ガンガンガンガンガンッ! 金物を打ち合う音が響き渡る。 ティアはその騒音に目を覚まし、見慣れない部屋を見てバチカルに居ることを思い出した。「起きなさ~いっ!」 ルーティの大声がティアのところまで届く。ティアが着替え終わり、朝食のテーブルに着く頃までその音は鳴り止まなかった。 ファリアは懐かしそうに「『死者の目覚め』に耐性がついたのでしょうか」と微笑んでいる。 やっと起きて来た寝癖がついたままの親子に「おはよう」と爽やかに声をかける辺り、ヒューゴ夫妻も只者ではなかった。 朝食を終えると一晩世話になったことに礼を言う。彼らは律儀にもバチカル港まで見送りに来てくれた。 再会を約束したファリアに彼らは大きく手を振って「またな!」と別れを惜しんでいた。 定期船でダアト港に着き、ファリアを涌水洞のところまで送ってダアトに帰ろうとすると、ティアは腕を掴まれた。 ファリアはティアをそのまま魔界に連行する。ティアの仕事があるという反論も「休みは多めに伝えております」と言い封じた。 ティアがユリアの子孫として扱われることを嫌っているのを知ってはいたが、構っていられなかった。 あの日から皆、何処か気もそぞろになり良い雰囲気ではない。普段の落ち着きを取り戻して欲しいとファリアは願っていた。 ユリアロードを使用した先で待っていたのはテオドーロとバティスタだった。 待ち構えられていたことにファリアは驚き、テオドーロに弁解しようとする。それを制してテオドーロは場所を変えた。 地下に行くと思いきやテオドーロの執務室に案内され、そこで二人はセティの失踪を知った。いや、正確には裏切りだった。 セティがモースに接触した後の足取りが追えないらしい。最悪の事態である。 テオドーロはセティの裏切りにユリアの軌跡を想起した。ユリアは七番目の弟子、ダアトに裏切られたのである。 テオドーロは以前バティスタにヴァンが一番と答えてから、ティアが親しくしているのは誰だろうと数えてみた。 ヴァン、自分、ファリア、バティスタと数えていき、七番目の者がセティだった。 同年代の者と喋る姿は余り見られなかったので、テオドーロは彼女の存在を喜んでいた。 誰かが密告する可能性は以前から十分あった。だが、因りによって彼女だとは思いもしなかった。「歴史は繰り返されたのだ。セティは裏切り者である」「そんなっ! 嘘ですわっ。彼女が此処から出られる訳ありませんっ」「ホーリィボトルを使えば問題ではない」「信じたくないのは分かるが、そういうことだ」 ティアはそんな三人のやりとりを何処か上の空で聞いていた。 混乱した頭を冷やしたい。モースに話が漏れれば自然と兄にも話が伝わってしまうだろう。 あのときのミスが此処まで響いてくるだなんて。思わず眉を顰める。 縋りついてきたセティを残して外殻に舞い戻った。声をかけるべきだったのだろうか。 ファリアの相手をバティスタに任せ、テオドーロはティアに向き合った。 テオドーロはこれまでティアを一科学者として扱うように心掛けてきた。 少なくともテオドーロの方からその血筋を率先的に利用することは、してこなかった。 ユリアの子孫であるという事実は余りにも重い。2000年の歴史と信仰は容易くティアの人格を飲み込むだろう。 その願いに潰された孫は見たくなかった。失いたくなかった。 だが、テオドーロは事此処に至って、その禁じ手を使うことにした。「ティア。彼らに声をかけてくれないか?」 ティアはそのすまなさそうな声色から、その意味を悟る。 神話を思い起こさせることで、残ったものを纏め上げなければならない。 それしか方法は無いのである。ティアは静かに頷き了承の意を示す。 快諾を得られたというのにテオドーロは悲しげな顔をしていた。それを認めティアは明るい声をかける。「大丈夫よ。そんなに心配しないで、おじいちゃん」 その言葉にテオドーロは一層自分が矮小であると感じた。不甲斐なさを噛み締め、ティアの背を見つめながら拳を握りしめる。 小さな背中である。小さな肩であった。ティアは振り返らずに先頭を歩いていた。 ティアが三人を連れて地下へと赴くと、気まずい別れをしたにも関わらず皆変わらず出迎える。 いや、歓迎されていた。作業中だというのに手を止めて大袈裟に挨拶をする。 そして口々にセティの裏切りを罵った。ユリアの遺志を蔑ろにするとは間違っていると。外殻を見捨てるとは酷いことであると。 そう言い合いながら彼らはティアの反応を伺っていた。 彼らが何を待っているかティアには、はっきりと分かった。彼らは肯定してほしいのである。 信仰心の一欠片もない自分が彼らの聖女を演じることに躊躇いはある。だが、何でも利用すると誓ったではないか。ならばと、良心に蓋をした。 茶番と分かっていながら、いや、だからこそティアは穏やかに声をかけ、それらしく振る舞おうと心掛ける。 ティアは聖女の仮面を被った。「誰かが裏切る可能性は予想できたものだったはずです。彼女の知っていることは極一部に過ぎません。私たちは、私たちが出来ることをやりましょう。 ユリアは私たちの未来が一つではないと教えてくれました。それはこのまま何もしなければ外殻が崩落してしまうことを意味しています」 そのティアの言葉に浮足立っていた彼らは冷静になった。 