年が明けた。2013年という新しい年を迎えた。 魔界では初日の出を見ることもできない。それでも新年を祝うことはできる。 日の光の射さない地下で祝宴は開かれていた。男も女も、老いも若きも入り乱れ賑やかであった。 魔界の住人は約3000人。全員が探せば上司と部下だとか、叔父と甥だとか、恋人や友人とかいう何らかの関係がある。 隠れ住んでいるため、たいてい魔界出身者同士で結婚する。そのため皆何処かしらで血が繋がっていた。 地縁と血縁という結びつきを宗教という精神的支柱が補強する。そうして一つの共同体が作られていた。 そうでなければ外殻と比べて狭く暗い魔界など2000年の間に、忘れ去られた廃墟になっていただろう。 そんな魔界では、行事は盛大に祝われる。ユリアの生誕祭や感謝祭、新年の祝いもそのうちの一つである。 外界と隔絶され刺激の少ない街であるため適度にガス抜きをするという目的もあるが、それとは別に祭自体なかなか評判は良かった。 祭に合わせて一時的に外殻から帰省する者もおり、宴は入れ替わり立ち替わり人が現れ、普段静かな街は一転騒がしい面を見せる。 その雰囲気にファリアは当初戸惑ったものの、10年以上経てば慣れるものだ。ファリアもその中に交じり楽しんでいる。 少々排他的なところのある魔界では外から来たファリアに対して厳しい視線を向ける者もいたが、それも夫に嫁ぐことで形を潜めた。 ファリア自身も身の置き所ができたとことで、やっと魔界にいる自分を肯定できるようになった。 逃げた末に辿りついた場所としてではなく、自分は好きで此処に居るのだと。 魔界に来て初めは新しい環境に慣れることに忙しく、また忙しいことで何も考えないようにしていた。 赤ん坊や小さな子供の世話をしているとその間は気が紛れた。過去と向き合うことから逃げていた。 そのうちヴァンが魔界から出て、いつの間にかティアの様子が変わった。急激に大人になっていくティアの手助けをした。 親がいないティアに同情していたというのも嘘ではない。だが、それ以上にティアという異分子の側は居心地がよかった。 経緯は違うものの肉親が傍にいない者同士、外から訪れた者同士、共感できる部分があった。 ユリアの子孫という点に拘らなかったのも良かったのだろう。ティアも何かと自分を頼りにしていた。 そして、ティアは外殻に居た頃の科学者であった自分を呼び醒ました。それを切っ掛けにファリアは自分が変わったことを自覚している。 彼女に出会っていなかったら、関わらなかったらどんな今を過ごしていたのだろうか。 科学を捨てたままの自分。魔界から空を見上げ何も知らずに生きていただろう。少なくとも今ほど充実はしていないはずだ。 ティアのあの発見から時の流れは速かった。500年分の積み上がったデータを処理して、解析して、昔の忘れ去られた先人たちの成果を理解して、発表する日々。 体は休む暇もないが、それでも心は満ち足りている。魔界に来て良かったと思う。 娯楽の少ない魔界では祝い事などの噂はすぐに広まる。はにかみながらも応じるファリアは魔界に馴染んでいた。 そして、上手くあしらった彼女はざっと会場を見回し挨拶をしていない人がいないか思い浮かべる。 母の縁者は最初に済ませ、夫の縁者にもさっき顔を合わせた。そもそも二人とも魔界の者にしては親戚付き合いが浅い方である。 ファリアの母の兄は既に亡くなっており、伯父の子供が一番近い親戚になるがお互い存在も知らなかったのである。何処となくぎこちない関係を築いている。 バティスタの両親も彼が小さな頃に亡くなっており、遠縁の者が親代わりだったがそれもなおざりだった。愛想笑いで済ます程度の親しさである。 本当に何から何まで似たもの夫婦だとファリアは思う。だからこそ家族は大事にしたい。 そっとファリアは目立たないお腹を撫でた。此処に新しい命がある。 実感は湧かない。だが、それは事実なのだ。 ほんのちょっとの不安と、それを覆い隠さんばかりの希望。 ティアが魔界を発ってすぐその事実は発覚した。おかげでファリアたちは寂しさを感じる暇もなく新年を迎えている。 今頃ティアは士官学校入学の準備をしているだろう。久しぶりに兄と迎える新年を満喫しているかもしれない。 頬に手を当てファリアはその様子を思い浮かべた。