ティアはダアトの図書館に来ていた。ダアトの図書館の蔵書は多い。童話から学術書まで幅広く収められている。 今回、ティアはケーキのレシピを探しに訪れていた。誕生日を祝われているが、彼らの誕生日を祝ったことはなかった。 フェレス島から避難した者は散り散りになっており連絡がつかない。 ダアトの力でもアリエッタの身元は分からないままだ。アリエッタの誕生日は不明のままである。 だが、ライガクイーンの記憶によると島が沈み始めた頃は、アリエッタはまだ赤ん坊で歩くことも出来なかったらしい。 そのことを考えるとまだ生後6カ月から10か月といったところだろう。 2002年5月41日がホド戦争の開戦した日である。その日、ホドが崩落し始め、その余波を受けてフェレス島も沈み始めた。 逆算するとアリエッタは2001年9月から13月に産まれたということになる。 シンクも誕生日など知らない。いや、正確には気にしていなかった。 シンクの誕生日についてティアはディストに尋ねたことがある。ディストは少し口籠り、言い難そうに告げる。「シンクの誕生日というものはどの時点を指し示すのでしょうね。肉体が作られた日なのか。それとも刷り込みを施された日なのか。 もしくは自我を持った日か。はたまた生きることを決意した日か。私にはこれと言う日を提示することができません」 物憂げにディストはファイルを眺めた。それは実際にレンズから作った薬を投与したレプリカの記録である。 余り思わしくない結果だ。ディストの眼の下には隈が出来ていた。日夜、実験をしているからだろう。 疲れきっているはずなのにディストはティアに向き直ってアドバイスをする。 あなたはシンクの誕生日が知りたいのではなく、シンクの誕生を祝いたいのでしょう? なら、いつだって良いと思いますよ」 確かにシンクは誕生日がいつだろうと拘らないだろうし、むしろ記念日などと言う発想などしなさそうである。 ティアはアリエッタとシンクの誕生日を纏めて祝うことにした。つまり重要なのは祝う心なのである。 そして、ティアは予行演習にケーキを焼こうかと思ったのだが料理本が手元になかったのだ。 そこで本を返しにいくついでにレシピを探していたのだが、図書館でティアは珍しい人間を見つけた。アリエッタである。 日向でアリエッタは大きな図鑑を膝の上に広げてじっと見ている。意外な組み合わせだ。そう思い近づいて小さな声をかける。「何を読んでいるの?」「……虫の絵を見ているの……」 突然、ティアに声をかけられたというのにアリエッタは驚かなかった。どうやらアリエッタはティアよりも先に相手の存在に気づいていたようである。 アリエッタは見開き一杯に描かれている蝶に見入っていた。本物のようで今にも翅を動かして飛びそうである。 その絵の精密さにアリエッタは心から感激していた。 人間はこういうところが凄い。人の強さはその個体の多さと複雑さだ。 身体は弱くても、群れているからこそ弱いままでいられる。強くならずに他のことをすることができる。 ティアもそういった強さを持っている。自分には何が如何凄いのか良く分からないが、それがさらに人間と言う種を強化していることは分かる。 この本の著者も凄い。森で暮らしていたとき、自分はこんなことなど考えたこともない。彼はどんな世界を見ているのだろうか。 蝶の絵の下にはつらつらと分類や生息地、活動時期などが簡単に記載されていた。 ふとアリエッタはイオン様の言葉を思い出す。慣れない文字に苦労していた頃のことである。 イオン様は「ゆっくりで良い」と、絵本をたどたどしく音読していたアリエッタを励ましてくれた。「いやいや勉強しても身に着かないからね。興味あるものから学べばいいと思うよ」 そして、今になってアリエッタはイオン様の言った意味が分かる。アリエッタはこの虫のことを忘れないだろう。 森のことをもっと知りたい。森の中でどんな生き物がどのように暮らしているか。詳しいことが分かれば家族に教えよう。 これは人でもある自分にしかできないことだ。きっと弟や妹も興味深げに話を聞いてくれるだろう。 