師の側を離れることなどない。そのことに疑問を持った騎士が導師の部屋を確認するともぬけの殻だったのだ。 すぐにその報せは上司に報告されたが、そのときはまだそこまで緊迫していなかった。 朝方、目を覚ましてしまった導師が導師守護役を連れて散歩に出かけているのかもしれない。 我儘を口にされない方なのだから、そんな日もあって良いだろう。庭を一回りして、お見かけしたら傍にいるように。それぐらいの認識だった。 だが、半刻経っても、一刻経っても導師の姿は現れなかった。そのときになって、夜半の騒ぎが思い出された。 その晩、導師が大詠師派に囚われていると麓で騒ぎになり、神託の盾騎士団の者も駆り出されたのである。 そのせいで何となくダアトの街は浮足立ち、警戒に当たっていた夜勤の者もそちらに気を取られていた。 思い出すように発生する改革派によるテロ行為のせいで、ちょっとした噂でも広まり信じられてしまうのだろうかと思いながら警護にあたっていた。 しかし、その騒ぎが仕組まれたものだとしたら? その隙に導師が何者かの手によってかどわかされたのだとしたら? その思考に至り漸く本格的に人を動かし、シンクの元にもその報せが入った。だが、すでに事態は手の着けようがなかった。 導師の行方は依然、不明のままである。事はダアト内部では収まらない。そう判断して公に捜索することにした。 しかし、初動の遅れは取り戻せず、誘拐犯の痕跡はあっても導師の姿はない。 そうして一日が経った。シンクは誰にともなく愚痴を吐き捨てる。「どいつもこいつも面倒ばかり引き起こしやがって。だいたいさ、上の人間がこうも度々ダアトを離れていると示しがつかないんだよ。 導師が出奔して、ついでに大詠師もおらず、しまいには主席総長までダアトにいないだなんて――」 ふざけている、とシンクは憤る。そしてその手元の一枚の紙を睨み、彼は盛大に溜息をついた。 その様子は怒っているというよりは呆れていると言った方が良い。怒りを通り越して笑うしかないといった状況である。 目の前に元凶がいたら、間違いなくシンクは罵るだろう。口よりも先に手が出るかもしれない。 それくらいシンクの気分は最低で、機嫌は下降一直線だった。そんなシンクに副官のトリートは平然と声をかける。「師団長。ティアさんが訪ねてこられましたよ」 シンクはその言葉に反応してちらりとティアを視界に入れたが、その言葉の続きを止めなかった。「まったく、どいつもこいつもどうしてこう頭のネジが足りないんだ? 今、平和だなんてほざくのは現状を理解できていないか馬鹿か、現実を知らない間抜けしかいないというのに」 トリートは幾ら親密にしているとはいえ一介の技手に機密に近い情報を漏らすことに眉をしかめた。 そんな副官にも構わずシンクは入口に留まっていたティアを招き寄せ、彼女の意見を聞こうとする。「導師誘拐。あんたは何処の仕業だと思う?」 シンクはティアがどんな答えを出すのか興味があった。2018年になってすぐ起こった、この騒動である。 地の底で預言を覆そうとしているティアがこの事態をどう読むか。これも秘預言に関連しているのか。 只でさえ押し寄せる報告と馬鹿らしい理由に苛々させられているのである。これくらいの憂さ晴らしは許されるだろう。 最低限の情報を、導師を狙うだなんて信じられないという響きを含ませてシンクはティアに伝える。「改革派を唆した者の尻尾は掴めていない。おそらくダアトに導師はもういないだろう。 マルクトの軍艦を沖合でみたって話もある。導師守護役が一人見当たらないから、すでに殺されているかもしれないね」 それからシンクは背もたれにその体を預けた。そうすると疲れている自分に気がつく。 ドリップしたコーヒーが飲みたいなと思いながら天井を見上げた。そして、シンクはじっとティアの返事を待った。 最近、キムラスカとマルクトの二国間の緊張は高まっている。小競り合いが続き全面戦争は秒読み開始といったところだ。 国境付近は何かと理由を付けて陸艦がうろついているらしい。どちらも開戦の理由を模索している段階である。 そんな最中に宗教自治区の長である導師に手を出す馬鹿は普通いない。 よく言われているように、戦争を始めるのは簡単だが終わらせるのは難しい。過去にその実績を持つ導師がいなくなれば、行き着く先は泥沼の総力戦である。 それに導師を害した事実が発覚すれば、中立であるダアトを敵に回すことになる。そしてその信者も。 それは自国の国民にもそっぽ向かれてしまうことを意味する。