「どうかしたのかい、お嬢さん。ああっ、傷だらけじゃないか。パメラ! パメラ!」「なにかしらオリバー。あら? あらあら、ダメよ。女の子がこんな風じゃ」「えっ? あの、あたしはっ」 ダアトに着き、これからどうしようかと途方に暮れていたところを一組の夫婦に声かけられた。 戸惑っているうちに気の良い夫妻の家に連れて行かれ、そのまま食事まで頂いてしまった。 外殻の人がこんなに優しいだなんて、思ってもいなかった。 だからだろうか、彼女の眼から一筋の涙がツーっと伝い落ちる。 監視されているかもしれないと怯えながら生活していた故郷を後にして、暗い洞窟を這って進みやっと辿り着いた聖都。 安堵と、それから不透明な未来に対しての不安が押し寄せてくる。 婦人の胸に抱きつき年甲斐もなく泣く。声を押し殺しもせず、心中のやるせなさを涙で流そうとした。 そんな彼女の泣き言を婦人は優しい声で聞いてくれる。まるで母のようである。 ますます涙は溢れ「モース様に会わなくちゃいけないのに」と愚痴を漏らしてしまう。 すると、彼女の頭上から思いがけない言葉が飛び出る。「あら、モース様に用事が? オリバー。あなた確か明日お会いするって」「ああ、大丈夫だ。私が伝えておこう」 驚きで、涙も引っ込んでしまった。そしてじっと夫婦の会話に耳を傾ける。 この夫婦はモース様に伝手があるのだろうか。本当にそんな都合の良いことがあるのだろうか。 いや、この親切な人を信じよう。もうあたしには手段を選んでいる暇なんてないのだから。 彼女はおずおずと伝言を頼み、ぺこりと頭を下げる。「じゃあ、同郷の者が会いたがっていると伝えてもらえませんか。あたしセティ・ハニエルと言います」「そう、セティちゃんって言うのね」 食事まで御馳走になって、いまさら自己紹介をしたというのに二人はにこやかである。 つられてセティも笑う。それを見て「あら、笑顔の方が可愛いわね」と呑気なものだった。 そのままセティは一晩世話になることになった。それどころか、モース様に会うまで泊まればいいと言われた。 「ありがとうございます」とセティは心からの感謝を夫妻に告げる。 そして、こんな風に恵まれているのはユリアが私を見守っているからに違いないと思った。 光の王都、バチカル。 下から見上げると上空の城は霞んで見える。街の構造は端的に貴族主義であるキムラスカを表していた。 上に行けば行くほど街の並びは整然としており、道端にゴミ一つないほど綺麗である。 反対に下層は光も十分に差し込まず、混沌としておりスラムができていた。 光の王都と呼ばれているが、光射すところに影はあり、という言葉を体現している。光に惹かれるように人は集まり、あぶれた者は下層に堕ちていく。 貴族が踏ん反り返っているそんな中で、下々に手を差し伸べるナタリア王女の慈悲深い行動は好意的に捉えられていた。 キムラスカ・ランバルディア王国の首都を二人は一日かけて観光した。 ティアにとっては思いがけない再会を果たした次の日、船で移動。そのまま城下が見下ろせる眺めの良い宿に泊まった。 ティアはオラクルに入団したことで、ダアトから出ることも事前に連絡しておけば許されるようになった。 それでも任務以外で遠出したことは無く、始めて見るものが多かった。女二人、ぶらつくだけでも楽しいものである。 バチカルのエレベーターは港と街を繋いでいる。また上層と下層を行き来する手段でもある。 上層のエレベーターには警護のために騎士がついているようだった。 それはともかく、エレベーターの機能は同じでも外観は箱というよりは籠である。 ぐらぐら揺れて柵も腰ぐらいまで、少し身を乗り出せば真下が見える。ティアは公共の交通機関に恐怖した。 闘技場で実際に戦っているところを観戦。 歴代チャンピョンには、マイティ・コングマンの名があった。 引退までチャンピョンで在り続けたようである。 午後はぶらりとウインドウショッピング。 誕生日プレゼントだといってファリアがティアに一着見繕う。黒のマーメイドラインのドレス。 魔界の皆の融資があったらしい。あの宿もテオドーロが手配したそうだ。 それを知ったときティアは戸惑い、そして赤面しそうになった。つまり、今回のバチカル出張はティアへの豪華なプレゼントでもあるのだ。 確かに、14歳の小娘を連れていく必要などない。技術的なことはもっと話が進んでからでも良い。 例えティアが有名な二人の博士の助手だとしても、所詮助手。本人ではない。 テオドーロとファリアたちにティアは、はめられたのである。魔界でにやついているテオドーロの顔が思い浮かぶ。 ティアはため息をついて会談では喋らないようにしようと考え、それからこの休暇を楽しむことにした。 そして、4日。身支度を整えてオベロン社を訪ねる。大通りから一本入った道の右手にその建物はあった。 案内された先には長い黒髪をまとめて結いあげ、シンプルな濃紺のロングドレスを着た女性がいた。いわゆる出来る女である。 