イオンは2年前に亡くなった導師のレプリカである。 7番目に作られた彼はオリジナルの代わりに導師を務めている。 その事実を知る者は少ない。計画の立案者に研究者だけだ。 大詠師モースと主席総長のヴァン、そして当のオリジナルがひた隠しにしたためである。 作られてからすぐに成り代われるようにと刷り込みが施された。オリジナルの口癖やちょっとした仕草、導師に必要な知識。 7番目の彼はその事実を知らない者にとっては、どう見ても導師でありイオンそのものであった。 彼らはレプリカのイオンに親しげに話しかけてくる。オリジナルにそうしていたように変わらず。 だからイオンは答えが出ないのに考えてしまう。 自分と話している人は誰と話しているつもりなのだろうか。 ローレライ教団の導師か、それともオリジナルか。 どちらにしてもそれは自分ではない。仮初のものである。自分は偶々他のレプリカよりもオリジナルに近かっただけ。 そして、オリジナルと親しかった人はイオンの心を掻き乱す。彼らに対してイオンは幾許かの罪悪感と落胆を持っていた。 所詮彼らは導師イオンに用があるだけで、ただイオンに興味ないのである。その証拠に彼らは自分を疑いもしない。 そして自分が導師ではなくレプリカだと告白すれば、彼らは手のひらを返すだろう。そんなどうしようもない情報だけは頭の中にある。 導師の座から見下ろす世界は狭く息苦しい。だが、イオンは導師としての形しか存在を許されていないのである。 同じレプリカであっても、シンクとイオンの立場は異なっている。 レプリカとしてオリジナルの代役という役目を果たせない者と、望まれる者。 一生仮面を被り続けることを強いられるシンクと、導師であることを求められるイオン。 どちらも普通ではなく苦労も幸福も受け取り方が違う。比べることも馬鹿げているだろう。 だが、イオンにはシンクが羨ましいと思った。 その顔は仮面で見えないが、短い緑の髪は光を浴びていた。彼は生き生きとしているように見える。 第五師団長を元導師守護役が追いかけ回しているという話はイオンの耳にも入った。 その後何があったか知らないが、彼ら二人は親しくなったらしい。自分はアリエッタに避けられているというのに。 彼女にイオンではないと否定された気になってしまう。彼女はもしかしたら気付いてしまったのかもしれない。 自分はイオンらしくないのだろうか。イオンは自分の存在意義について考えると泣きたくなってしまう。「イオン様。どうかされたんですかあ?」「ッ! ……いえ、なんでもありません」 窓の外をぼんやりと眺めていたイオンに軽い口調で導師守護役のアニスは声をかけた。 いつもは導師らしいのに時々暗い雰囲気を見せる。だからアニスはこの導師を放っておくことができない。 イオンの視線の先には仮面をつけた少年とライガを連れた少女がいた。「あっ、師団長たちですね。シンク師団長といえばっ! 聞いて下さいよ、イオン様っ。 この前彼に声をかけたら無視されたんですよぉ! まったく、こんな美少女に見向きもしないだなんて失礼だと思いません?」 アニスは自分の満面の笑顔を指差しながら、嘆いて見せた。 そのアニスの様子にイオンは窓から視線を外して花が綻ぶように笑い、アニスを誉める。「僕は可愛いと思いますよ」「ですよねえ~。アニスちゃん何だか元気が出てきました」「アニスが元気一杯だとエミリが大変そうですね」「イオン様。それはどーいう意味ですか?」 アニスが元気過ぎると困ると言わんばかりの発言に、アニスは腰に手を当ててイオンを睨みあげる。 イオンは「別にたいした意味はないですよ。それともアニスには何か心当たりが?」と切り返した。 アニスのおふざけで辛気臭い空気は何処かに行き、軽口を叩き合う。 窓の外の二人はもう遠くに行ってしまった。それにイオンはなんとなく安堵する。 コンコン。 扉を叩く音がして入室を告げる声がした。アニスは姿勢を正して応対する。 部屋に現れたのはアニスより年配の導師守護役、エミリだった。 ちらりとアニスを見て「モース様があなたをお呼びよ」と伝える。 それを聞くとアニスはイオンに傍を離れることを告げ、一礼して部屋の外に出る。 