ティアは大きく描かれた昆虫の節くれだった足を眼に入れてしまった。その絵から視線を逸らしながらアリエッタの話を聞く。 だから、その帯に書かれた名前が目に入らなかった。 【著者紹介】 バルック・ソングラム。1965年生まれ。 幼少のころから昆虫に魅せられ、そのまま昆虫博士になる。 「心を開けば虫は分かってくれる」「虫になった気持ちで虫と触れ合おう」が座右の銘。 主な功績は新種、セレブレイトの発見。昆虫の麻痺、石化耐性に関しての論文。 なお、本人はサーカスの一座『漆黒の夢』の熱狂的なファン。 オベロン社が著しい成長を遂げなかった影響であった。バルック・ソングラムはオベロン社に入社せず、ヒューゴとも出会っていない。 もちろん、自分のような人間を作りたくないと思っている。だが、選んだ手段は力ではなかった。 バルックはキムラスカの生まれだがマルクトの血も引いている。両親は恋愛結婚の末ケセドニアに落ち着いたが、結局バルックが5歳になる前に別れてしまった。 理由は何処にでも転がっているありきたりなものだ。一言でいえば相性が合わなかったということである。 そのころはまだケセドニアは出来たばかりの頃で混沌としていた。今では名実共にケセドニアの顔役であるアスターもまだ若かった為、行き届かないところがあった。 バルックはハーフということで遠巻きにされ、砂の中に住む蠍やオアシスにいる蜂が友だちだった。それがバルックと昆虫たちの出会いである。 大人になっても昆虫に対する情熱は冷めなかった。魔物退治などで食い繋ぎながら彼らのことを学び、彼らの言葉に耳を傾ける。 その集大成がアリエッタの持っている図鑑であった。一角の人物となり、バルックは昆虫生活を極めている。 その傍ら漆黒の夢の一ファン、漆黒の翼の一団員として活動しているのである。 丁寧描写された虫の産毛と光沢のある装甲に目眩を感じた。生理的に受け付けない。 ティアは、そそくさとアリエッタに別れを告げ図書館を後にした。レシピのことを思い出したのは大分後のことだった。 そして、ティアはふとある人物を思い出す。いつもアリエッタが食べているお菓子は彼が作ったものだ。 アリエッタは甘いものも辛いものも両方いけるが、シンクは甘いものが苦手だったはずだ。二人が満足できるケーキなど思い浮かばない。 本職に尋ねる方が早いだろう。さっそくティアはシェフに手紙を書くことにした。 彼は今キムラスカの田舎で素晴らしい料理人に出会い、指導を受けているらしい。行商人も一か月に二度ぐらいしか訪れない辺境のようだ。 彼は何処まで修行をしに行っているのだろうか。返事が来る頃までに贈り物を選んでおこうと思いながらティアは手紙に封をした。 彼から返事でレシピを手に入れたティアは、材料を注文する。兄に二人の休暇を尋ねて日程を合わせた。 そうして準備が整ってから、ティアは二人を整理したディストの研究室に招待したのである。二人は待ち構えていたティアとディストに戸惑う。 そして『お誕生日おめでとう!』と書かれたケーキを見て、図らずも二人は隣の相手が誕生日なのだろうなと同じことを思った。 その二人の心境を察知したティアがすぐに訂正する。「一応、二人の誕生日のつもりなの」 誕生日を祝ってもらったお返しだというティアの説明に、渋々と席に着いたシンクは不満を露わに言い捨てる。「こんなことに何の意味があるんだよ」 シンクは生まれた日に思い入れなど持っていない。余計なお世話である。 無駄な時間だというシンクの態度に、ディストが苦笑しながら誕生日の意味について補足する。「シンク。誕生日を祝うということは、あなたが生まれてきたことに感謝しますということですよ」「はっ。あんたが僕に感謝してるって?」 冗談だろうとでも言うようにシンクは嘲笑した。それは仮面でも隠せない。もとより彼に隠すつもりはなかった。 ディストは自分の此れまでを行状を思い浮かべ、シンクのこの反応も仕方がないかと考えつつ、自分の気持ちを口にする。「ええ、感謝していますよ。あなたのおかげで私はオリジナルとレプリカの違いを理解できました。 