この両国の力が均衡している情勢を考えるとあり得ないことなのだが、現に導師はいない。 ティアはシナリオを知っているからこそジェイドの信条も行動も理解することができた。 ジェイドは心の底から和平を望み、その手っ取り早い手段として導師という存在を選んだのだろう。 その選択は間違っていない。前例がある以上、2度目も期待される。口約束ではない、きちんとした和平を望むなら導師の存在は欠かせない。 けれどもその過程が不味かった。こういったことは、研究のように結果だけを出せば良いというものではないのだ。 犬猿の仲である両国を取り持つのだから、その過程のちょっとした疵も避けなければならない。薄氷の上を歩くように、慎重に進めなければならなかったのである。 仰々しい無駄と思えるほどの手順を踏むからこそ、その導師の御幸の価値が上がるのだ。非公式ならば、導師の存在はさして意味をなさない。 誘拐紛いの方法で得られた導師の仲介にいったいどれだけの重みがあるだろうか。和平に導師が必要なら、きちんと正式に導師に依頼しなければならなかった。 手間を惜しんで導師と言う手形を手に入れて満足したのだろうが、それは間違っている。 導師本人が和平に合意していたとしても、ダアトの公式見解は導師誘拐だ。何事も形式が大事である。マルクトからの和平に関する要請は来ていない。 確かにダアトは導師の下、一つにまとまっている。しかしそれは導師の意思が全てにおいて優先されるというわけではない。 何のために大詠師を含む7名の詠師がいるのか。愚鈍な導師を政治に参与させないためである。 導師は預言に従って選ばれる。その者がどれだけ愚かで、冴えない人間だったとしても排除する訳にはいかない。 もちろん歴史上には強権を持ち一切合財に指示を出した導師もいた。だがそれを許されたのは彼がそれだけの実績を立てていたからだ。 今の導師イオンは権威を有しているだけで、その地位に見合った権力は持ち合わせていない。 それでも上手く立ち回れば相応の成果が引き出せるだろう。お飾りに過ぎなくても導師が大詠師よりも下に位置することはないのだから。 だが、ティアはイオンとジェイドがそんな考えを持っているとは全く思えなかった。 ならば、そこを上手くフォローするのが詠師であるテオドーロの役割だろう。今後のためにもダアトの立場を強化しなければならない。 和平の調印を推し進め、その束の間の平和を数十年、欲を言えば百年は維持したい。 導師イオンの功績は在ればあるほど良い。二国の失態も歓迎する。 皇帝の親友が仕出かした導師誘拐という事実は十分利用できるだろう。 ティアはずっと昔の知識と昨今の情勢を頭の中で照らし合わせつつ、シンクの言葉から推測できることを口にする。「改革派はありえないでしょう。導師がダアトから脱出している段階でおかしいもの。内部ではなく外部でそこまでの事ができる存在は限られているわ。 キムラスカには大詠師と主席総長が頻繁に出入りしているし、敢えて導師に用があるのかしらね?」 ダアトの導師を必要とするならばインゴベルト王に近づき過ぎているモースの件についてだろう。 だが、預言に繁栄が詠まれていると知っているものならば下手にダアトと喧嘩しようとなど考えない。 知らないはずのことを漏らさないように言葉を選びながら自分の見解を述べる。「何かキムラスカから要請や要望という名の苦情とかは?」「ないね。呑気な国さ」 随分とモースはキムラスカの政治に口を出しているらしい。 それなのにキムラスカがそれを許しているのは彼が大詠師だからだろうか。それとも繁栄に目が眩んでいるからなのだろうか。 どちらでも救いようがないなとシンクは大国の内情に呆れる。何処の国も似たり寄ったりなのだろう。「なら、消去法で残るのはマルクトね。その軍艦に浚われた導師が居たのかしら? でも新しい皇帝になって方針を転換したマルクトがどうしてそんな真似を……」 ティアは真意が分からないわと頭をふる。そこまで彼女の考えを聞き、シンクは満足したような笑顔を見せた。「ほぼ、正解さ」 そう言って、手元の紙をティアに渡した。導師守護役であるアニスからの連絡だった。 導師は和平のためにとマルクトの大佐ジェイド・カーティスに唆されて、タルタロスに乗船しているという内容が記されている。 シンクはティアを試していたようである。ティアは不愉快だと思いつつ、とりあえず一言突っ込んでおく。「和平のため?」 その連絡を貰い、シンクはどっと疲労を感じていたのである。 導師が誘拐されたと思いこっちは寝る間も惜しんで捜索していたのに、導師本人はのこのこと侵入者についていったというのだ。 