扉の前にいた同僚からアニスは睨まれた。それをアニスは無視して小走りで駆けていった。 アニス・タトリンと大詠師モースの繋がりは2014年、アニスが士官学校に入ったときからである。 それまでタトリン家は貧民街で暮らしていた。人が良いアニスの両親は何でも人に与えてしまう。 アニスが怒っても二人は全然反省をしない。何度も同じ会話を繰り返す。その返事はいつも同じだ。「でも、彼らは喜んでくれたよ。いつか急用が終えたら返してくれるだろうね」「アニスちゃん。人を疑ってばかりでは駄目よ。彼らの言葉を信じなくちゃ」 糠に釘。柳に風。暖簾に腕押しである。彼らの本質は変わらない。 彼らは根本から善人で、世の中に悪い存在などないと心から信じている。 彼らの手に掛かれば、悪魔だって戸惑い改心するかもしれない。 子供に暴力をふるったり、逆に面倒をみなかったりする親に比べたら良い親だろう。 アニスは両親に愛されていた。誕生日も祝ってくれる。毎年同じ贈り物。可愛くないギザギザとした縫い目の歯が特徴のお人形だが。 それでも両親の心が込められているのだからアニスは喜んだ。「可愛いお人形をありがとう!」と。 だが、彼らの美点は過ぎれば害悪である。借金が増え過ぎてどうしようもなくなったとき、モースが声をかけてきた。 何者にも施しを与える敬虔な信者がいると聞いてやってきたという彼は、アニスの眼から見て胡散臭かった。 それでも借金で首が回らない。モースの借金を肩代わりするという話に乗るしかなかった。 呑気な両親を横目にアニスは士官学校に入ることを進められ、頷くしかない。 貧乏はそれだけで悪だ。世の中何事も金である。 そして学校を卒業して導師守護役に推薦された。無事選ばれモースに呼び出される。 そこでスパイをするようにと言われた。拒否できるはずが無い。彼はタトリン家の全てを握っている。 両親の行いは変わらず借金は増えるばかり。住む場所も仕事もモースのお膝元である。 逆らったところで逃げる場所もない。アニスはただ命令されるがままにスパイを務めた。 それを果たせなくなったら如何なるか分からない。だから、アニスは導師守護役を辞めるわけにはいかなかった。 地獄の沙汰も金次第だ。お金がないっ! 何故かアニスは導師イオンに気に入られた。そのおかげでスパイは楽にできたが、周囲の苛めは酷くなるばかりだった。 アリエッタを追い出すようにその後釜に居座ったアニスは、新人ということもあり風当たりが悪かった。 水をかけられるのは当たり前。人にぶつかることも日常茶飯事。だが、一番堪えたのは物が無くなることだった。 それでもアニスは一人耐えた。両親に相談することなど出来ない。誰に話すことも出来ずアニスは一人で決めた。 もしもばれて罪を問われてもこれは私一人の罪だ。お父さんとお母さんは悪くないと。 金欠。それは心を貧しくする。 初めアニスは導師イオンを利用するつもりだった。大詠師に対抗できる地位と言えば導師か主席総長である。 だが、主席総長は大詠師派らしい。あとは導師イオンしか頼れない。 しかし、実際に会った導師はアニスの予想の斜め上だった。噂ではもっとしっかりしていそうだったのに。 むしろアニスが励まさなければならなかった。だから、アニスは一人でこの事態をどうにかすることにした。 導師を頼ることもできない。モースの様子から判断すると導師は傀儡のようだ。 アニスに状況を変える手は打てなかった。じっと耐えてモースが失脚するのを待つしかない。 その間、アニスは地道に貯金をして玉の輿を夢見ていた。アニスは導師と両親を天秤にかけて両親を取ったのである。 導師のことを思うならスパイを辞めれば良い。導師守護役を辞めれば良い。だが、そのいずれもアニスは選ばなかった。 その罪悪感を晴らすためにアニスは殊更導師を構う。彼がいわゆる友だちを欲しがっていると気づいてからは、それらしく振る舞った。 このちょっと押しが弱い導師をアニスは好ましく思っている。手のかかる弟のようだ。 だから、同僚に蔑まれても何をされても気にならない。あの死神からトクナガを改造してもらってからは露骨なことをされなくなった。 だから大丈夫。