ティアに指摘され、あなたという実例を目にして、漸く私はネビリム先生を諦めることができましたからね」 素直にディストから礼を言われ、シンクは言葉に詰まってしまった。何と返せばいいのか迷ってシンクは「別に」とだけ答える。 そんなシンクをディストは温かい眼差しで見守っていた。ディストは製作者としてシンクに対して親のような気持ちを持っている。 本人の前でそんなことを言えば切り刻まれるのは目に見えているので言葉にしたことはないが、こうやって誕生日を祝うぐらいならとディストは張りきっていた。「ディスト。紅茶をお願いできるかしら?」 ティアは仕切り直しにとディストに紅茶を淹れてくれないかと頼んだ。そしてケーキを切り分け皿に盛る。 甘いものを好まないシンクのために甘さ控えめの抹茶のスポンジ。間には生クリームと餡子が挟んであり、どら焼きに近い。 全体的にはアリエッタの好きな和菓子っぽさがある。だが、生クリームを使っている分、紅茶とも相性は悪くないはずだ。 科学の源泉、錬金術は台所から生まれたとも言われている。レシピを手に入れられればティアやディストは美味しいものを作れる。 懐中時計で十分に茶葉を蒸らしたことを確認したディストは、慣れた手つきでポットからお茶をそれぞれのカップに注いだ。 香り立つ紅茶の芳香と甘そうなケーキが気分を変える。アリエッタはさっそくフォークを手にして一口食べた。 ほろ苦いスポンジの間の餡子が美味しい。フォークで少し前よりも大きめに切る。大きく口を開けてそれを味わった。 粒あんが甘さに深みを持たせている。そして抹茶の味が飽きさせない。もう一切れと手を伸ばして止める。 アリエッタは紅茶を飲むことにした。急ぎ過ぎた気がする。まだ、ケーキは残っているのだ。たっぷりとミルクを垂らしたミルクティーにアリエッタは手をかけた。 その様子をティアはじっと見ていた。作った本人としては美味しそうに食べられるのが一番嬉しい。 そしてたわいない話をして、落ち着いたところで贈り物を渡すことにした。 ティアが贈り物として真っ先に思いついたのが服だった。アリエッタもシンクも着られれば良いという考えの持ち主で、会うときは9割9分制服である。 これを機に二人に制服以外の服を着て欲しいものである。手始めに動きやすそうな服からとティアは考えた。 さらに言えば、ティアはプレゼント選びに関してはディストを全く信用していない。そこでいっそのこと連名で贈ろうと思い至ったのである。 アリエッタの服はリグレットと一緒に、シンクの服はディストと選びに行った。 以前はイオンが選んでいたらしいが、あれから2年。アリエッタの身長も伸びている。そろそろ買い替えのときである。リグレットも実は気になっていたらしい。 シンクの服はディスト共に選びに行った。リグレットに紹介してもらったお店だが、ティアはディストが手に取ったものを選別するので大忙しであった。 紫はシンクには早いと説得して漸くまともに選べるようになったが、それまでが大変だった。 それらの贈り物を二人に渡し、なるべく休暇には私服を着るようにと告げる。 シンクはしぶしぶと「師団長が休まなければ、部下が休めないでしょう」との一言に頷いた。 仕事をそっちのけにしているディストが言って良い台詞ではないが、その理屈にシンクは納得する。 そして一際大きな箱は、やはりラルゴからのモノである。お店で何を贈ろうか悩み、結局人形を手にとってしまうところが目に浮かぶ。 アリエッタにはイオンが贈った兎の白バージョン。メッセージカードには『クロウサギのお友達だ。仲良くしてやってくれ』と書かれていた。 アリエッタはそれを取り出し二匹ともぎゅっと抱きしめる。 シンクがその箱を開くと、中で戦隊モノのヒーローたちが決めポーズを取っていた。巷で流行りの彼らである。 シンクはすぐに箱の蓋を閉めた。それ故にメッセージカードの存在には気付きもしなかった。 「何のお人形だった?」というティアの質問をはぐらかしながら、表情を隠せる仮面があって良かったとシンクは心の底から思う。 後でラルゴにどんなお礼をしようかと、シンクは冷めた紅茶を飲みながら真剣に考え込んでいた。