ピオニーは私室の床に座り込み、可愛いジェイドを抱えながら可愛くない親友のことを考えていた。 いまごろジェイドは和平の使者という大任を果たすべく準備にとりかかっているはずだ。いつものように抜け出して街に出ても探しには来られないだろう。 ジェイドという強敵が現れないならばと思いつつピオニーの企みを阻むもう一つの壁、アスランの存在を思い出す。 そして、芋づる式に今日の会議にいた不愉快な議会の爺共の顔が脳裏をよぎった。「ぶひっ」 腕の中のジェイドが抗議の声をあげた。どうやらきつく抱きしめすぎてしまったようだ。 もぞもぞと脱け出したジェイドはゲルダの方へ行ってしまう。昼寝をするつもりなのだろう。 手から去ったぬくもりを感じながら、ピオニーは4年前の自分が皇帝になったときのことを思い出していた。 ピオニーの父、カール五世は戦争をたいそう好んだ。 国家の利益ために戦争をするというよりは、戦争のために国家があるかのように振る舞っていた。 当然、彼の下にはそれを支持する人間が集まり、その周りにはおこぼれに与かろうと蟻が集る。 彼らは皇帝という地位が齎す恩恵に傅き、僅かな良識ある者が帝国を支えた。 それでも世界の半分を支配する国である。その屋台骨は太く、簡単に傾きはしなかった。 それが彼らを増長させたのだろう。彼らはこのマルクト帝国が永遠に続くと信じているようだ。 そんな訳ない。不断の努力によってこの大国は維持されている。 彼らが零れ落ちた雫を啜っているならピオニーは必要悪と断じただろう。だが、彼らは民の手に渡るべき果実まで手を出していた。 ピオニーは皇帝として彼らの排除を決意した。しかし、そう簡単にはいかなかった。 帝国のそこかしこに彼らは根を張っており、皇帝と雖もおいそれと彼らに手を出せない。 ピオニーはただ重たい冠を被り、置物としてそこにいることを望まれた。一度でも甘い汁を吸うともう苦労などしたくないのだろう。 代替わりの混乱に乗じて隙を見せた者たちは始末したが、海千山千の老獪な者は焦らせることもできなかった。 彼らが油断して尻尾を出すのを待つしか選択肢は残されていなかったのである。苦渋の日々が待っていた。 先帝の影響が強かったのか、それとも元から変わりようがないのか。白々しく彼らはピオニーにも同じものを求めた。 戦争を。さらなる戦果を。 皇帝に即位して間もない時期のことだった。彼らの露骨な要求にピオニーは頭に血が上った。 そして怒鳴りつけようとしたとき、横から口を挟んだアスランの言葉に息をのんだのである。「いましばらくお待ちください。議員殿。いまだ先の戦争の傷が癒えておりません。それに、次の戦はピオニー陛下の治世を飾る初めての華となるでしょう。 これからの帝国の繁栄のためにも万全の準備を整え、陛下に完全な勝利を捧げたいのです」 そうしてアスランは議員を持ち上げ褒めちぎり彼の自尊心を満たす。うやむやのうちに話は流れた。 アスランが議員を送りに席をはずしている間、ピオニーは皇帝の座にもたれかかりながら自分の不甲斐なさを感じていた。 結局、ピオニーが殿下から陛下になったからといって、すぐにこの宮中の澱みを払えるわけではないのだ。 帝国に巣食う狐狸妖怪は人の面の皮をかぶり人語を解す。人を騙すのが得意でその分、善良な人のふりがうまい。 あそこで戦争などしないと言えば、議会の半分は敵に回りピオニーは今以上にお飾りになり下がるだろう。 帝国は、いや、帝国議会は戦争無しでは動かない。先帝の時代にこのマルクト帝国はそう作り変えられたのだ。 戦争を前提に全ては決定されている。それを直すのは長い時間がかかり、またその道のりも容易ではないだろう。 少しずつ膿を出し、議会が健全に機能するように変える。 それまでに何回戦争を起こせばいいのだろうか。 そのたびに何人死んでいくのだろうか。 ピオニーはこれまでの戦禍を思い起こし憂鬱になる。 極端にいえば軍人は国家のために人を殺すことが許され、国家のために死ぬことを求められる。戦争で軍人が死ぬのは極々自然なことである。 だが、その戦争が国益のためではなく特定の人間の欲望のために引き起こされるものならば、その死に何の意味があるのだろう。「金の亡者め。そんなに戦争が好きならさっさと父の下に逝けばいいものを。そうすれば思う存分死と血に塗れた生活が送れるだろうよ」「そうですね。カーティス大佐にお願いしてみましょうか。彼なら演習中にさくっと半分ぐらい減らしてくれるかもしれません」 ピオニーは予期せぬ返事に驚き、声の方に視線をずらす。 