改めて現実を認識させられる。もちろん異端者として騎士が差し向けられることに対する恐怖はある。 だが、何もしなければ第七譜石よりも早く滅亡が訪れるのだ。「同時に、私たちがそれを防げるということも。第七譜石に詠まれた滅亡も回避することができるでしょう。ユリアが2000年先の私たちに伝えたかったことは、そういうことでしょう」 ティアはその一言で彼らに免罪符を与えた。 これからすることは人類を滅亡から救う行為なのだと。 聖女ユリアはあなたたちのその行為を容認すると。「私たちが切り開いた先にはきっと新しい道が生まれるでしょう。私はその先で、私たちが自分たちの手で繁栄を築けると信じています」 そして、ティアの一人一人に向ける視線に彼らは喜んだ。 それは芽生えた預言に対する疑惑を凌駕して、彼ら監視者の使命感を刺激する。 ユリアの遺志を守れるのは私たちだけであるという優越感が内部の結束を高めた。 聖女ユリアの幻想は偉大である。 強い思いは大きな力を持つ。その力をティアが扱い切れるかどうかは、まだ分からなかった。 そして、せっかく魔界に来たのだからとティアは002の解凍を済ませた。 そこには大譜歌とローレライとの契約内容が書かれていた。 大譜歌は、ただ歌えば契約できるのではなく第七音素との親和性が高くなければならないらしい。 その点でいえば大譜歌を歌えるのはヴァンとティアだけになる。ローレライは高音を好むので、ティアの方が適していると言える。 ティアはローレライを取り込んだ場合の兄の姿を思い浮かべた。障気に侵されたような片腕はその代償だったのだろう。 ユリアとローレライの契約内容は二つ。 プラネットストームを再構築すること。 障気を無くすこと。 対価としてユリアはその感情を差し出したと書かれていた。失ったものは驚きと怒り。 それを知り、ティアは少しユリアに対する見方が変わった。 何かに驚くことも、怒ることもない人生とはどんなものだろうか。 きっと新鮮さが足りない、味気ないものではないだろうか。 どんな事態にも動じず、全てを許容する聖女。それはそんな感情を失ったからであるならば……。 ティアはそっと目を伏せ、2000年前の聖女の実体を想像した。 ヴァンは教団の地下に赴き一人の女を探していた。 モースから「改革派の下っ端だが、魔界の人間らしいからお前が処理しろ」と押し付けられた女である。 その態度に呆れはしたが興味深い言葉を残して行った。女は「大地が崩落する」と言ったそうだ。 モースは憤慨していたが、ヴァンは何処でそんなことをと疑問に思ったのである。 牢に閉じ込められていた女を連れ出して、ダアトの隠し部屋の一つで話させる。 こちらが優しくするとすぐに喋り出した。女はセティと言うらしい。 涙ながらに訴えるセティの話をヴァンはとても愉快そうに聞いていた。 そしてセティが話終えると、ヴァンは狂ったように笑った。笑い声は暗い地下の一室で反響し、不気味であった。「クククッ、クハハハハハッ!」 その変貌にセティは思わずひっと悲鳴をあげ、あとずさる。 ヴァンはそんな彼女の様子には全く構わなかった。それだけ面白い話だった。 魔界が何かこそこそしていると思っていたが、こんな愉快なことだとは思わなかった。「さすがは聖女の名を冠する街。地下にそんなものを隠してあったとはな。 しかし、ティアが……。魔界で大人しくしていれば良かったものを。……いや、これが宿命なのかもしれんな」 思いがけない事実を前にして、ヴァンは喜びを感じていた。 自分以外にも預言に立ち向かうものがいるということが嬉しかった。 そして自分の妹であるティアも関与しているという事実に心震えた。 そしてヴァンはディストを呼び出す。リグレットは改革派の取り纏めに忙しい。これ以上の問題は抱えきれないだろう。 現れたディストは不満をあらわに、ヴァンに突っかかった。「いったいなんの用ですか、ヴァン! もう私が必要になるようなことなどないでしょう?」「ククッ。ティアが関わっているとしてもか?」「何を言っているんです? ティアを遠ざけているのはあなたじゃないですか」「セティが教えてくれたのだ。魔界の地下で進行中の謀をな。改革派の我が祖父は、ティアを使って外殻大地の降下を企んでいるそうだ」 ヴァンはちらりと部屋の隅で小さくなっているセティを一瞥し、ディストに向き直った。 その表情は自分が口にしていることがおかしくてしょうがないといった様子である。 実際、ヴァンの見たところテオドーロは根っからの預言至上主義者だった。同時に、ティアは誰かのいいなりになるような妹ではなかった。 それでもセティの言葉を否定しないのは、その計画についてもっと聞き出したいからに過ぎない。「はっ? なんですって?」「詳しくはそこのセティに聞くといい。私はこれからやらねばならんことがあるのでな。 セティはこの部屋から出すな。モースに目をつけられている。お前は祖父の計画の詳細について纏めて報告すればいい」 ヴァンは全てをディストに任せると部屋を出て行ってしまった。 取り残されたディストとセティは気まずい雰囲気で顔を見合わせる。 セティはディストにもヴァンにした説明を繰り返す。