仲の良い二人の兄妹は、きっと外でも変わりないに違いない。「ファリアちゃん。こっちに来て座ったらどうかしら? 立ちっぱなしは身体に悪いでしょう」 おっとりとした聞きなれた声にファリアは振り向き、予想通りの顔に笑顔になる。 魔界に来てから何かとファリアの世話を率先して引き受けてくれたモニーである。 頼る者がいないファリアを受け入れ様々なことを教えてくれた。ファリアにとって祖母のような存在だった。 皺くちゃの顔をさらに歪めて彼女は笑う。その人の良い穏やかな笑顔がファリアは大好きである。 勧められるままに席につき、にこやかに新年の挨拶を告げ日頃の礼を述べた。 彼女は「ファリアちゃんが幸せになって良かったわ」と応じ、次々と料理を目の前の皿に盛る。 「食べ切れるでしょうか」と思案するファリアに「二人分、ちゃんと食べなくちゃね」と告げた。 そう言われては仕方ない。ファリアは箸を手に取った。 程なくして、モニーの隣にいたアイルツはしみじみと出汁巻き卵を眺めながら呟く。「しかし、ティアちゃんが居ないとこの席も寂しいねえ」 出汁巻き卵はティアの好物の一つである。白身魚のホイル蒸し、柚子味噌風味。 きんぴらごぼうにホウレン草のお浸し。昆布巻きに白菜の漬物。 海老のすり身のあんかけ。鳥のささみの梅肉添え。五目御飯に小ぶりのおにぎり。 よく見ればティアの好きな料理ばかりである。そう言えばティアはこの席に入り浸っていたなとファリアは思い出した。 老人の舌にティアの舌が合うのか、それとも彼らがティアの好物を揃えているのか。ファリアはどちらなのか迷った。 正解はどちらでも良いだろう。卵が先か、鶏が先か論ずるのは不毛である。 ティアは和食に飢えていたことも、年をとった彼らと親しくしていたことも事実である。 鰹節や昆布から丁寧に出汁をとった料理はこういった宴席でしか出ず、ティアがとても楽しみにしていた。 また、義祖父は市長という立場であったためティアは既に引退した身である彼らに半ば預けられていた。 普段から「お話聞かせて?」とおねだりをして、老人の長話にも相槌を打って耳を傾けるティアは人気だった。 大人びていると言っても老境に入る者からしてみれば精一杯背伸びしているように見えて微笑ましく思えた。 ティアにしても、自分より確実に年上である彼らには素直に甘えることが出来た存在だった。 ティアは彼らから外のことや歴史を学んだ。ファリアが師匠であるが専ら科学に特化しており、ダアトのことに関しては門外漢であった。 魔界と言う隔離された場所から眺めた外殻での争いは客観的事実に沿って記されていた。 秘預言がある分、神の視点で改竄の余地もない。宗教的な視点を除けば良い教科書であった。 そして、ティアは狂信的な人は避けていたので、後にそうして親しくなった彼らは地下に眠っていた事実を明かされた。 酸いも甘いも知っている、分別のある彼らはうろたえることもせずただその現実を受け止めていた。 彼らだからこそティアは懐き、彼らもティアを可愛がったのだろう。 ティアは年の離れた彼らの席にすんなりと違和感なく溶け込んでいたなと、かつての光景をファリアは思い出した。 「このシジミの味噌汁も好きなんだよね」とまるでそこにティアが居るかのように彼らは話す。 そして、そういえばと話は此処にいない者から新しく訪れる者に移った。暖かな目でファリアのお腹を見つめ問いかける。「名前はもう決めたのかしら?」 親戚の者が付けることもあるが、二人にはそんな存在はいない。 話し合って男の子が生まれたらバティスタが、女の子が生まれたらファリアが名づけると決めた。「はい。女の子なら降り注ぐ光(エルレイン) と」 箸を止め答えるファリアの告げたその名の意味を彼らは読み取る。 ファリアはいずれ訪れる未来に対する願いを込めているのだ。 光。 生命の源。欠くことのできない始まり。魔界に足りないもの。 薄暗く、闇に包まれた世界。魔界と名付けたのは昔の誰かだろうが、随分と自嘲的な名だ。 だが、セフィロトの恩恵を受ける外殻に比べてこの地下は余りにも貧相である。 風も吹かない、生命のない捨てられた土地。紫色のたなびく障気、紫電のプラズマが走る永遠の闇夜。 何故、我々がこんなところで暮らさなければならないのかと一度は問うたことがあった。 