セティの裏切りが発覚してから、ユリアシティは警戒態勢に移行した。 といってもそれは関係者の極一部であり、具体的にいえば25名である。 あのとき秘預言をティアと共に聞いた研究者15名。そして、テオドーロが報せるべきと判断した10名である。 街の金の管理をする者。 人と物の出入りを管理する者。 綺麗な水の管理をする者。 歴史ある本を管理する者。 そして、市長の片腕である秘書。 テオドーロと共に街の管理を行い、また人格も信頼できるとされた者たちには伝えられた。 さらにテオドーロよりも年配の者たちの数人にも声をかけたのである。 下手に此方から動いても疑いを認めるだけだ。じっと堪えて相手の様子を伺った。 今、外殻に居る者には街に帰って来ないように報せ、街の中の者にもそれとなく訓練を促す。 もしもの場合は、街を捨てて外殻に逃れなければならない。 そのときのために、体力をつける必要がある。今更な気もするが何もしないよりはましである。 オズも万が一の場合は、ただの譜業のふりをするように設定する。 バタバタと慌ただしく準備をしながらユリアシティはダアトの動向を伺っていた。 ティアは予定通り、ダアトに帰った。此処でティアが失踪した方が疑いを招くと考えたからである。 ティアなら、捕えられても殺されることはない。殺された方がましな扱いを受ける可能性は十分にあるが。 いつ大詠師派が自分を捕まえに来るのかとティアは戦々恐々しながら日々を過ごす。 普段通りを装いながらも銃を懐に携帯して、極力出歩かないようにしていた。 だが、それも年が明けるまでであった。 テオドーロから連絡が入り、大詠師派はセティの情報を嘘だと切り捨てたと教えられた。 兄についてそれとなく訊いてみると、普段と変わらないらしい。 ティアはホッと溜息をつき、白衣に忍ばせていた銃を引き出しに戻した。 最悪、ダアトとユリアシティの関係の断絶に至っただろう。補給を抑えられたらお終いである。 知らぬ存ぜぬを貫き通したとしても、アイン・S・アウル博士という前例がある以上誰かが矢面に立たなければならなかった。 その場合、テオドーロが名乗り出る予定となっていた。そうならなくて良かったと安心した。 ティアは一人、地下に向かう。すれ違う顔馴染みに挨拶をしながら、これから敵地に向かう気分である。 この先にディストの研究室である。ティアは兄を一番警戒していた。セティのせいでどれだけの情報が兄に漏れたのかティアは考える。 何事も最悪を想定しておくべきと言う。現実はその斜め上を行くのだから。 さいわい大詠師派から魔界に対しての動きはなかった。 だがモースにセティが接触したのならば、兄にも情報が流れていると考えるべきだろう。そしてその兄からディストへ。 セティは私とは違って一流の科学者だ。生きていれば、より詳しい情報を集めようとすれば、必ずディストが関わってくるはずだ。 女ということでリグレットの可能性もあるが、ディストが知らされていないはずはない。 セティが生きて協力的だとすると、どのくらいの情報が漏れるだろうか。 彼女は古参の方に入るが、若いということもあって科学者としてしか計画には関与していなかった。 それでも外殻降下計画、関与している科学者、アウル博士の正体、オズの存在、001の秘預言の概略。 アインチームでファリアの助手の様な事をしていたので、003のプラネットストームの中身はほぼ伝えられただろう。 何よりもこちらが2018年に動くということを知られたのが痛い。 裏切りが呼び水となってお流れになった物事は一体どれだけ歴史上あるのだろうか。 こちらがそのときまで隠れている予定だったのを崩されてしまった。ここから立て直すのは至難の業である。 ディストの情報とセティの情報がそろえば計画は白日の下に晒されてしまう。 とりあえず、ディストにどこまで漏れているか確認しなければならない。 私は兄の後ろ暗い計画のことなど知ってはいないのだ。