いつの間にかアスランはいつも通り笑みを浮かべて脇に立っていた。「……そうだな。どうしてもうっとうしくなったら頼んでみるか」 きっとジェイドはいやそうに眼鏡を押さえながら、「そんなことはあなたの仕事です」なんて言うのだろう。 その様子をピオニーは想像すると笑えてしまう。 大きくとられた謁見室の窓から差し込む夕日をピオニーは眩しそうに見つめた。 玉座に一人腰掛けたまま傍らのアスランに問いかける。「なあ、アスラン。いずれ俺は戦争を起こすだろう。そして、多くの民を戦場に送りだすだろう。 俺の守るべき民を。俺が皇帝として在るために。……こんな、守るべき民を殺す皇帝などいらないんじゃないか?」 それはピオニーの心の中にある大きな矛盾である。 皇帝になることが決まったときに真っ先に思い浮かんだのは、幼少期を過ごしたケテルブルクだった。 今はもう手を差し出すことはできないけれども、彼女を守ろうと思ったのだ。人妻となっていようと大切な人だ。 そして、政務の合間に出会った人々。彼らの笑顔を守るために冷たい玉座に座ってもいいかと思った。 彼らが居てくれるだけで皇帝のピオニーは支えられている。 それなのに、報いるどころか戦争を起こすとはなんたることか。 しかも時間稼ぎのために、である。裏切りにも等しい。 ピオニーは俯き自分の小さな手を見る。力がない自分が歯痒く、握りしめた掌に力が入った。 そんなピオニーを宥めるようにアスランは柔らかな口調で声をかける。「陛下。確かに私たちは戦争を必要とするでしょう。それは避けられないことです。 ならば私たちにできることはただ一つ。その成果を確実に得ることです。勝利を勝ち取り、それと引き換えにあの者たちの首を取ればいいのです」 アスランはきっぱりと言い切った。 彼にとって議会の老害がローレライの下に逝くことはすでに確定された未来である。 後はそれが早いか遅いかの違いがあるだけだ。そして彼らが死ぬのならばいかなる犠牲をも厭わない。 自分は陛下を守るために在る。ならば、陛下が陛下であるために為される戦争は忌避すべきものではない。 アスランにとってピオニーはマルクト帝国を背負うことができる唯一の存在である。 この腐敗した帝国の澱みを払い、再生することができるのは彼しかいないと考えている。 幼少期からケテルブルクに軟禁されていたおかげで、議会の連中に接近される機会が無かった。 他の兄弟ならば、皇帝の座と引き換えに何らかの利益を彼らに与えなければならなかっただろう。 ピオニーは清廉である。母の身分も低く厄介な外戚もいない。彼だけが生き残ったのは僥倖であった。 アスランは今一度、彼を守ろうと心に決めた。 彼が民を守るのならば、自分は陛下の御身だけでなくピオニーの御心も守ろうと。 ピオニーの心はまだ揺れているようだった。アスランはそんなピオニーにそっと言葉を続ける。「それでも自分が許せないのならば、死に逝く者に格別の計らいを。そして、手に入れた力を民のために振るわれてください。それが陛下にできることです」「そうだな」 ピオニーは自嘲気味に口元を歪め、その言葉を心の中で反芻した。 そして、アスランを見上げ小さく尋ねる。「それなら、戦争のその先まで俺についてきてくれるか」「もちろん。地獄の底までお付き合い致しますよ」 ピオニーの真剣な声にアスランは穏やかな笑顔を湛えながら迷わず答えた。 遠くの噴水の音が聞こえる。いまだ暗き闇の蔓延る宮中で、アスランは若き皇帝に永遠の忠誠を誓ったのだった。 それから4年、アスランはピオニーの剣として影で振るわれ続けた。そして2018年を迎える。 アスランは今日も執務室を抜け出したピオニーを探していた。 天気が良いから外で昼寝でもしているかと思ったのだが、アスランの読みは外れたようだ。 私室でぼんやりとしている姿をようやく見つける。「陛下。ここにいらっしゃいましたか。……陛下、どうかされましたか?」 いつもならすぐに逃走しようとするのだが、いったいどうされたのだろうか。アスランは疑問に思った。 ピオニーは空になった手をそのままに、ぼんやりと虚空を眺めている。そして、扉の前のアスランに気付き泣きそうな顔で告げる。「アスラン。戦争が始まるぞ」 何かを諦めたような声である。 そういえば、今日の午前にカーティス大佐が和平の使者に任命される予定だった。アスランはすぐにピオニーが暗い理由が分かった。 先ほどの会議で大佐が任命されたのだろう。もう引き返せない。戦争だ。 キムラスカが戦争の準備をしていることは資金や資材の流れで分かっている。