ローレライ教団本部の地下で、セティはモースを待っていた。 彼は大詠師という七人いる詠師の纏め役であり、また魔界出身者である。 同郷の者の言葉を信じてくれるだろうとセティは信じていた。彼もまた敬虔な信者なのだから。 預言を順守しているタトリン夫妻のおかげでセティは此処まで来られた。「困っている人がいたら助けるものでしょう」 そのタトリン夫妻の言葉にセティは救われたのである。彼らの言う通り、預言は繁栄をもたらす救いなのだ。 決して滅びなどではない。セティはオズの語ったことを全く信じていなかった。 暗い部屋の中で、唯一の光源であるロウソクの灯りが風に煽られて揺らぐ。 それにあわせてセティの影も不気味に伸びて、それが一層セティを不安にさせる。 セティは強く自分の手を握りしめた。全てはセティに懸かっているのである。 セティが此処に居るのはテオドーロの計画を告発するためだった。 セティは若輩ながらも研究者として認められ、外殻降下計画に関わっていた。 年が近いからというよりは、セティが接近したことを切っ掛けに、セティとティアは仲が良くなった。 ユリアの血をひく聖女の末裔。科学者としての輝かしい功績。大人顔負けの知謀。時には自己犠牲も厭わない行動。 まさにティアはセティの思い描いていた聖女ユリアそのものであった。 セティは現代に舞い降りたユリアの再来に近づこうと努力した。 その成果が出たとき、本当に嬉しかった。年相応の一面を見たときは庇護欲が湧きあがり、皮肉気な発言には一層憧れが増した。 何処か浮世離れしているところも、まさに聖女らしいと好意的に捉えていた。 前代未聞である計画についても、彼女が賛同しているのなら正しいことだと賛同した。 ティアは聖女なのだから、預言を守ろうとしているのだ。世界を救ったユリアの血を継ぐ者なのだから当然である。 その計画を担っている自分はなんて幸せなのだろうと思っていた。 しかし、セティの幻想は砕かれた。 あの滅亡の預言をティアは否定しなかった。 追い縋るセティを置いてティアは去っていった。 セティは混乱し、困惑し、悲嘆にくれた。 なんで? どうして? ティアは聖女でしょう? 預言を守るのでしょう? 世界を救うのでしょう? ティアが聖女らしくない行動をするはずないわ。 もしかして、ティアは否定したくとも出来なかったんじゃないかしら。 ティアは優しいから、誰かに騙されちゃったの。 あのオズの記録も全て嘘なんでしょう。だから何も言わなかったのね。 オズのマスターはティアだもの。全て仕組めるわ。 きっとあの市長がティアを唆したのね。 ティアは家族思いだから、逆らえなかったんでしょう。 そうよ、そうに決まってる。 ティアがあたしを裏切るはずないもの。 だってティアはあたしの聖女なんだからっ! あんなに大詠師派を警戒しているんだもの。市長は改革派なんだわ。 預言にない行動を起こそうとしているのよ。 世界を混乱させて、何がしたいのかしら。いえ、どうせ碌でもないことに決まってる。 ああ、そんな恐ろしいことに関わっていただなんて。 誰かに教えなくちゃ。あたししか気付いてないんだもの。 あたしがティアを正してあげなくちゃ。 ティアは聖女なんだから、すぐに目を覚ましてくれるはずよ。 セティは砕け散った幻想の欠片を掻き集め、理想の聖女を描き出す。 そして出来上がったのは彼女だけの聖女。彼女の心の中にしか存在しない。 セティの言葉に頷き、セティに微笑みかけ、セティを待っていてくれる。 その聖女を取り戻すためにセティは立ち上がった。 そしてセティは機会を伺い、ファリアがダアトに赴くときを狙った。 セティ一人ではアラミス涌水洞を突破することはできない。魔物がうろつく迷路のような洞窟。 ファリアが露払いした後なら、どうにかなるだろう。そうセティは安易に考えていた。 途中までは上手く行ったがファリアの背を見失ってしまい、そこからは悲惨だった。暗い洞窟を這って進み、魔物を避けて通る。 ホーリィボトルがなければどうなったか分からない。なんとか洞窟を抜け、第四譜石のところに辿り着いたときはぼろぼろだった。 それでも、あたししか気付いていないの。なけなしの勇気を振り絞り、セティは此処まで来ることができた。 静かな部屋で一人、セティは大詠師モースを待ち望んでいた。「お前がオリバーの言っていた者か? 