しかし、そのイメージも一瞬で崩れ落ちる。「ファリア!?」「お久しぶりですわ。ルーティさん」「あんたが来るなんて聞いてないわよっ」「言っていませんでしたから」 通された部屋で書類を睨んでいた仕事モードのルーティ社長は見る影もない。 それだけファリアとの意図せぬ再会は驚きだったのだろう。 そんなルーティを尻目にファリアは「あら、どうかしましたか」と余裕である。 天然なのかそれとも腹黒なのか、10年以上の付き合いのあるティアでも分からなかった。 オベロン社以外にティアたちがまともに取引できる相手は少ない。 外殻で魔界の存在を知る者は限られている。教団の詠師以上の者に魔界出身者。 例外はおそらく彼らぐらいだろう。ルーティは若いころの冒険のおかげで魔界の存在を知っている。 過去の足跡が見当たらない、しかし大金を持っている連中とまともな取引をしようと思えるだろうか。 ダアトを通さなければ、ティアたちは後ろ暗いところがあると思われてもおかしくない。 そんな事情を抱えるティアたちとオベロン社の話し合いは、ルーティがファリアを歓迎してからはトントン拍子で進んでいた。 ルーティが社長になって社員の数も増え、幹部も入れ替わりがあったようだ。金食い虫のレンズ部門を抱えておくよりは、ということである。 売却先も社長の知己であるファリアがいる。ファリアがケセドニアの責任者なのは、それを考えてのことだろうか。 ティアは予想以上の反応に満足し、ファリアは腹黒であるという方に心の中で一票入れた。 「それで、会社の方で反対されている方などはいらっしゃらないのですか?」 何気なく尋ねたファリアの一言にルーティはちょっと苦笑した。 軋轢は何処にでもある。ましてや、ルーティは社長に就任してからまだ数年しか経っていない。 ティアとファリアは顔を見合わせて、そしてファリアが口火を切った。「できれば私の方からも説得させてほしいですわ。話し合えば分かりあえるはずです」「う~ん、その気持ちは嬉しいんだけど。まずはこっちでなんとかしてみるから」「そうですか。余計なことを言ってしまいましたわね。その方がよろしければこちらに移っていただくこともあるでしょう」 あとは細かい部分をすり合わせて行くだけである。それは今日ここで行わなければならないことではない。 ルーティはほっと一息つくとファリアとティアを屋敷に招待した。 ヒューゴ・ジルクリストは騎士階級に属しており、貴族の端くれである。 といっても三男の彼は親から継ぐものもたいしてなく、本に埋もれた貧乏な生活を送るのだろうと予想していた。 だが、何の因果か三人いる兄弟の中でヒューゴが今は一番貴族らしい生活を送っている。 ジルクリスト家の屋敷は中流階級の者が住んでいる場所の奥、静かな一角にあった。 なんでも会社が一段落ついたときにクリスの静養も兼ねて屋敷を購入したそうだ。 元の身分はそこまで高くないヒューゴが此処の家を購入できるということは、やはり金は力なのだろう。 階級意識が高いキムラスカでは、高位の者はそれにふさわしい振る舞いをしなければならない。 長い歴史ある家だと必ず一人や二人必要以上に羽目を外す者が居り、その煽りを子孫が受けるのである。 抵当に入れた屋敷を手放さなければならなくなった貴族がいたのだろう。ティアは如何にも貴族らしい邸宅に少し気後れしていた。 食事は無駄に豪華ではなく普通の家庭料理で、だがそれでも歓迎しているという気持ちが伝わってくるものだった。 扉から正面にヒューゴ、右側奥からクリス、スタン、カイル。左側にルーティ、ファリア、ティアである。 ところどころ違う。記憶では金髪のはずのスタンやカイルが茶髪だったり、ルーティがロングだったりしている。 その微妙な差異に気づく度に複雑な気分になる。混同するなと訴えかけられている気がして、ティアは余り顔を見られなかった。 だいたいはスタンやルーティが昔の話をして、ファリアが補足し、それに皆相槌を打つといった様子だった。 ヒューゴ夫妻は楽しそうに聞き役に回っている。一人息子であるカイルは主夫と化している父の若かりし頃の話に食いついていた。 スタンが席をはずしている間に、カイルが父親について評する。「いつも家でごろごろしている父さんが強いだなんて信じられないや」「スタンさんとルーティさんは強かったですよ」「エミリオ叔父さんぐらい? 俺、将来は強くなって叔父さんみたいに将軍になるんだ!」 カイルはエミリオ叔父さんの凄さをファリアに語った。そんな彼にファリアは「私も彼にお世話になりましたわ」と頷く。 エミリオ・マグナス。旧姓ジルクリストは仕官してすぐに持ち前の優秀さで順調に出世していた。 14年前にファリアの身柄の安全を情報と引き換えに守ることを約束し、本人はそれを手柄にしてさらに昇進した。 その後、武門で有名なマグナス子爵家令嬢と結婚。史上最年少で将軍となっている。 ティアは頭の中でカイルの話を整理して、英雄ではなく将軍に憧れているのかと思った。 