大聖堂の鐘の音が鳴り響き、清涼とした空気を震わせる。一日の始まりはそうして始まる。 朝である。小鳥のさえずりが窓の外から聞こえ、柔らかな光が部屋に差し込んでいた。 ティアは年が明けてから夢見が悪くよく眠れなかったが、今日はすっきりと目が覚めた。 窓辺に立ち、ひんやりと伝わってくる冷たい空気に一瞬怯みながらも一気に開け放つ。 冬の匂いがする。それに混じってパンの香りも漂ってきた。麓の街からは朝売りの声もしている。 良い日になりそうである。鼻歌でも歌いたい気分で、ティアは足取り軽く研究室に向かった。 最近、ティアの睡眠時間は激減している。健康とは言い難い生活をしている自覚はある。身体も何となくだるい。 ディストに知られたときのことが怖く、青い眼のウサギの人形にも触っていない。きっと警告の示す赤にその眼の色は変わるだろう。 アリエッタを心配させ怒らせる事を分かっていても、今しなければならないことだった。 ティアは半年分の仕事を終わらせるために夜遅くまで書類を整理していた。たいした仕事ではないが室長と言う立場がある。 仮にも室長と言う立場に居る以上、最低限のことはしなければならない。 決算の時期まで此処に戻ってこられるかもわからないのだ。せめて書類仕事ぐらいは片付けておきたい。 2018年という年は、ダアトで大人しくしていられる年ではなかった。 そして、ティアの思惑が成功するにしろ失敗するにしろ、室長ではなくなることは目に見えていた。 ユリアの子孫ということが公になったら、師団付技手など辞めさせられてしまうだろう。犯罪者として追われることになったら言わずもがなである。 だからティアは年末の大掃除の続きと言いながら後任の者が困らないようにと整理していた。 残された時間は余りにも少なかった。 ティアはいろいろと考えた結果、ルークと擬似超振動を起こすことにした。 ダアトの一研究員であるティアとキムラスカで監禁されているルークが会う方法が他にあるだろうか。 魔界でも彼との接触方法について何度も論じられているが、これと言った案は出なかった。 キムラスカではモースが信用されており、彼の目を掻い潜って会うことはほぼ不可能と言って良い。 何とかお目通り願うことが可能としても、「世界を救うために協力して下さい」とお願いするわけにはいかない。 あの旅はルークたちがお互いを信頼とまでいかなくても信用するために必要である。 相手を信じることに時間が必ず必要という訳ではないが、それでも会ったことも話したこともない人間を信じられる人間は少ない。 況してや、ティアはルークに「超振動という力を使って外殻大地を降下させて欲しい」と荒唐無稽なお願いするのだ。 できるのならば導師であるイオンや皇帝の親友であるジェイド、王女であるナタリアを通じて各国の上層部との会談の場も作りたい。 詠師であるテオドーロの地位では少し弱い。公になっていないユリアの子孫の立場も余り意味がない。 それに、彼らがそれぞれの境遇を知り、複雑に絡み合った因縁を紐解いていくためにもエンゲーブで彼らは出会うべきだ。 ジェイドとイオン、ルークの出会いは公人としても私人としても重要なものである。 皇帝の名代と現導師、第3王位継承者。レプリカの発案者とレプリカという自覚のあるイオン、自覚のないルーク。 エンゲーブにそれぞれの上層部に近い人間が偶然集まる。しかも全員が真実を知らないままの状態で。 彼らにはあの出会いと旅が必要だとティアは考えた。もちろんティアは彼らの抱えている秘密をほとんど知っている。 だが、現時点で完全なる第3者である彼女が知っているということが何の足しになるだろうか。 例えば、レプリカ発案者であるジェイドに「レプリカの延命に協力して欲しい」と申し出てもすぐに断られるだろう。 「あの忌まわしい技術を扱ったのですか!?」と罵られるか、「いやです。見たくもありません」と素気無くされるか。 どちらにしても結果は見えている。