預言に詠まれていなければ、こうして会うこともなかった。ローレライと聖女ユリアに感謝するんだな」 バタンと扉を開け、その身体を揺らしながらモースはどっかりとセティの前に座った。 モースは会ってやっているという態度を隠さずにセティを一瞥し、さっさと話せと促す。 その様子に落胆と憤りを感じながらもセティは耐えた。 セティが頼れるのはこの同郷の大詠師しかいなかった。それに話を聞けば態度を変えるだろうと思った。 セティは一から順に喋った。 ユリアシティのテオドーロ市長が改革派であること。その市長が進める恐ろしい計画。 そして話がアクゼリュスに至り、外殻大地が崩落するとセティ告げたとき、モースは激怒した。「大人しく聞いておれば、よくもそんなふざけたことをでっちあげられるなっ!」 モースはその巨体に似合わない速さで手を振り上げた。 そして容赦なく目の前の預言を軽んじた小娘にその手を振り下ろす。 パアンッ! セティの頬を叩いた音が地下に鳴り響いた。 その衝撃でセティは倒れ、床に手をつく。じんじんと頬が痛む。 セティは呆然としていた。何が起こったのか、分からなかった。 そんなセティをモースは蔑むような目で見下ろす。「第七譜石には繁栄が詠まれている。大地が崩落することなどない。そんな預言は詠まれておらんのだからな。 嘘をつくにしても、もっとましなものにしろ。おおかたお前が改革派の手先だろう。 私とユリアシティの関係を悪化させようとでも企んでいたのか? 魔界のことに気づいたのは誉めてやるが、無駄だったな」 そう言い捨てるとモースは人を呼んで、部屋を出る。 セティはモースの言う意味をようやく理解して、彼を引き留めようとしたがその手は虚空を掴んだ。 「信じて下さいっ!」と叫ぶセティを何処からか現れた騎士が引きずり、セティは牢に囚われてしまった。 同日、同夜。 聖都の南東、海を越えた先、光の王都にて。 書斎には黒檀の重厚な机が奥にあり、ティアの眼から見ても貴重と言える本がずらりと並んでいた。 ヒューゴは持ち込んだ酒を手にしてティアを相手に話し始める。「カイルと同じ年と聞いていたが、しっかりしているね。あの子はもう少し、落ち着きというものを覚えた方がいい」 言っている内容は厳しいが、表情は孫が可愛くて仕方がないといった様子であった。 食事のときからも分かっていたが、ジルクリスト一家の仲は良いのだろう。 ティアが手持ち無沙汰にしていると、ヒューゴは黒い革張りのソファに座るように勧め自分も向かいの椅子に座る。「君は第七音素を専門としているようだね。博士たちはこの技術を使って何をしたいのかな?」 ヒューゴは率直にティアたちの真意を尋ねた。 ティアは冷えたオレンジジュースをテーブルに置いて、ヒューゴに問い返す。「やはり、ご自分の研究を売買することに抵抗がありますか?」「今の社長はルーティだ。その判断に私が何かするということはない。だが、あの技術を世に出した者として責任を果たさなければならない」「私は、私たちは第七音素の結晶化を目標としています。癒しに特化している第七音素のレンズができれば、様々な可能性が広がるでしょう」「ああ。……だが、それだけではないだろう?」 確かにただそれだけを願うならば、部門ごと購入する必要などない。協力を申し出れば良いのである。 ヒューゴはじっとティアを見つめ、言い逃れは許さないといった様子であった。 口を出すつもりはないと言っていたが、下手なことをいえば資料を破棄することすら辞さないだろう。 ティアは何かを決意するかのように瞼を閉じ、そしてヒューゴに真摯な態度で語る。「時間が、ないんです」 切り出したティアの言葉の続きをヒューゴは待つ。 カランとグラスの中の氷の音が響いた。「生まれつき身体に欠陥があって、あの子が成長期に入ったらもう猶予はないと専門家に言われました」 ティアは、嘘は言わなかった。ただ肝心なことを口にしなかった。 その子供が生まれて2歳であるとか、レプリカであるとか、専門家はディストであるとか。 実際、成長期に入るとレプリカの身体は一気に不安定になる。最悪の場合、乖離してしまう。 おそらくルークが無事に育ったのはローレライの完全同位体であるからだろう。無意識のうちに周囲の第七音素を取りこんでいるはずだ。 だが他のレプリカはルークのような真似は出来ない。