モースと兄、兄とディストを結ぶ太いラインなど知らない。 だから普段通り、セティが裏切っていてもディストを訪ねる。ティアはそう自分に言い聞かせた。「ディスト。朗報よ。オベロン社との話が纏まったみたいで、ディスト博士にってデータが届けられたの」 そう言いながらティアは音素結晶化技術の詳細をディストに渡した。その様子は以前とまったく変わりない。 ディストは構えていた自分がおかしいように錯覚しそうになった。 けれども、この目の前の少女はただの少女ではないのだ。 部屋に入ってきたティアは自分の助手だったころと同じように正面の椅子に座る。 サイズの合っていない椅子に少し眉をひそめて座り直すところも変わっていない。 ディストはティアを成長の早い、要領の良い研究者だと思っていた。 関係者は揃いも揃って豪華だが、ティア自体はそこまでではないと。 ティアの発想は素晴らしい。ふと口にする言葉がディストにインスピレーションを与えてくれる。 惜しむらくは本人がそれを扱いきれていないところである。 それも年月を経るとともに磨かれ一流の科学者になれるだろうと、その将来には期待していた。 そう、将来は。いまのティアはただの助手に過ぎない。 少なくともディストはそう考えていた。 だが、真実は違かった。 外殻降下計画の骨格の部分にはティアの助言があったそうだ。おそらく当時は8歳といったところだろう。 ダアトに疑われたときも単身乗り込み、潜伏するどころか六神将と親しくするとは正気の沙汰ではない。 六神将は主席総長の部下であり、その主席総長は大詠師派と見られている。 つまり大詠師派の意向を受けて真っ先に動くのが六神将の率いる部隊なのである。モースは頭が固いかなりの保守派である。 魔界で大地が崩落するときに備えて動いていると知られれば、同郷であっても容赦しないだろう。 ディストは、普段と変わらない冷静な彼女を見た。「どうかした? もしかして話を聞いてなかったの? これが第七音素を結晶化しようとしたときのデータ。無くさないでよ。前みたいに紅茶を溢されたら困るんだから」 ティアは以前のディストの失敗を持ち出して注意した。 ムッとしながら「あのときはデータを復旧するのに三日もかかって大変だったのよ」と告げる。 「そうでしたっけ」と言いながら、ディストは眩しいものを見たかのように目を細めた。 セティの話を聞き、ディストは自分の快適な研究生活のために如何にかしなければならないと思った。だが、事はそう上手くいかない。 ディストはネビリムを復活させるためにモースとヴァンを天秤にかけていた。その過去がディストの足を引っ張るのである。 モースはともかくヴァンはまずい。彼はレプリカを使って人間とレプリカを入れ替えるつもりだ。 彼の下に居れば、ディストの輝かしい発明などなくなってしまう。それは十分に分かっている。 しかしヴァンは謡将であり、詠師でもある。その上の導師は権力など持たず傀儡に過ぎない。 かといってモースも頼るには余りにも心許ない存在であった。そもそも信頼などできない。 魔界という選択肢は初めからなかった。 魔界は余りにも脆弱な組織である。誰にも認知されていないからこそ、安全に計画を進めることができていた。 モースは今回見逃したが、ディストが魔界に行ったとなるとさすがに疑問に思うだろう。 ヴァンも計画を知り過ぎている自分を見逃すはずが無い。自らが火種になるつもりはなかった。 ディストはマルクト帝国からダアトに亡命してきた身である。ダアトを捨てるとなるとキムラスカになる。 元マルクト人の、ダアトから亡命してきた研究者を彼らが信用するだろうか。 第七譜石には滅亡が詠まれていると告げても、頻繁に出入りしているモースとヴァンに引き渡されるのが目に見えている。 マルクト帝国はまた別の意味で頼ることができない。 未だにレプリカ研究を続けている自分をジェイドは嫌悪するだろう。