カイルは「今度はいつ叔父さんに会えるの」とルーティに尋ねている。姉弟仲も悪くないようである。ティアはそっと笑みを漏らした。 喋ってばかりのカイルにルーティは母親らしく、好き嫌いしないように告げる。「カイル。そんなに強くなりたいなら、まずピーマンぐらい食べられるようになりなさい」「え~、苦いもん。なんでピーマンなんか出すんだよ。やっぱり父さんは嫌いだ」「えっ、これスタンさんが料理されたのですか?」「何もしないのは嫌だって言って今では家事のエキスパートよ。ほら、カイル。ロニだったら一口よ」「う~、こんなのを食べれるロニは凄いや」 知らない名にファリアが不思議そうな顔をして、ティアもその名に反応した。 それを察したルーティは野菜炒めを突いているカイルを叱りつつ説明する。「ロニは院を卒業した子よ。面倒見がいいからカイルが懐いているの」「そういえばルーティさんは孤児院を世話していましたね」「良い子たちばかりよ」 オベロン社はいくつか孤児院を経営している。ロニはそのうちの一つに住んでいた。今は社員寮にいる。 ルーティは若いころ貴族相手に商売をして媚びている家に反抗し、バチカルの下層に住む孤児たちの面倒を見ていた。 そして金を稼ぐために傭兵の真似事を始め、そのときマリーと出会った。実はマリーはヒューゴが雇っていたらしい。 そんなことにも気付かず、ルーティは奔放に旅をした。その間、弟のエミリオは家のために仕官までしていたにも関わらず、である。 ジルクリスト家の立場は低く、自分が軍で活躍すれば家の商売がもっと楽になるとエミリオは考えていた。 旅の間に、ルーティはいろんな街を訪れた。そして何処にでも孤児は存在した。彼らをどうにかするには独力では限界がある。 そのことを悟ったルーティはバチカルに戻り、家族と和解。会社を継ぐ決意をした。 個人の力ではどうにもならないこともある。そして、お金をただ施すだけでは根本的な解決にはならない。 だからルーティは会社を通して安価な雑貨の組み立てを彼らに依頼したり、勉強の機会を作ったりした。 そうして設立した孤児院から卒業して、入社したのがロニである。ロニは会社で良い働きをしている。 「社長のおかげです」と彼に言われたとき、会社を継いで良かったとルーティは思った。 そんなことを思い出していたルーティに、そういえばとファリアが城下で聞いた話をする。「ナタリア殿下は慈悲深い方だとか。ルーティさんはお会いしたことなどは?」「う~ん、まあ、ね。孤児院を訪問して子供たちにお菓子を配っていたわ」「まあ、本当にお優しい方なんですね」 ファリアの一言にルーティの眉間に皺が寄った。 そして、皿の上の野菜にグサリとフォークを突き刺しながらルーティは不満を述べる。「上からお恵みを施す方は満足でしょうけど、それじゃあ何の解決にもならないわ。そんなことも分かってない人間が多すぎるのよっ」「ルーティ」 声を荒げるルーティをヒューゴが客の前だろうと嗜めた。 ルーティは返事の代わりにグラスの中のワインを一気に飲み、空の器をテーブルに置いた。「分かっているわよ。殿下はまだ若いから、未来に期待しとくわ」「何もしないよりは良いことだと思いますわ。身寄りのない子供たちにとって殿下は希望でしょう」 ファリアのフォローに対して、ルーティは「そうね」と短く答えた。 下層で明日の食事の保証もない生活を送っているものが居るということを知っている貴族がどれだけいるか。 知ってはいても自らそこに足を運ぶものがどれだけいるか。 あのお姫様がもう少し年を取って、物事の裏を読めるようになればもしかしたらとルーティは期待することにした。 そんな雰囲気の中に、席をはずしていたスタンが皿を持ってきた。「まあまあ、これでも食べて落ち着いて。俺の自信作だぜ」 ライスには茶色のルゥがかかっており、一見するとカレーのようである。 しかし、そのルゥから覗く白い立方体と香る中華風のスパイスが違うと訴えてくる。 スタンの声にルーティはスプーンを片手に恐る恐る口にして、驚く。「あれっ? おいしい」「だろっ! いやーリリスに教えてもらったんだよ。コツがあるんだ」 ルーティの反応を見て、皆は食事を再開する。 スタンはその間にも、鍋の火加減がどうの、スパイスを入れるタイミングがどうのと語っていた。「う、うまいっ!」 息子にも好評のようである。「スタンさん。これはカレーですか?」「いや、これはマーボカレーと言う」 ファリアの問いにスタンは胸を張って答えた。 ティアは予想外の料理に、これが本場の味かと頷きながら食べていた。 食事が終わるとカイルはもう寝る時間だと寝室にルーティが連れて行く。 クリスもそれに倣う。倒れてから持ち直したが体調が崩れやすいそうだ。 スタンとファリアは悩み多き夫婦生活についての愚痴を語りだしている。 余ったティアはヒューゴに誘われて書斎についていった。 バチカルの夜は長い。そしてダアトの夜も長かった。