しかし、そんな日陰者として過ごした日々が報われるかもしれない。「そうなったら、いろんな花を見てみたいねえ」 ぽつりと漏らされたモニーの言葉は本音である。彼女は生まれてから70年、魔界を出たことがなかった。 青い空も海も、白い雲も見たことがない。彼女の知るそれらは全て紫である。 緑溢れる森も、流れる川も、絵画か想像の中にしか存在しない。花と言えばセレニアの花。真っ白な花しか知らない。 赤やオレンジの花は綺麗なのだろうか。それとも可愛いのだろうか。 甘い香りがするのだろうか。もしかしたらオレンジ色の花からは酸っぱい匂いがするかもしれない。 風が通り、波打つ花畑を見てみたい。光を浴びて咲き誇る花はどんなに輝いて見えるだろうか。 そんな未来の訪れを彼女は楽しみにしていた。 モニーの瞳の奥底にある憧憬を目にして、ファリアは船の上から見下ろした青い海を思い出していた。 船に乗ったことは二度しかない。グランコクマからケセドニアまでと、バチカルからダアトまでの船旅である。 前者は母の死と突然国に追われたことで混乱して景色を見る暇もなかった。少し余裕が出来たのは二度目のときだった。 いや、あのときは海を眺めることしかすることがなかった。3カ月側にいた3人と別れ、独りだった。 まだ城下の警備隊長に過ぎなかったリオンと取引をしてファリアは身の安全を保証してもらい、バチカルで一息ついた。 それがいけなかったのだろう。母を思い出した。女手一つで一人娘を育て上げた母。日を追うごとに込み上げてくるモノがあった。 いつの間にか祖国を離れ、思い出溢れる家から遥か遠いバチカルに居る。心細かった。 スタンもルーティもマリーも大切な旅の仲間である。短い間だったが何度か生死を共にして、心から信頼していた。 でも、それとこれは違う。家族に、母に代わる者はいない。母の死を受け入れても、弔いもできなかったことを悔やんだ。 毒々しい赤い血に倒れ、息を引き取った母はどうなったのだろうか。軍の者に処理されたのか、それとも近所の者が発見したのか。 どちらにしても二度と会えないことは確かである。偽造工作は済んでも当分マルクトに近づかない方が良いと忠告された。 小規模な戦いを度々繰り返している最中のことである。言われなくても帰るつもりはなかった。 帰っても、「おかえり」と出迎えてくれる人はもういない。 ジルクリスト一家は賑やかだった。穏やかで、少し厳しいところのある父親。笑顔が綺麗な、少し天然なところがある母親。 気が強くて、それでいて優しいところある不器用な姉。姉にそっくりで心配性な、それでいて素直じゃない弟。 彼らが良い人過ぎたからこそ、仲が良過ぎたからこそファリアは一層孤独を感じた。 そして、突発的に置き手紙を残して一人船に飛び乗った。家族というものが恋しかった。だから、母の故郷であるユリアシティを目指した。 誰にも声をかけなかったのは、彼らが家族と居る時間を奪いたくなかったからだ。もう彼らには十分世話になっていた。 あのとき船から見た海の景色は今でも覚えている。雲一つない青空で、水平線の先では空と海が交じり合っていた。 カモメが風を受けて空高く飛ぶ穏やかな空から、ときおり思い出したかのように風が吹き、水面にその足跡を残していく。麦穂が揺れているようだった。 刻一刻と表情を変える景色をただ眺め、やがて沈んでいく夕陽が青を赤に染め変えていく様に見惚れた。 その翌日、手紙に気がついた3人に追いつかれ、散々怒られたことも今では良い思い出だ。 彼らが居たおかげでこの街に辿り着き、新しい家族を得ることができた。 魔界の紫色も染め変えることができるのだろうか。赤と青が混ざった紫。なんとなく人を不安にさせる、落ち着かない色。 空と海が真っ青で、大地の緑に光が降り注ぐような、四季折々の花が花開くような未来になれば良い。全てが塗り変わってしまえば良い。 この子のためにも外殻を降下させよう。それが成功すれば、魔界は魔界でなくなり預言に導かれた繁栄がこの街にも訪れるだろう。 そうなれば、この子は幸せに暮らせるはずだ。自分の中で眠っている、まだ見ぬ我が子の将来を想像する。 そして、その存在に励まされ預言を守ろうとファリアは改めて決意した。 ファリアは心の底からそんな神の保証する未来を信じていた。