「テオドーロ市長は恐ろしい人なんです。ティアは祖父に対する思慕の念を利用されているんですっ!」 ディストはこの女性の話を聞きながらおかしいとすぐに思った。 テオドーロが改革派という話は聞いたことがない。 それにティアは家族のことを大事にしているが、だからと言って良いように利用されるような性格はしていない。 女性の言うティアとディストの知っているティアは随分と違うようである。「ティアは私を選んでくれて、私を研究に誘ってくれたんです。一緒に外殻を降下させて預言を守ろうって。ティアは聖女なんですっ。 それなのに市長はそんなティアに嘘をつかせてるんです。全部市長が悪いんです!」 ディストはこの女性の言うティアのことは他の人間のことだと考えるようにした。 聖女という言葉ほどティアに似つかわしくない言葉はない。どちらかというと魔女の方が相応しいのではないだろうか。 あのときの狂ったように笑っていたティアはディストの目から見ても異様だった。 そう考えている間にも、女性はいかにティアが清楚で高潔で知的で聖女らしいか述べる。 そして、その義理の祖父であるテオドーロを何かにつけて非難した。 ディストは極力感情を含ませないようにしてセティに尋ねる。「それで、その卑劣な市長は外殻をどうやって降下させようとしているんです?」「ローレライの力を使って降下させるって。あたしはアインチームだったから詳しくは知りません」「アインチームとは何ですか?」「障気の解析をして障気を無くすことを研究しているんです。降下の際の圧力で障気はディバイディングラインに吸着して地殻と外殻の間に閉じ込められます。 けれどそれは問題の解決にはならないからと、ティアが提案したんです」 また聖女ティアの話になりそうなところをディストは遮った。「ではローレライの力を利用する方のチームは何を?」「アウルチームはローレライの力を解明して、その力を借りる方法を。第七音素に関して調べていたみたいです」「ところで、アイン・S・アウル博士との関係は?」「博士はあたしたちが作り上げた架空の人物です」 セティの話す内容に驚きながらも続きを促す。 そうして得られた情報は、確かにヴァンが笑いたくなるのも仕方がないものばかりだった。 テオドーロ市長が改革派であること。 孫のティアを騙して手駒としていること。 外殻を降下させようとしていること。 アイン、アウルという研究チームがあること。 アウル博士が架空の存在であること。 オズというコンピュータが地下にあること。 それのマスターがティアであること。 001と003の情報、しかしそれは嘘だったこと。 うんざりするような聖女の話を聞き終えて、ディストは頭の中で整理する。 セティの明らかな妄想を除くと得られる情報は限られたものになる。 テオドーロ市長が何らかの企みをしていること。 それにティアも少なからず関与していること。 アクゼリュス崩落を引き金として外殻大地の崩落が起こること。 それを防ぐために降下を計画していること。 その準備段階でローレライと障気の研究をしていること。 その成果をアイン・S・アウルの名で発表していること。 オズという名の巨大な記録に特化した譜業があること。 それの使用者がティアに限定されているということ。 001データに秘預言らしきものが記されていたこと。 003データにプラネットストームの設計図が記されていたこと。 その情報の真偽は定かではないこと。 これが事実ならば、ティアはいつから計画を立てていたのだろうか。 オズを発見したのが7年前らしいので、そんなころからこんな計画を企てていたのか。 だからあんなにも第七音素に興味を持ち、やけに古い音機関に詳しかった。 あのプラネットストームの概略も、意見を聞いてみたかったということだろう。 そうやってティアはディストから情報を引き出していたのだ。欺かれていたことに対してディストは一瞬怒りが湧いた。 だが自分がしていることもそう変わりないではないかと思い、その気持ちはすぐに失せた。 ヴァンの計画を知りレプリカイオンを作り、他にも多様な譜業を作っている。 それが何に使われるかを知っていて、ディストはそれに加担した。 ティアはレプリカイオンとレプリカルークの存在を知っているが、それが何の為だかは知らない。 シンクは危険なところに赴くときの導師の替え玉と説明している。レプリカルークの件も教団の機密だと思っているはずだ。 モースの命令でヴァンが指揮を取っているとでも考えているだろう。 しかし実際は違う。全てはヴァンの計画によるものだ。 シンクどころかイオンまでレプリカだとは思いもしないだろう。預言の詠まれないレプリカを作り、世界を変える。 そんなヴァンの企みは、レプリカを研究できるならばディストは如何でもよかった。過去形である。 私は、ダアトで悠々自適に研究生活をしたいだけなんですが。 ついでにレプリカをどうにかして、あとはタルロウを改良して、それから――。 さて、どうしましょうかね……。 ディストは前途多難であることを自覚した。とりあえず聞いた話を簡単に書き出す。 そしてセティからもっと技術的なことを聞きださなければならないと思い、一つため息をついた。