まだ元気。ほら笑顔。そう言い聞かせてアニスは導師守護役として導師の傍に侍り、そしてモースに報告をしに行くのである。 部屋を出ていったアニスの背を見送り、エミリはイオンと向き合った。 守護役長が空位の今、守護役長代理のエミリはイオンに代わって30名の導師守護役を纏めている。 本当はすぐに守護役長を選ぶべきなのだが、本物ではないイオンは守護役長を任命する気はなかった。 それならばイオンが率先的に動くべきなのだが、オリジナルと長い年月を過ごしていた人に顔を合わせるのは気まずい。 その複雑な導師の気持ちを汲み取ったエミリは詳細を知らずとも導師守護役と導師の間に立ち、そのために多忙を極めている。「イオン様。アニスを側に置くのを少し控えて貰えませんか? あの子はまだ経験も浅く、見習いに近いのです」 エミリはイオンにそっと願い出た。 アニスには確かに人形師としての才能はあるかもしれない。だが導師守護役に必要なのは純粋な戦闘力の強さではないのだ。 導師はその誕生が預言に詠まれるとすぐに親元から離され、将来教団を背負って立てるように教育される。 家族のいない導師の母として、姉として、師として導師守護役は共に寄り沿う。 公私にわたって仕え、その身体だけではなく精神の安寧も守るのが導師守護役の務めである。 エミリの目から見て、アニスには決定的に足りないものがあった。それがいつかこの何処か危うい導師を傷つけるのではないかと心配してしまう。 病が癒えてから彼は少し繊細になった気がする。そしてアニスに対する信頼は度を越していた。危ういと思えてしまうほどに。 アニスが導師を傷つけてからでは遅いのだ。だからこそこうして苦言も口にする。 イオンは彼女の真摯な瞳から目を逸らし、首を横に振った。「僕は、アニスがいいんです」 その頑なな態度にエミリはやはりと思いながら、それでもと提案する。 一人を贔屓するならば周囲の者が納得できる理由を提示しなければならない。だが、アリエッタの時とは違いアニスでは難しい。 アニス一人を優遇するこの状況を如何にかしなければ導師を守る壁は中から瓦解してしまうだろう。「せめて3名、傍に置いてください。御身を蔑にされてはいけません。あなたは尊い導師なのですから」「分かっています」 分かっている。エミリの言うとおり僕は導師だ。それが僕の役割だ。 イオンはエミリの言葉に自分の立場を思い知らされる。そしてただ言われるがままに首を縦に振った。 目の前のエミリは初めて顔を合わせたとき「快癒なさったようで何よりです。イオン様」と言った。 笑顔で応じながらもイオンの心は急激に冷めていったのである。 僕はオリジナルの代わりを果たせているだろうか。 僕は望まれているイオンで在れているだろうか。 そういった考えをしているときに必ず声をかけてくれるのがアニスだ。親しげに導師イオンではなくただのイオンと会話をしてくれる。 アニスはまだ若い。本当はエミリの言うことを取り入れた方がいいのだろう。だが、余り誉められたことではないと分かっていても彼女の名を呼んでしまう。 アニスはオリジナルを知らない。だから、イオンは構えることなく安心して彼女と話すことができた。 イオンにとって彼女は特別だった。 導師守護役の彼女たちが心からイオンのことを大切に思い、守りたいと考えていることは事実である。 彼女たちは導師であるイオンだけでなくただのイオンも見ていた。だが、彼女たちはその庇護すべき対象が変わったことを知らなかった。 その変化に気づいても病で心の持ちようが変わったのだろうと考えた。それ故にすれ違う。 彼女たちは以前のイオンも今のイオンも区別せず等しく受け入れていた。彼女たちは決して導師であるイオンだけを求めていたのではない。 だがしかし、作られて2年のイオンにはその微妙な差は分からなかったのである。 そしてイオンは年が明けて半月が少し太り始めた頃、真夜中に赤い眼をした軍人と出会う。 彼が余りにも真っ直ぐに自分を見るのでイオンは彼の話を聞いた。 彼が熱心に自分を必要だと語るのでイオンは彼の手を取った。 たった一人、頼れる守護役を連れて導師は和平のためにダアトを出奔したのである。