ジェイドがレプリカと向き合うようになったのは旅の中でルークと身近で触れ合ったからだ。 その件について口を出していいのはルークの他にはレプリカであるイオンとシンク、それにディストである。 ジェイドの改心にはルークが不可欠である。他のメンバーに関しても同じことが言える。 アッシュもガイもルークに拘りを持っているし、ナタリアとアニスの事情にもルークの微妙な立場なら口を挟むことができる。 彼らはルークと共に旅をすることで一回り成長して、その結果として世界を救った。ルークも見違えるほど成長した。 だが、それも親しくなっていればの話である。 ティアが公爵家に襲撃せず、エンゲーブを訪れなかったらそうはいかない。 戦力が足りずにイオンは六神将の下で各地のダアト式封呪を解くことを強いられることもあるだろう。 そうなれば、ジェイドは一人になる。旅券も親書もない和平の使者など国境で門前払いだ。 当然ルークは何も知らないまま開戦の合図としてアクゼリュスに送り込まれる。 ティアがその場におらず譜歌がなければ、崩落に巻き込まれ預言の通りだ。 ジェイドがコーラル城の巨大な譜業を目にしなければ、レプリカかもしれないという疑いは確信に至らない。 イオンもいない状況でそこまで疑いの芽が育つかどうかも不明だ。 ガイの途切れた記憶に関しても言及されず、燻り続けている復讐心はそのままになる。 ティアがいなければルークとジェイドとガイ、それにナタリアはアクゼリュスで死亡となる。 アッシュがヴァンの計画を掴む頃には、全て手遅れになっているだろう。 アニスの両親を助けることもできず、彼女はモースに利用され続けることになりイオンは死んでしまうかもしれない。 極論だが、そんな未来もあるかもしれない。ティアたちが介入しようとしても阻まれる可能性は十分にある。 開戦を望む人々はあの手この手で和平を妨害しようとするだろう。モースやヴァンが表向きそれを推奨しても、裏では何かを企んでいる。 それを先に察知するには、ユリアシティの仲間がいても多大な労力を使うだろう。そして、望む結末が得られるとも限らない。 だから、ティアは敢えてルークの屋敷に乗り込むことを決めた。 シナリオに頼るのも癪だがアクゼリュスのアルバート式封呪を解くまでは流れに沿った方が都合良い。 そう思い年が明けてからティアは導師の動向を調べ、タイミングを窺っていた。 ティアは一連の時系列は覚えているが、それが何時起こったかまでは知らなかった。 ルークたちとイオンたちがエンゲーブに訪れる時期は同じでなければならない。 ダアトで導師が出奔して、バチカルの兄に行方不明との報が入った日にルークはティアと旅立つ。 バチカルに兄がいたことから新年の挨拶回りをしている期間に起こることだとティアは推測した。 3日から10日までダアト、11日から17日までマルクト、18日から24日までバチカルに滞在する。 そしてその後2日ほど主席総長としてではなく只の指南役として兄はルークの屋敷を毎年訪れている。 17日から26日の間に導師が出奔するとそこまで予測した。後はその動きに合わせてダアトを発てば良い。 研究室に顔を出すと普段通り部下たちが思い思いの研究をしている。いつもと変わりない情景である。 ティアは前日と同じように挨拶をする。「おはよう」「あ、おはようございます。室長、良く眠れましたか?」 忙しく動かしていた手を止めて、意味ありげに訊ねてきた彼の様子にティアは軽い違和感を覚えた。 これまで健康を気遣われた記憶は無い。アリエッタたちの心配性は終に彼らにまで感染してしまったのだろうか。 研究以外のことにたいして気を配らない技手まで巻き込んだとなると今でさえ鬱陶しい状況の未来が思いやられる。 嫌な予感を否定して欲しいと思いながらティアは探りを入れる。「ええ、良く眠れたわ。……それがどうかしたの?」「いや、俺たち心配していたんですよ。室長が起きなかったらどうしようかって」 その言葉の意味がティアは分からなかった。