レプリカ研究を止めろと言われるはずである。 しかし、シンクを知ってしまった自分はそんなことできない。彼は私の作品であり、仲間でもある。 それに、幼馴染みのピオニーは皇帝という地位に就いている。かつて亡命した自分を受け入れるために彼はどれだけの労力を払うのか。 そしてディスト自身も何かを差し出さなければ、亡命を無かったことになどできない。 皇帝の死が詠まれている秘預言。確かに価値があるだろう。だが、あの議会がそれだけで黙るはずが無い。もっと形あるものを求めるだろう。 例えば、音素結晶化技術。プラネットストームの状態を知ってしまった以上、安易にそれを漏らすのは憚られる。 八方塞であった。ディストはただヴァンの下で研究するしか道が無かった。 ティアはふと思い出したように、ディストに尋ねる。「そういえばプラネットストームの概略図、ディストが持っているわよね?」「えっ……。ああ、あれですか。此処にはないですけれど、必要になったんですか?」 あれはいまセティのところにある。プラネットストームの完璧な設計図とは興味深い。 いま彼女にその詳細を書き出してもらっているところだ。「いや、ただ見当たらないなってこの前探したのよ。そういえば貸していたかしらって部屋中探した後思い出したの。ただ確認したかっただけ」 ティアはそう言いながらもセティの生存を確認した。 この研究馬鹿の譜業オタクがあんな貴重なものを此処から持ち出すなんて普通はあり得ない。 十中八九、このダアトのどこかにいるセティに渡したのだろう。 ディストは外殻降下計画よりも、自分の探究心を優先している。研究第一ということだろう。 彼が兄の計画に積極的であるという最悪は避けられるようだ。そしてその次に困るのが、彼がマルクトを頼ることである。 分が悪い賭けのような手は好まないが、それに縋るしかない。譜業に目が無い彼を引き留めるには譜業しかないだろう。 そしてティアはおもむろにポケットから小さな譜業を取りだす。「この譜業、修理できないかしら? 古いものっていうのはわかるんだけど、譜業については門外漢だから」 そう言って渡された譜業をディストは受け取り一通り見てみる。かなり古い機構が見られるが、修理できるだろう。 ディストはとりあえず、今は動かずに様子見をすることに決めていた。「ふむ。面白そうな造りをしていますね。いいでしょう。このディスト様に任せなさい! すぐに完璧に元通りにして差し上げますよ!」「ありがとう。助かるわ」 ティアはお礼を口にすると何か躊躇うような間を置いて、そっと喋り始める。「実は、創世暦時代の譜業が見つかったらしいのよ。例によって隠し部屋から。だけど魔界の人は頭でっかちばかりで、手先が器用じゃないの。 ディストがそれをどうにかできるなら、他のも見て欲しいのよ。駄目かしら?」「創世暦時代の譜業ですかっ!」 ディストはティアの言葉に飛びついた。そんなディストの様子を見てティアは苦笑を隠せない。 彼の心境はティアには手に取るように分かった。まだ見ぬ過去の素晴らしい譜業のことを考えているのだろう。 ネビリムへの執着が無くなったディストは一層研究にはまっているようだ。「その様子じゃあ答えは聞くまでもないわね。結晶化技術といいディストを頼ってばかりだわ。私にできることは何かない?」「ふむ。なら一度私を魔界に連れて行ってくれませんかね」「……ディストを魔界に?」「ええ。魔界から外殻に持ち運べるのはせいぜい人が抱えることができるものまででしょう? 私が赴けば、もっと大型の譜業を見ることができます。 ああっ、創世暦時代の完璧な譜業! それに瘴気を寄せ付けないユリアの作った街! まさにこの薔薇のディストの興味に値するモノですよっ!!」 ティアはその意気ごみに引いた。久しぶりに見るディストの興奮状態は目に余るものがある。 距離を取ってから改めて感じるディストの異常性。