いつ戦争が始まってもおかしくない。 ジェイド・カーティスという存在はマルクトに有利な条件で開戦を導いてくれるはずだ。彼以上の適任者はいない。 皇帝の幼馴染みであり懐刀とも呼ばれている人物。彼が使者を務めることは、皇帝が和平を望んでいることを民に示す。 だが、同時に彼は死霊使いと呼ばれるほどキムラスカの軍人を殺した人間である。ローテルロー橋の戦いから前線で活躍しているので向こうも覚えているはずだ。 それに大佐の性格ならば、自然体でキムラスカのプライドを踏み躙るだろう。何気ない挨拶が嫌味に聞こえるのだから。 身分に厳しいキムラスカでは、たかだか佐官が皇帝の名代を名乗り赴いても侮辱されたと門前払いの可能性もある。 そして彼ならば単身、敵地のキムラスカから帰還することも不可能ではない。 戦争には大義名分が必要だ。大義なき戦争に人はついてこない。 ましてやピオニーは先帝とは異なった方針を表明し、その成果を民は賢帝と評しているのだ。 ここで180度方針転換をしては、これまでの4年間の意味がなくなってしまう。 マルクト帝国は新しい皇帝の下で新しい関係を求める。皇帝の親友を使者にしてまでも和平を望んだ。 それにも関わらず、キムラスカ・ランバルディア王国が和平を拒み戦争を選んだことにならなければならない。 こちらの誠心誠意を込めた親書は無情にも付き返されるのである。それが我々のシナリオだ。 茶番である。しかしそれが重要なのだ。議会も将官も分かって備えている。 知らぬは大佐ばかりだが、それでいい。知らないことを誰かに漏らすことはできないのだから。 ジェイド・カーティスは皇帝の親友にして大佐である。皇帝に対して敬語は使うものの傍若無人な態度はそのままだ。 権力者におもねることを良しとはしない。そんな敵の多い彼が無事でいられたのは本人の才能もあるが、皇帝がそれを許容していたからである。 ピオニーは自分を真っ直ぐに見るジェイドを失いたくなかった。皇帝ではないピオニーを見てくれる者はどれだけいるだろうか。 本当は嗜めるべきだろう。だが、ピオニーは皇帝の臣下よりも皇帝の親友を選んだのである。 同時に彼の赤い眼が曇ることを恐れた。皇帝としてピオニーは後ろ暗いことにも手を出している。 それを知られたくなかった。だから、彼はまだ大佐のままでいる。上層部の意向と本人の希望が合致した結果だ。 ピオニーにとってあのケテルブルクの幼少時代は大切な汚したくない思い出である。 フランツと名乗ってネビリム先生の私塾に通っていた頃の記憶は掛け替えのないものだ。だが、同じ時を過ごした4人はもうバラバラだ。 サフィールは亡命してディストとなり、ネフリーとの道も別たれている。そんな中でジェイドだけは傍にいる。 皇帝は孤独なものだ。それを和らげてくれるのはジェイドという幼馴染であり、アスランという側近であった。 今のジェイドの立場はピオニーが皇帝である所為と言っていいだろう。しかしそれ故にジェイドは和平の使者に選ばれた。 ピオニーは葛藤の末、何も知らせないことにした。彼は本心からピオニー陛下が和平を望んでいると告げるだろう。 それを承知の上で、ピオニーはジェイドを和平の使者に任命したのである。「皇帝の親友か……。因果なものだな」「別にいいと思いますよ。彼は軍人ですしね。それに、皇帝の親友というのも悪いことばかりではありませんよ」 アスランはつとめて明るい声を出した。あれからやっと機会が巡ってきたのだ。 迫りくる騒乱の気配を感じながらアスランは暗い期待をしている。それを笑顔で上手に隠した。 ピオニーはその声に反応してつい訊ねる。「皇帝の親友だと何か良いことでもあるのか」「それはもういろいろと。お店で割引もしてくれるみたいですよ」「そりゃいいな。よしっ、今度はジェイドに奢ってもらうとするかっ!」 ピオニーが笑顔になるとそれに応えるように空気が変わる。 さっきまでの雰囲気はどこにいったのか。どの店にしようか、ネフリーと一緒に入れる店は何処だったかとピオニーは悩んでいた。 この光のような皇帝を失いたくないとアスランは思う。 そのためにもまず自分の職務を全うしようと視界の端をよぎった服を掴んだ。「陛下。ブウサギと戯れるのは後になさってください」「アスランッ、見逃してくれ。ネフリーが俺を呼んでいるんだっ!」「そうですか。ならば一緒に参りましょう。執務室にネフリーはいるはずです」 ピオニーは悲痛な声を出しながら助けを求めた。 だがその先にいるのはブウサギである。ゲルダはすやすやと夢を見ており、ジェイドはうるさそうに耳を閉じた。