それも和平のためという嘘か本当か容易には信じ難い理由に頷いて、である。呆れるしかなかった。 マルクトの沖合で見たという軍艦の話を聞いてマルクトにすぐ連絡を取っていた。「導師の行方について何か心当たりはないか。その軍艦にも導師捜索に協力してもらいたい」「平和の象徴である導師を誘拐する不届き者がいるとは驚きである。導師の捜索にはこちらも協力しよう。 しかし、その海域に居た軍艦はいないはずである。見間違いではないだろうか」 もちろんもっと仰々しい遣り取りだったが要約するとこんな感じである。真実は煙に巻かれてしまった。 最悪、マルクトという国家ぐるみの陰謀ということも考えられるのだ。少なくとも軍艦を動かせる組織、乃至は人物が黒幕である。 導師があちらの手にある以上、現段階でマルクトを敵にすることはできない。 トリトハイム詠師はキムラスカとマルクトに導師捜索の協力を要請した。表向きダアトは未だ導師を発見できていない。 そう取り繕わなければどうなるか。導師が死んだ場合、彼がレプリカであることも発覚してしまう。 だというのに肝心の導師が相手に協力的であるという時点で終わっている。その先を考えることをシンクの脳は拒否していた。「陸艦に導師が乗っていたらキムラスカも攻撃できないだろうさ。それで首都に先制攻撃でも加えるつもりなんじゃないか」 確かに死霊使いと悪名高いジェイドならやりそうだが、ピオニーは和平を望んでいるはずである。 それは穿ち過ぎではないだろうか。ティアは苦笑いをしながら、シンクの考えを否定する。「それはいくらなんでも無理があるんじゃないかしら」「じゃあ、キムラスカ国王の御前まで行くのが目的なんじゃないの? 死霊使いジェイドなら、コンタミネーションで武器はどこにでも持ち込めるさ」 シンクは投げやりに答えた。もはやどんな事態が起こってもおかしくないと思う。 自分の体のことを理解するためにシンクは折を見てディストの元に通っている。その所為でディストの『金の貴公子』に関しても不本意ながら詳しくなってしまった。 なんにせよシンクはこの和平と言う言葉を端から信用する気はなかった。両国の金の流れや軍の動きは来る戦争を想定している。 そんな情勢で和平など紙屑同然だ。秘預言にも詠まれているのだ。案外、これを機に開戦ということも考えられる。 そして、これでもあの七番目は本気で和平を信じているのかとシンクは苛立たしくなった。 シンクにとってイオンはもう一人の自分である。自分にダアト式譜術の素養があれば彼のようになっていた可能性がある。 おどおどとオリジナルの顔色を窺いながら導師として振る舞っている七番目。主体性もなく、中途半端にオリジナルを模倣している七番目。 断じて同じだとは思いたくなかった。シンクの知る限りオリジナルは食えない奴だった。あんなに自信がない人間ではなかった。 代替品ならば、それらしくもっと傲慢になれば良いのに。それができないならば下手な真似などしなければ良いのに。 それは弟を心配しているというよりは、同族嫌悪といった方が良いだろう。もう空っぽではないシンクには、レプリカだからとうじうじしている七番目は目障りだった。 そして、こうして七番目は利用されている。シンクはそのことに眉を顰めながらも参報総長としての仕事をする。 ダアトは導師イオンをタルタロスから奪還しなければならない。あちらが無断で導師を連れ出しているのは紛れもない事実だ。 こうして長々と説明したのだからティアには役に立ってもらわなければならない。「あんた確かアリエッタのオトモダチを融通してもらっていたよね?」 唐突にシンクはティアに確認してきた。それが今回の話と何か関係するのだろうかと首を傾げながら答える。「グリフィンと仲が良いけど……」 シンクはグリフィンと聞いてさらりと爆弾を落とす。「じゃあ、ティアは伝令になって」「えっ?」 思いがけない言葉についティアは訊き返した。ティアは技手である。伝令などこれまでしたことがない。 シンクは丁寧に現状を説明する。アリエッタの第三師団はいま全員ダアトを出払っている。 各地の教会へ書簡を運びながら、同時に陸艦の捜索をずっとしている。20名の団員の疲労はピークに達しているだろう。 かといってこの導師の行方に関する情報を伝えないという訳にはいかなかった。そこに飛び込んできたティアという人間を逃すつもりはない。「鳩に任せられるような情報じゃない。かといって第三師団の者はもう使えない。