何らかの形で意識的に摂取しなければ、そう遠くないうちに消えてしまう。 危険なのはダアト式譜術を使うイオンである。ローレライの解放を行うルークも同じことが言える。 シンクはそういう意味では一番長生きできる可能性があるが、本人の気性から考えると自分から危険に首を突っ込みそうである。 何にせよ第七音素のレンズに手を加えれば、レプリカの身体を維持できる。これはディストとティアの共通見解であった。 あとは、時間との勝負だ。彼らが乖離するのが先か、研究が間に合い、欠損を補完することが出来るか。 しかし、レプリカの話を此処でヒューゴに話す訳にはいかなかった。ティアは俯いていた顔をあげて、ヒューゴに問いかける。「時間が許せば、あなたの信頼を得てから技術を学ぼうとしました。ルーティさんから私たちの故郷について何か聞かれましたか?」「いや、あの娘はただ信頼できる人間とだけ私に言ったよ」 ヒューゴはティアの質問にさらりと答えた。本当に魔界の話は聞いていないようである。 ティアはほっと安堵して、声を潜めながら告げる。「私たちの故郷は、隠れ里のようなものです。人の出入りが厳しいところで、ひっそりと暮らしていました。 しかし、時の流れには逆らえず、櫛の歯が抜けるように人は減っていき、……長である祖父は決断しました」 一呼吸置いてティアはヒューゴの様子を見た。目で続きを促され、続きの話を騙る。「里を開くと。具体的には外に開かれた場所を設けて、緩やかに同化していこうと。 そのとき祖父にこの技術について進言したのです。幸い研究者や譜術師は里に多かったので受け入れられました」 ティアの話を聞いて、ヒューゴはグラスに手を伸ばす。 それを見てティアも喉の渇きを覚えジュースを飲んだ。氷が溶けてきっており、味が薄く感じた。「なるほど、確かに筋は通ってるね。レンズ部門売却を娘に切りだされたときは面食らったよ。 あの技術はそんなに注目されなかったからね。高名な博士の名まで出されてレンブラントは驚いていた」 ヒューゴはレンブラントという名に反応したティアに対して「ああ、彼は私の執事なんだ」と丁寧に説明した。 ティアは覚えのある名に反応しただけだったが、ヒューゴはいいように勘違いしてくれたようである。「レンブラントはいま古巣に顔を出して皆を説得している。アウル博士やディスト博士との共同研究だと張り切っているよ。 疑り深いのは私の悪い癖でね。無駄に構えてしまった。……その、子供の病気は治癒師でも治せないのかい?」 少し歯切れが悪そうにヒューゴはティアに尋ねた。 手に持ったグラスを見つめて首を横に振り、ティアは嘯く。「私自身が第七音素譜術師ですから、真っ先に試しました。治癒師の回復は外傷には良く効きますが、内器官には余り効果がありません。 ですから後はこの技術に頼るしかないんです」「そうか。悪いことを聞いてしまったね」 それから気を取り直すようにティアに障りのない程度でいいからと隠れ里のことについて尋ねてきた。 ヒューゴは考古学者である。興味を持つのは当然だろう。ティアは内心焦りながらも当たり障りないことを答える。 それでもヒューゴの追及や推測は止まることを知らず、ティアが困り果てているところにルーティが現れた。 そしてルーティは立て板に水を流すような勢いで父親を問い質す。 ヒューゴは娘が怒りだしたら自分が折れるしかないと理解していたので、早々に謝りその矛が収まるように尽くした。「父さん! こんな夜遅くまで子供を付き合わせて。カイルはもうベッドで夢を見ている時間よ!」「ああ、分かってるよルーティ。彼女たちは明日帰ってしまうからつい――」「ついじゃないわよっ! お酒まで飲んで、子供相手に何してるのっ!」「悪かったよ。ああっ、もうこんな時間か」「ええ、もう11時過ぎているのよ。まったく、ティアちゃんもこんな酒飲みの相手なんかしなくて良かったのよ」「えっ。その……」「さあ、もう寝ましょうね。客間は二階なのよ」 ルーティの勢いにのまれティアは口を挟むことが全くできなかった。 ティアはルーティに背を押されながら振り返り、「おやすみなさい」とヒューゴに告げる。 ヒューゴは苦笑しながら「こんな時間まで突き合わせて悪かったね」と言い、もう寝るようにと促した。 そうして、ジルクリスト家での一夜は更けていった。