こうはなれないなとティアは一種の諦めと共に科学者としての敗北感を持った。 兄の計画を如何にかしたい一心で研究に身を置いたが、長年やっていればそれなりの自負心がある。二流と自覚していても、それは変わらない。 そして、研究のためにそれだけの熱意が持てる彼を少しだけ羨ましいと感じた。 ティアには兄を救うという目的がある。だからこそディストのようにはなれない。 そのことは理解しているが、それでもひたむきになれるディストを眩しいとティアは思った。 だからこそ、ティアはこのディストの手助けをついしてしまう。「ユリアシティは閉鎖的な街だから。う~ん、いろいろと手続きは面倒だが如何にかなるかしら? 確かディストは律師だったわよね」「ええ、いつだったか報酬としてあげてもらいましたよ。私はもう此処でしか研究ができませんからね」「一年は待たなければならないでしょうね。これでも早い方なの。その間は小さいので我慢してくれない?」「構いませんよ。むしろ小さい方が洗練した技術が用いられている事の方が多いですからね」「確かにそうね。一定の技術と理解がなければ小さくすることは不可能だわ」 そこから二人の話は技術の発展の仕方、時代の変遷といったものになり昔と同じ光景が広げられる。 そうして表面上はいつもと変わらず二人は笑い合っていた。 しかし、それもティアがあることを思い出すまでである。譜業の話からティアの脳裏にはある記憶が蘇った。 ティアは怒りから声が震えそうになるのを抑える。「ディスト。……あれ、あなたの仕業よね」 ティアが魔界からダアトに戻り、私室に帰って目に入ったものは見る影もない猫と兎と牛の姿であった。 猫はアナログ時計を両腕に抱えており、兎は何故か白衣を着ていた。 牛は胴体の綿が無くなっており、腹には手術痕のようなファスナーがあった。 ラルゴの気持ちを考えて大事に扱っていたのに、このディストに弄られたのである。 箱の中の亀は無事だったが、ティアはかなり怒っていた。それに気づかずディストは譜業について説明する。「ああ、私の改造を見たんですねっ! 素晴らしいでしょう。あの譜業はですね――」 ディストはティアの誕生日に何を贈ろうかと迷い、アニスのことを思い出したのである。 ティアと仲違いをしていた間、ディストはジェイドのことで悩み食堂でもうじうじとしていた。当然、周囲は距離を置いた。 導師守護役になったばかりのアニスは死神と知らずに席が空いているのか尋ね、それを切っ掛けにして二人は話すようになったのである。 アニスが同僚に苛められていたところを見たディストは、アニスの両親から贈られたお気に入りの人形を改造してあげたのだった。 そのときアニスは喜んで、ディストに礼を言った。だから、ディストはティアも喜んでくれるだろうと思って改造したのである。 ディストはティアも嬉しがっていると思いながら、人形の機能について説明する。 牛のぬいぐるみには多くの荷物が入る。ティアの音素に反応して小さくなり、持ち運びしやすくなるのだ。 今はまだ、抱きかかえられる人形分ぐらいの容量しかないが、目標はその3倍である。 兎のぬいぐるみはティアの健康管理を行ってくれる。シンクから倒れたティアの事情を聞いたディストは必要だと思ったのだ。 音素と体調は連動している。記録を取り続ければ、倒れる前に休みを取らせることができるようになる。 猫のぬいぐるみは目覚まし時計である。ヴァンがティアは良く寝坊をすると言っていたので作ってみた。 お腹には再生装置が埋め込まれており、毎朝定時に快適な朝を迎えられる。「それで、猫にはいろんな音が録音できますから。もちろん私の美しい声を録音しても――。……ティア?」 じっと黙って説明を聞いていたティアは、ディストの一言を聞き逃さなかった。 怒りも忘れ、ティアはうっとりと何かを想像しながら呟く。「兄さんの声で目覚める朝。……素敵……」 後日、休日を一日時計の前で過ごしたティアの姿があったという。