でも此処に飛べる人間がいる」 ティアは断固拒否したかった。バチカルに行かなければならないのだ。ここには休暇をもぎ取りに来たのである。 「本当に他の者はいないの?」と訊ねてもが、即座に否定されてしまう。「魔物と仲が良い。そんな酔狂な人間がそこらにいるとでも?」 そう言われてしまえば、ティアは口を噤むしかない。第三師団の団員は少ないのである。各方面の連絡手段として今は文字通り飛び回っているのだろう。 導師の失踪と言う一大事が起きているからこそ、技手でしかない自分にまで声がかかっているのだ。そのことを理解して、どうしようと逡巡しているうちにシンクは決定を下す。「ティアには伝令としてバチカルまで行ってもらう」 その行き先を耳にしてティアは、「バチカルへ?」と確認した。 シンクは皮肉気に笑い、「主席総長が公爵家で呑気にお茶しているからさ」とその理由を教える。喋りながらヴァンへの報告書を書きあげた。 ペンを置き、他に連絡するものはと探そうとするとトリートが横から既に纏めてあったものを差し出す。 礼を言ってそれらを纏めてくるくると巻き専用の箱に収め、厳重に封をした。それをティアに渡して、シンクは伝令を嫌がっていたティアに軽口を叩く。「恨むんなら自分の兄を恨むんだね」「ええ、あとでお礼をしなくちゃいけないわ」 ティアは公爵家に出入りしている兄に心から感謝した。やはり不法侵入するというのは躊躇いがあった。 これなら公的に公爵家に入ることができる。そんな浮かれているティアにシンクが釘をさす。 兄に会えると喜んでいるのだろう。こんなところでブラコンを発揮されても困る。「あんたは伝令だよ。せいぜい空の上で寒い思いをするがいいさ」「心配してくれてありがとう、シンク。行ってくるわ」 予定外のことで、最大の懸念が解決したのでティアはシンクの冷たい言葉にも満面の笑顔で応じる。 そしてさっと身を翻し、退出した。バチカルに行く準備をしなければならない。パタンと閉じられた執務室の扉の音が廊下にこだました。「……ッ。心配なんてしてない」 その声はティアの背に届かなかった。代わりにトリートがにやにやと笑いながら「師団長。仮面がずれていますよ?」と指摘する。 ハッと手を仮面に移し、それが嘘であることにシンクはすぐに気付いた。「トリート」 シンクが冷めきった声音で名を呼んでもトリートは笑顔のままである。「そんな凍えてしまいそうな声を出さないで下さい。ちょっとしたジョークですよ?」 そして何気なく付け加えた一言で話を変えてシンクの矛先を背ける。「しかし、ティアさんはグランツ謡将の妹でしたか。道理で過去の情報が一切ないわけですね」 人の悪い笑顔のまま、普段通りの穏やかな口調でついシンクが漏らしてしまった事実を確認した。 トリートはティアのことが話題になってから彼女の情報を集めていた。だが幾ら探っても過去の情報は見つからなかった。 唯一の痕跡7年前のルーティシア・アウルの名で出した論文のみ。その先はアイン・S・アウルと同じではっきりとしない。 暗闇の中を探っているようだった。人間生きていれば何かしらの跡が残るはずだ。それがたとえ戸籍のない子供だとしても。 しかし彼女はあれだけの学があるのにぷっつりと途絶えてしまう。まるで突然ティアという人物が現れたようだった。 こんなことは以前にも何度かあった。いきなり現れたアルバート剣術の使い手。 神に見染められたようにトリートに追いつき、そして瞬く間に上へ昇りつめた、ユリアの血をひくヴァン・グランツ謡将。 それに、その謡将がどこからか連れてきた少年。トリートは目の前の謎の師団長を意味有り気に見つめる。 いったい彼らにどんな過去があるのか。そして、そんな彼らがごろごろいるダアトという場所はどんなところなのか。 トリートの興味は尽きなかった。当分退屈はしなさそうである。「このことは他言無用だよ」 厳しい口調で告げるシンクにトリートは「分かっていますよ」とだけ返す。 トリートの興味は何もティアにだけある訳ではない。それに誰かに漏らすなどつまらない。 情報収集は趣味と実益を兼ねているが、趣味の方に天秤が傾いている。それで身を崩すつもりはなかった。 それからトリートは目の前に積まれた書類を一枚手にとって、仕事に取り掛かる。この話は此処で終わりだ。 シンクはつい口が滑ってしまったことを後悔した。そして、頭の中を切り替える。とりあえず今は囚われの導師を助けなければならない。 トリートに命じて地図を出させる。ダアト周辺の海域と国境の位置を確認し、相手の出方を読もうとシンクは集中し始めた。