ティアが寝ていないことを心配するならまだ理解できただろう。 だが、彼は自分が起きなかったら困ると言った。彼らは自分の何を心配しているのだろうか。 ティアの怪訝そうな視線に部下その1はうろたえながら言い訳を口にする。「いや、そのっ……最近室長がお忙しそうだなあと思いまして……」 しどろもどろな説明になっていない説明も、尻すぼみになる。 その様子にティアは目を細め、いったい何なのか聞き出そうとした。 しかし、その前に横からその2は無邪気に口を挟む。「つい、検証中の眠り薬を室長に使っちゃったんだよねー。おかげで良いデータが取れましたっ!」 その1をからかうついでにといった感じで、その2はティアを実験体にしたことを暴露した。 彼は1mgも罪悪感を持っていないようであり、いっそ清々しいほどである。 その余りにも悪気ない態度にティアは何と言えばいいのか言葉に詰まってしまう。 その間にもその3は何か身体に違和感はないかとぼそぼそと質問していた。 現在進行形で頭痛を患いそうと答える訳にもいかず、素直に返答していると聞き捨てならない言葉がティアの耳に入る。「……安眠香。効き目に個体差有り、要検証……」「室長は3日も眠っていたんですよ~。お疲れだったんですかぁ?」 ハッとしてカレンダーを見る。ティアの感覚では今日は19日だったのだが、そうではないようだ。 ティアの目線に気付いたその1は「ああ、今日は21日です」と気を利かせる。その答えにティアは嫌な予感を覚えた。「この3日間に何かあった?」 ティアは声が剣呑な響きになったことに気づいていたがそれどころではなかった。日付を聞いて様子が変わったティアに驚きながらも彼は記憶をたどる。 この三日、何かあっただろうか。ティアの曖昧な質問にその1は返答を探す。だが、彼が見つける前にもう一人が愚痴と共に答える。「昨日の朝からなんか騒がしいんですよねえ~。導師がどうのって煩いのなんの」 その言葉にティアはさーっと自分の顔が青くなるのが分かった。 予定が狂ってしまった。 ティアは導師が行方不明であることが公になる前にバチカルに向かうつもりだった。 導師が失踪してもすぐに他国に協力を願うはずない。まずはなるべく内部で収拾をつけようとする。 その間に休暇を取りバチカルに向かうつもりだった。グリフィンで国境を越えバチカル近郊に降りたち、そのまま公爵家に侵入。 兄を襲撃などせず、一人っきりのルークに接触してみる。超振動が起きればそのまま、起きなかったら誘拐するつもりだった。 もちろん素性は隠して、声もかけずにである。もしも失敗してもその場で捕まらなければいい。 誰もグリフィンで移動しているとは思いつかないだろう。 都合良く公爵家から出ることが出来たら、素知らぬ顔をしてルークと初対面の挨拶をする。 タタル渓谷に偶然薬草を採取に来ていたところ、倒れていた彼を助けた善人ということだ。 賊の存在は超振動で分解されて再構成されなかったのでしょうの一言で有耶無耶になれば最高である。 そう上手くはいかないだろうが、公的にルークと会う手段など有していない。これ以上の手は考えつかなかった。 だが、初めから躓いてしまったようである。予定は未定と言うが困ったことになった。 ティアは大きな溜息をつき、頭を抱える。その様子に「何か副作用でも?」と部下は焦ったのだが、考え込んでいるティアには届かなかった。 俗世から隔離された世界で生きている彼らにも分かるほどの騒がしさなら、とてもじゃないが休暇など貰えなさそうだ。 だから早めに抜け出そうと、そのときにアリエッタに母親のところに行ってみるように忠告しようと考えていたのに。 全て台無しである。何てことをしてくれたの、と怒鳴りつけたくなるのをグッと我慢する。 一応、休暇を申し出てみよう。導師捜索に技手が力になれるはずがない。案外、素直に頷いてくれるかもしれないと楽観的に考えてみる。 来たばかりの研究室を後にして、ティアは足早にシンクの執務室に向かった。